【091】閣下、法を定める
「やあ、リヒャルト」
キースが去り――日付が変わってから、テサジーク侯爵がリリエンタールの元へとやってきた。
一人きりでソファーに腰掛けステッキに手を乗せていたリリエンタールは、
「フランシスか」
そう言うと立ち上がった――リリエンタールは人を出迎えることはなく、入室した相手を出迎えるため、立ち上がることはない。
なので、”あ、まずいな……”そうテサジーク侯爵が思った時には、足の裏は床から離れ、背中が壁に吸い込まれるよう飛ばされた。
上質な壁紙と背中がぴったりと合わさり――ステッキの先端が、喉仏に突きつけられていた。
殴り飛ばされ壁に叩きつけられたのだが、テサジーク侯爵の背中はほとんど痛まない。
「娘を使うな」
ステッキの先端に、僅かに力が籠もる。
少しでも動けば、喉を潰されるのは明らかだった。
動きは意図した物ではなく、生理的なものであろうとも、リリエンタールが容赦しないのは、テサジーク侯爵でなくとも分かる。
「娘の前で、ヴィクトリアの妊娠の話をするとは」
「……」
あのタイミングでヴィクトリアが身籠もっている話をする必要はなかった。キースと二人きりになってから、話すことも可能だった。
だが、敢えてあの場で――クローヴィスが居る場所で触れた。
「メッツァスタヤだものな。王の血を引く者は、殺したくはないか」
「…………」
専制君主制国家だった頃ならば、駆け引きも根回しも必要なく、ただ王家と影の契約だけで、助命することは可能だが、国体が変わった以上、これに関しても新たな決まりが必要になる。
ただ過渡期というものは、事態の解決を専ら暴力に頼りがち――女王を腹の子ごと殺害する方向に、傾きかねない。
だからテサジーク侯爵は、この変遷する時代、もっとも確実な手を打つ――リリエンタールへの変則的な協力。
「ヴィクトリアの妊娠を知った娘は、思うことがあろうが、無事生まれることを願う……と、キースが言っていた。わたしやお前よりも、娘の感情を理解できるキースが言っているのだ、間違いはあるまい」
イヴ・クローヴィスという、優しい庶民の善意を盾に取った――つもりだった。
自分の首にステッキの先端を押しつけている、白い手袋をはめた燕尾服姿のリリエンタールは、
「お前ならば、そうすると思っていたぞ、フランシス」
「…………」
そうするだろうと、分かっていた。
あらかじめキースに告げ、クローヴィスを退室させるよう指示することもできたが、リリエンタールはそうしなかった。
「この手は、二度と使えぬ。お前ならば分かっているであろうが」
「…………」
「メッツァスタヤにとって、王家の血筋を守ること以上に、大事なことはないから、構わぬのかも知れぬが」
「…………」
「娘に知られた以上、責任はとれ。娘は優しい、いかなる病に罹ろうとも、落胤は決して死なせてはならん。落胤は必ず生まれ、元気に育つ。分かったな? 娘の前で語るというのは、そういうことだ」
「…………」
「この一件に関し、クリストフに責任を取らせたことは、まあ評価してやろう」
そこまで言うと、リリエンタールはテサジーク侯爵の喉仏からステッキの先端を外す。
テサジーク侯爵は押されていた喉を撫でながら笑う。
「罠だとは思ったんだけどさー」
「罠に掛かるとは、お前らしくないな、フランシス」
「だって、そのくらいしないとね。あ、父親の死体、確認する?」
「要らぬ。どうしても確認して欲しいというのであれば、ハインリヒに確認させるが。あれに確認させると、実験の試料として、持ち帰ってくるであろうが」
「あんまり役に立たなそうなんだけど、お持ち帰りは自由にしていいよ」
「本当に、お前という男は」
そんな話をし――テサジーク侯爵が使用人の動きでドアを開け、頭を下げ、リリエンタールは部屋をあとにした。
**********
キースとの会談を終えた翌日――
「ほんと、凄いよね、彼」
リリエンタールが所有する車両基地に、関係者たちは足を運んでいた。
「ヴィート・シェベクなど、リーンハルトの相手にはならぬ」
蒸気機関車車両基地の所有者であるリリエンタールに、テサジーク侯爵。
テサジーク侯爵はあの後泊まり、一緒にやってきた。
「腹立たしい面が並んでいやがる」
手足を縛られて並べられている、腹立たしい面を一瞥し、吐き捨てるように言うキース。
「同じことを、そいつ等もキース閣下に言いたいことでしょうな」
リリエンタールへ報告のためにやってきたヒースコートが、笑いながら言う。
「そっくりそのまま、お前に返すぞ、ヒースコート」
室内には他に、並べられているシェベク隊の半数ほどの、リリエンタールの私兵が完全武装で待機している。
それらを指揮するのは、アイヒベルク伯爵。
リリエンタールが所有する車両基地は、所有している車両数も多いことから大きく――また豊富な資金力で、様々な設備が整っている。
捕らえたシェベクたちを並べているのは、大きな汎用ホール。
部品を整備したり、開発したりなどに使用されている――捕らえた者たちを並べるのは、初めてのことだった。
室内は凍えるほどではないが、暖かいというほどでもなく、捕らえられた者たちは防寒着を脱がされているので寒いが、死ぬほどではなく、リリエンタールたちは防寒着を着たまま。
ロスカネフ軍人たちは、足首まである軍用のロングフレアコート。
リリエンタールとアイヒベルク伯爵はチェスターコート……ただし二人のコートには少々値段の差がある。
リリエンタールは一人の男に近づき、顎にステッキを当て、顔を上げさせる。
「間違いないな」
この検分が終われば、クローヴィスに会えるリリエンタールは、ことのほか機嫌が良かった――もちろん、他者にはほとんど伝わっていないし、もしも機嫌が良いのが分かるものがいたとしても、クローヴィスに結び付けられなければ、意味不明なので恐ろしさが増すだけだが。
そのクローヴィスだが、今回の事件の全容解明のために、モーデュソン邸に本部を設置するに辺り、司令官室を整えておくよう指示され、リーツマン少尉とともに準備に精を出している。
【きさ……】
リリエンタールに唾を吐きかけてやろうと思っていたシェベクだが、顎の下を棘がついているステッキの先で容赦なく押され、それどころではなかった。
そんなシェベクの様子など気にせず、
「戴冠式を終えたクサーヴァーがこちらへ来るであろうから、それに預ける。そうは言っても、あの若いのは護送などは素人だから、リーンハルト手助けしてやれ」
バッケスホーフが来る、という連絡など届いていないが、
「御意」
あの若いのが派遣されるのは、リリエンタールは分かっている。
リリエンタールはシェベクの顎の下に当てていたステッキを引き抜き、頬をシャフトで殴り付ける。
人体急所を容赦なく張られたシェベクは、手足首を縛られていることもあり、崩れるように横に倒れる。
戦争経験者なので、殴られたことはすぐに理解したが、目眩はすぐには治らず、体は力なく崩れたまま、口からは無意識にうめき声が漏れる。
リリエンタールがそんなシェベクを気にするはずもなく、ステッキを床につきなおし、分かり易い庶民が使うフォルズベーグ語で、シェベク隊が国際軍事裁判に掛けられることを教え、連合軍時代にシェベク隊に属していなかった者たちは、罰金刑の不法入国罪のみで解放されるので、申し出るよう――天井の高いホールに、低く熱はないが、よく通る声で語った。
国際軍事裁判という、聞き慣れない言葉に怖じ気づいたフォルズベーグ国民は、すぐさま名乗り出て――数名、フォルズベーグ民に成りすまそうとしたのがいたが、
「騙されると思ったのか!」
顔を覚えていたキースに蹴られたり、
「一人二人くらいは、捕らえる時に死亡……で問題はないからな」
同じく顔を覚えているヒースコートに、実弾入りの拳銃の銃口を眼球に押し当てられたり。
【お前たちとは違い、軍高官として忙しい二人を、何故呼んだのかも理解できないとは……愚かだ】
シェベク隊に分かるように、彼らの母国語で、呟きにしては大声でリリエンタールは語る。
【愚かだから、君がいるロスカネフに不法入国してきたんだよ。普通は来ないからね。共産連邦の高官だって、君を怖がって避けるからね】
【怖がりすぎではないか? わたしは、ただ翻弄されるだけの男だぞ】
【ふふふ……まあ、そういうことにしておくよ】
答え合わせのために呼ばれた最後の一人、テサジーク侯爵も同じく通じるように。
仕分けが終わると、リリエンタールたちはホールを後にし、
「ところで、リリエンタール閣下」
「なんだ? キース」
「国際軍事裁判とはなんですか? 寡聞にして存じないのですが」
「それか。言葉で脅かそうと思い、少しばかり固い言葉を並べただけだ」
「…………」
「言った以上は、体裁を整えて国際軍事裁判を開きはする。ヴィルヘルムは法を上手く使い、有利にことを運ぶであろうよ」
「大事ですな」
「いずれ、その法廷でアナスタシアたちを殺害したものを裁く。法に則り、もと婚約者の無念を晴らすのは、娘の意に沿うと思うのだが。どうだ? キース」
「宜しいのでは、ないでしょうか」
「では、それが叶う法を作らねばな。ん? 法というのは、為政者が政をし易いように作る決まり事だ。バカはあからさまな法を作るが、アウグストであれば、衆目を誤魔化す見事な法を作るであろうよ」
「あなたが作られても、よろしいのでは?」
「作れぬわけではないが、そんなことより、娘との残り少ない時間を大事に過ごしたい」
そのような会話をしながら、旧モーデュソン邸へと向かった。
捕らえられ、分けられた彼らはしばらくの間、死にはしないが逃げられないような室温のコンテナに閉じ込められ、どちらもやって来たクサーヴァーに引き渡され、アイヒベルク伯爵の補佐のもと、ロスカネフ王国から出ていった。
ヴィート・シェベクはリリエンタールに直接悪態の一つも付きたかったようだが、リリエンタールは、そんな希望を叶えてやる筋合いもなければ、そんな暇もなく、なにより――
「この蛮行に対する刑罰が制定なされていないとは……おのれ、イグナーツ・シュテルンめ……」
軍の廃棄品の横流しは罪だが、それを使っての行為に関し、ロスカネフ王国の法律では、どうやっても罰することはできなかった。
「法がない以上、これに関しては罪には問えません……腹立たしい限りですが」
キースの本心としても、殺しはしないが、瀕死になるくらいまで、殴ってもいいのではないか……だが、あくまでも法律を守る立場なので、そんなことはできない。
「専制君主であれば、簡単に法を制定できるのだが」
「やめろ、ツェサレーヴィチ」