【009】王弟、調査を依頼する
ガイドリクスは別れた元妻マリーチェに仕えている使用人たちが、帰国のために荷物をまとめているのを、元妻に与えた棟の反対側のテラスから眺めていた。
マリーチェが持ち帰るのは持参金と、自分の資産で買ったドレスや宝飾品。
ガイドリクスが買い与えたものに関しては、気に入ったものを実費で買い取り持ち帰る決まりとなっている。
マリーチェはいくつかの宝飾品を買い取った。
心を通じ合わせることのできなかった元妻が、自分が贈った品のいくつかは気に入ってくれていたことを知り、ガイドリクスはなんとなくだが安堵したのも事実だった。
白ワインが注がれたグラスを手に、明かりが灯った部屋を忙しなく走り回るマリーチェの使用人たち ―― ガイドリクスとマリーチェの離婚は、あっさりとしたものだった。
王族の婚姻は国同士の折り合いがつかなくなれば、すぐに解消されるもの。
ましてやマリーチェはガイドリクスではない男 ―― リリエンタールの部下の一人に嫁入り直前に一目惚れして以来、ずっとその人物を想っていることはガイドリクスも知っている。
王族の結婚など「そういうものだ」と分かっているので、それに関してとくに指摘することはなかった。
だからというわけではないが、ガイドリクスはマリーチェのことを、女性として愛する感情を持てなかった。
むろん王族同士の婚姻ゆえ、肌を重ねることは無数にあったが、そこにあったのは愛ではなく責務と情。
そのような関係なのだから、本来であれば情をいだくものではない。
リリエンタールのように抱いた女にたいして一切の情を持つことなく、いつでも切り捨てられるようでなくてはいけないと、ガイドリクスも思っているのだが、あそこまで冷酷に切り捨てられなかった。
ガイドリクスも生まれたときから王族。庶民と比べれば、人を切り捨てることができる冷酷さを充分持ち合わせているが、リリエンタールほどにはなれなかった。
だからこそ、恋をしたマリーチェのことを許容できた。
好意を抱けぬ相手と結婚しなくてはならないマリーチェが、少しでも幸せであれば ―― マリーチェは彼女が焦がれた相手とはなにごともない。
隠れてなにかをしている事があったかも知れないが、リリエンタールが「ヴィーシャとマリーチェの間にはなにごともない」と通達してきているので、それを信じた。
ガイドリクスとしても感情の起伏が激しく、隠しごとが苦手なマリーチェがリリエンタールの部下と関係を持ったようには見えなかったこともある。
マリーチェが上手く騙し果せたのだとしたら、ガイドリクスは拍手をしてマリーチェをたたえたし、リリエンタールも王となるガイドリクスの妃として認めた。
王妃には相応しくないとして離婚されたマリーチェだからこそ、ガイドリクスはリリエンタールの言葉を全面的に受け入れた ―― 離婚が決定してから本当に信じられるというのは滑稽だが、結婚期間中裏切られていなかったことを知れたのは、ガイドリクスにとっては喜ばしいことであった。
マリーチェが恋をした相手の名は『ジークムント・ヴィークトル・マテウス・フォン・リースフェルト』
リリエンタールが当主をつとめる、大陸でもっとも古く現在でも権威ある家柄に連なる若者。
彼はリリエンタールの伯父の非嫡出子の息子と、当主のリリエンタールが認めているので出自としては低いものではない。
ヴィーシャことヴィークトルはこの国にきた当時マリーチェと同い年くらい ―― 十五、六歳ほどだった。
ガイドリクスが初めてみたヴィーシャは一言で表せば美少年だったが、その一言では言い表せない雰囲気があった。
少年と青年の境界線に立つ、狼を思わせる琥珀色の瞳は年に似合わぬ憂いを含み、癖のある灰色の髪は、肌理細やかな白皙と相俟って彫刻のような佇まい。
三年ほど前に自分のもとに配属されたクローヴィスを見るまで、ガイドリクスにとってヴィーシャはもっとも美しい人間であった。
クローヴィスを知ったあとでも、ガイドリクスにとってヴィーシャの容貌は色褪せてはいないが ――
ガイドリクスも自身の容姿が整っていることは自覚している。
むろん過剰に誇ったりなどはしないが、卑下するような容姿ではないことは理解し振る舞っている。
ただヴィーシャとガイドリクスの容姿から受ける雰囲気は正反対。
華やかさのあるガイドリクスと、どちらかと言えば静寂な雰囲気を持つヴィーシャ。後者に恋をしたマリーチェが、ガイドリクスに歩み寄らなかったのも仕方のないことだと ―― ガイドリクスは王族であるがゆえに「分かっている、だから諦める。仕方ないことだから」が多い男であった。
「再婚相手はどうしたものか」
数日後には故国へと帰る元妻を眺めながら、ガイドリクスはワインを煽る。
マリーチェとの間に子供ができなかったガイドリクスは、結婚を焦っていた。
王族の結婚は跡取りを得るのが目的であり、跡取りを作るのは義務。
王に即位するのであれば ―― 三十五歳のガイドリクスにとって、王妃を迎え跡取りをもうけるのはなにを差し置いても急がねばならないことなのだが、
―― いまはフロゲッセルについてだ
得体の知れない存在イーナ・ヴァン・フロゲッセルにまとわりつかれている今、妃という存在を迎えることはできなかった。
ガイドリクスがイーナという王立学習院の女子生徒と引き合わされたのは、つい最近のこと。
引き合わせたのは姪の婚約者セイクリッド。
―― ハンネスが気付いてくれなければ、騙されるところだった
セイクリッドはイーナをガイドリクスの叔母の孫と紹介した。
ガイドリクスの叔母は亡国ルースに嫁いだアレクサンドラしかいない ―― イーナはアレクサンドラの孫なのだと。
イーナという娘に叔母の面影を見つけることはできなかったが、ロスカネフの王家であるエフェルク家はアブスブルゴル帝国のマリエンブルク家と違い、過度の血族結婚を繰り返してはいないので、王族なら確実に持ち合わせているという特徴もない。
王族の隠し子と名乗るやからは非常に多く、イーナも最初はその類いだろうとガイドリクスも醒めた目を向けていたが、差し出された金の延べ棒の刻印を見て愕然とした。
叔母がルース帝国に嫁ぐさいに”のみ”使われた刻印があったのだ。
本物かどうかを確認したいと受け取り、信頼しているハンネスに本物かどうかを調べるよう指示し ―― 受け取った瞬間、ハンネスは偽物だと看破した。
叔母の嫁入りの際に作った金の延べ棒は、目録にはK24と書かれていたが、実際はK22とK18のみでK24は一つもなかった。
イーナから渡された金の延べ棒の刻印は本物だが、金の延べ棒そのものが違う。
―― フロゲッセルは財務長官ヒルシュフェルトの息子とも親しい……息子を足がかりとして、刻印を管理しているヒルシュフェルトに近づいたとみるべきだろうな。だがヒルシュフェルトの息子以外と親しくなる理由が思いつかない。それにしても金の延べ棒を目録通り再現したことで、逆に疑われることになるとは、世の中分からないものだな
イーナがただの貧乏男爵家の令嬢であるならば、有無を言わせず逮捕して尋問することもできるが、財務長官を味方につけているとなるとそう簡単にはいかない。
―― 宰相の甥と隣国の王女を娶った公爵家の息子まで味方につけているのが厄介だ。……学生三名はともかく、プリンシラは一体……
ガイドリクスは先日初めて学習院でイーナとその学友たち全員と一堂に会したのだが、その場に海軍将校のプリンシラがいたのも気になった。
王立学習院の学生や、理事を務めているガイドリクスならば、学習院に足を運んでもおかしくはないが、プリンシラは学習院の経営になんら関係していない海軍長官の息子でプリンシラ自身、学習院の卒業生というだけ。
―― エクロースまでフロゲッセルに協力しているとなると……王家の乗っ取りか? だが……
腑に落ちない点が幾つもあり、一概に王家の乗っ取りと判断できない。
―― 情報が足りない。だがどの筋から情報を得るべきか
「殿下」
向かい側の棟はすでに厚いカーテンが下ろされ、テラスからは中を伺うことはできなくなっていた。
「どうした?」
声を掛けた執事に問うと、
「殿下がお呼びになったオースルンド准尉が参りました」
呼んではいないが、報告すべき事柄があったら、いつでも邸を訪れてよいと許可を与えている第二副官がやってきたと ―― 唯一事情を知る執事が取り次いだ。
「殿下、エルメル関連についてですが」
やってきた第二副官オースルンドは、すぐに本題に入る。
エルメルとはイーナ・ヴァン・フロゲッセルのこと。わざわざ偽名で呼ぶのは、フロゲッセルがなぜか国の中枢に食い込んでいるので ―― 誰が味方なのか分からない現状では、迂闊に名を出すわけにはいかずエルメルという男性名をつけて呼んでいた。
「なにか分かったか?」
「エルメルはこの邸、王宮、司令本部のいずれかに入り込んでいるものと思われます」
ガイドリクスとしても「そうではないか」と思っていたが、調べている部下から直接そのように報告されると一瞬ながら言葉を失う。
「……理由を聞こうか」
「第三副官です」
「クローヴィス?」
「はい。先日殿下の供で王立学習院を訪れたクローヴィスは、エルメルと会ったそうです。殿下がガゼボで語らう前に」
オースルンドが言いたいことをガイドリクスは理解した ―― クローヴィスと初めて会ったら、話題に上らない筈がない。
「聞かないということは、知っていると」
”あの美しい軍人は誰か?”と問われたら、ガイドリクスはすぐにクローヴィスだと答えた。
「はい。クローヴィスによると、殿下に帯同していることも分かっていたようです。あの場にはエクロースもいたというのに”殿下はいるか?”と尋ねられたと」
ほとんどの貴族令嬢は軍隊というものに疎く、軍服で海軍か陸軍かを見分けられる者は少ない。
フロゲッセル男爵家が軍人の家系というのであれば別だが、ガイドリクスには軍閥という記憶はなく、調査したヴェルナーも「これといった特徴のない家です」と報告をあげていた。
海軍は少ないので制服はすべて陸軍 ―― そう解釈してもおかしくはないが、イーナのもとには海軍の高級将校であるプリンシラも来ているのだから、彼の部下である可能性を考えなかったのか?
考えなかった理由はなにか? 「知っていた」それ以外の理由は見当たらない。
「エルメルは男とみれば、誰彼構わず体に触れて、親しいと勘違いをさせる娼婦のごとき手管を持っておりますが、クローヴィスは触られなかったそうです」
ガイドリクスも随分とフロゲッセルに肩や腕、てのひらなど触られた ―― 長らく王族をしているガイドリクスにとっては、そういった行動は娼婦が距離を縮めるためにすることだと教えられていたので特別なにも思わなかった。
「靡かないから触れないということか」
「そうとしか考えられません。わたし程度の顔だちと階級でも、べたべたと触り媚びを売ってきたのです。わたしよりも階級が上で、美形であるクローヴィスに触れないなど考えられません。なによりクローヴィスが言うには、エルメルはクローヴィスを見ても驚かなかったそうです。あり得ません」
美醜に心を動かすなとテサジーク侯爵に厳しく躾けられたオースルンドですら、驚きを隠しきれなかったほど。
ガイドリクスも初めて見たときは、かなりおどろいた。もちろん王族としてあからさまに驚くようなことはしなかったが、あとで自分のことを笑いたくなるほど驚いていた。
「それはおかしいな。礼儀正しく感情を表に出さない立派な貴族令嬢ならばともかく、貴族の子弟たちを感情を素直に出し虜にしている男爵令嬢がそこまで表情を隠せるとは思わないし、なにより隠す必要もない」
イーナがクローヴィスを以前に見たことがあるのは確実だった。
では何処で見かけたのか? となる。
貴族の権威が低下したとはいえ、平民は住む世界が違う。唯一交差する可能性があるのは夜会の場だが、クローヴィスは尉官でイーナはデビュタント前なので、その線も消える。
「クローヴィスの身辺をアルドバルドに調査させるか」
ガイドリクスの副官になる際に一度調査されているが、あれから三年ほど時間が経ち当時と交友関係が変わっている可能性もある。
「旧諜報部が関係していないという証拠はありませんので、下手をしたら……」
なにより身辺調査をしたのは情報局という新体制の部署。旧体制のトップであるアルドバルドではない。
「調査対象であるクローヴィスは、その間国外に出す。将来を嘱望されている士官に海外出張は必要だからな。オースルンド、リリエンタールに交渉してきてくれ。わたしはアルドバルドに”王妃候補の身辺調査”として依頼する」
「王妃候補ですか」
「クローヴィスだけではない。あのくらいの年頃の軍人女性を数名候補に挙げるよう指示する。わたしにもっとも近い位置にいる女性士官はクローヴィスだから、まずはクローヴィス……おかしくはなかろう?」
「たしかに。あの美貌ですので、アルドバルドさまも違和感は覚えない……」
とは言い切れないなとオースルンドの表情が物語る。
「あれを騙しきれるとは思わぬが、王妃に不適として先走り殺害しようとしても、リリエンタールの元にいれば防げる。その間に調査報告を受け、帰国前には王妃候補から外す」
「それが良いですね。リリエンタール閣下にも、その方向で依頼してきます」
オースルンドが去った後、カーテンが閉められた元妻の寝室へと一瞬視線を向けてから、ガイドリクスは自室へと戻った。