【088】永遠、捧げる
急遽帰還手段を変更し、キースを苛つかせるリリエンタールとは違い、ガイドリクスは予定通りのルートで無事に帰国した――という報告が西方司令部の司令官から、キースに届いた。
――ツェサレーヴィチが無傷で予定通り帰国させると言っていたから、そこまでは心配していないが、万が一ということも……あり得ないな。ツェサレーヴィチに限っては
リリエンタールに対して、色々と含むところのあるキースだが、これらに関しては、全面的に信頼していた。
ただリリエンタールは「何ごともなく帰国させる」とは明言したが、ガイドリクスが首都まで無事戻ってくることに関しては、触れなかった。
――言質を取りそびれた……痛い失態だ……
おそらくなんら問題なく、ガイドリクスは首都へと戻ってきて、病に伏したヴィクトリアの代わりに即位する。
キースも分かっているが、それと同じくらい、椅子に座り頬杖をつき目を閉じたまま「無事に首都に帰すとまでは言っていない」と、抑揚なく言い放つ姿が思い浮かぶ――下手にリリエンタールのことを知っているため、脳裏を過ぎってしまう。
――フェルがいるから、大丈夫だとは思うが……こればかりは、ツェサレーヴィチのほうが信頼できるからな
これに関しては、誰もが同意する。ヴェルナーに聞いても「アデルよりも、ツェサレーヴィチだな」と答えが返ってくる。
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「殿下。ご無事でなによりです」
フォルズベーグ王国から無事帰国を果たしたガイドリクスを出迎えたのは、国境警備局西方支部に出向いた、西方司令部の司令官を務めるヴァン・イェルム。
士官学校を卒業し、地位に相応しい実力があり、賢夫人を妻に持ち、利発な子どもたちにも恵まれた、司令官になるための条件を兼ね備えた人物。
支部のもっとも豪華な部屋である、支部長室での顔合わせ。
主である支部長は席を外し――室内には、ヴァン・イェルムとガイドリクス、オースルンドと、ヘルツェンバインにヴェルナーと、明らかに人払いされた状態。
着席しているのはガイドリクスだけで、他の四人は起立したまま――なにが語られるのだろうか? と逸る気持ちを抑えながら、ヴァン・イェルムはガイドリクスと話を続ける。
「心配を掛けたな」
「戦場ではなにが起こっても不思議ではありませんので。どうしても、心配になります」
「そうだな。……イェルムよ、首都での騒動は聞いたな?」
王宮占拠事件は事態が収拾してから、キースはすぐに無線を使い一報を入れ、事情を伝えるための部隊が派遣されていた。
「はい。殿下も?」
ガイドリクスは国外にいたので、秘密理に――王家の影のシモン・ノルバリが、強行軍で情報を届けた。
「大まかには聞いた。それで、わたしが即位することになる」
「はい」
「以前の体制であれば、わたしが総司令官を兼任することも可能だが、新たな体制下において、わたしは飾りの元帥として軍に籍を残すが、実際の指揮を執るのは別の者に任せなくてはならない……もともと、王族なのでそういったものとは、距離があったのだが。それで、総司令官だがキースに任せたいと考えている」
「キース少将ですか」
「平民で独身というところがネックだが、キース以外選べない状態でな。その理由が記された書類をいま見せるが、絶対に口外するなよ、イェルム」
控えていたヴェルナーが胸元から、三つに折られた一枚の書類を取りだしヴァン・イェルムに差し出す。
それを受け取り開き、目を通したヴァン・イェルムは一通り読んでから、目を擦り再度読み、
「失礼します」
胸元から眼鏡を取り出して掛けてから、三度目を通してから、口を大きく開け、死んだ魚のような目で、立っているヴェルナーを見つめる。
ヴェルナーはヴァン・イェルムの手から書類を取り上げ、再び折りたたみ、胸元へと戻す。
手紙の内容は、リリエンタール直筆で、クローヴィスと結婚すること、この国に残ること、とりあえず大統領になるつもりだ……といった事が書かれていた。
その内容の衝撃もさることながら――
「殿下。このイヴ・クローヴィスというのは、二十三歳にして中尉になった女性士官……ですか?」
ヴァン・イェルムは、この結婚相手の名前に見覚えがあった……いや、あり過ぎた。
「そうだ。わたしの副官を務めている……わたしは即位するから、副官の任を解くが、わたしの副官で、現在はキースの副官を務めている中尉だ」
ガイドリクスが穏やかにそう告げると、ヴァン・イェルムは眼鏡を外し、
「殿下は王宮占拠事件で、このクローヴィス中尉が武勲を挙げたこと、ご存じでしょうか?」
届いた報告書の中にあった、前戦指揮官アーレルスマイアー大佐の自宅を襲撃した一隊を壊滅させる指揮を執り、共産連邦のスパイと撃ち合い、単身カーチェイスの果てに、捕まえた女性士官――イヴ・クローヴィス。
「……いいや、聞いていない」
ガイドリクスはオースルンドに視線を向け――向けられた方は首を振る。
シモン・ノルバリの報告は「制圧完了」「女王は生きているが、王家の影とともに排除完了」など、必要最低限のものを急ぎ届けたもので、委細はなかった。
「キース少将は女性副官を、戦闘から遠ざけようとしたらしいのですが、騒ぎが向こうから寄って来た……ようです」
報告を聞いたあと「キースも災難だったな」と部下たちと笑っていたヴァン・イェルムだが、裏事情を知り背筋に冷たいものが走った。
「負傷などは?」
「していない……筈ですが」
キースが情報を届ける部隊を派遣した頃、ヴァン・イェルムはクローヴィスとリリエンタールの関係を知らないので、当たり前ながら北以外の司令部には、同じものしか届けなかった――北方司令部を預かるヒースコートには、ネクルチェンコとカムスキーに、キースが特別に認めた書類を届けさせた。
「オースルンド、ここにはクローヴィスの同期、サンドラ・ラハテーンマキ少尉がいる。聞いてきてくれ」
「分かった」
この場でもっとも階級が低いオースルンドに、ヴェルナーが指示を出した。
オースルンドが退室してから、
「まあ大丈夫だとは思いますがね。なにかあったら、キースのことです。イェルムが事情を知らなくても、情報を届けたはずですし……なにより、クローヴィスはそんな雑魚に、遅れを取ったりはしません」
ヴェルナーはガイドリクスを安心させるよう、言い聞かせるかのような語り口で――本当は誰に向かって言い聞かせたのかは、ヴェルナー自身気付いていない。
「そうだな……どうした? ハンネス。難しい顔をして」
キースが届けさせた報告書に目を通していたヘルツェンバインが、書類に顔を近づけては遠ざけるを繰り返し、
「殿下。老眼鏡を持ち合わせていないので、読み間違いであって欲しいのですが……アーレルスマイアーの自宅を襲撃した一隊の、指揮官の名がイグナーツ・シュテルンで、所属がキース少将の副官と書かれているような」
書類を差し出されたガイドリクスと、のぞき込むヴェルナー。
そこには間違いなく、イグナーツ・シュテルンと書かれていた。
「はあ……」
「バカが踊らされたな」
シュテルンは問題があって、司令官の直属――目が届く範囲におかれていたのだが、その立ち位置から、重要な情報を手に入れられるということで、仲間に引き入れられた。
シュテルン以外のガイドリクスとキースの副官は、声を掛けられもしなかった辺りに、自分の評価がどのようなものか? 分かるというものだった。
「おそらく叔母の入れ知恵でしょう」
ラハテーンマキ少尉にクローヴィスの怪我の有無を聞き、戻ってきたオースルンドも報告書に目を通し「そういう人を見抜く力はあるんですよ」と――リスティラ伯爵夫人の名を挙げた。
「クローヴィスに声を掛けなくて良かったな」
「そうですね。下手に巻き込んでいたら…………」
王家の影は消されただろうと、誰もが思ったが口にはしなかった。
「殿下。クローヴィスは無傷だそうです」
支部長とともにやってきた、オースルンドにいきなり「クローヴィスのこと」を聞かれたラハテーンマキ少尉だが、クローヴィスとのやり取りがあるので、すぐに何者なのか気付き「イヴがいつもお世話になっています」と挨拶までされ、簡単に情報を教えてくれた。
「そうか、良かった……イェルム、話が逸れてしまったが、本来であれば、お前が総司令官に相応しいのだが、リリエンタールとの相性を考えるとな」
クローヴィスが無傷なことに安堵し、ガイドリクスは当初の目的――次の総司令官について触れた。
「イェルムならば、リリエンタールと軋轢もなくやれるとは思うのだが」
ガイドリクスが言いたいことは、ヴァン・イェルムもすぐに分かった。
「わたしは、キース少将ほど、リリエンタール閣下にはっきりと物を言うことは、できません。あの才能を前に、意見できるほど、自分に自信もありません」
「キースもあの才能に対して自信はないだろうが……西方司令部に残って、来たるべき時に備えて欲しい。その才能はあると、リリエンタールが認めている」
「分かりました」
総司令官は政治的な面で、リリエンタールとやり合える人間でなくてはいけない――ヴァン・イェルムにそれは無理だった。
ガイドリクスはヴァン・イェルムとの会談を終え、支部長の案内で、国境警備局西方支部内の視察へ――
「…………というわけで、千人は置いていく」
その間、ヴェルナーはヴァン・イェルムに「リリエンタールが用意した次の一手」を告げ、準備を整える。
「なるほど。全く以て無駄がない。あまり褒めたくはないが、流石という言葉しか出てこない」
ヴェルナーよりも年上のヴァン・イェルムも、やはりリリエンタールには思うところがある。
リリエンタール自身に、なにかされたわけではないのだが――ルース帝国皇帝というのは、彼らの世代にとって、払拭することができないものなのだ。
「そうなるな。イェルム大佐。もしもクローヴィスに何かあって、国として責任を取ることになった場合、わたしが負う。そうなったら、後のことは任せる」
「ヴェルナー中佐が?」
「ああ。気楽な独り身だからな。キース……アデルも独り身だが、あいつは天涯孤独という、余計なオプションがついているから、変な悲壮感が出てしまう。わたしのような、親族がいる独り身がもっとも無難だ」
「分かった……とは言っておくが、軍人としての能力は、ヴェルナー中佐のほうが上なので、困るのだが」
「…………」
「なにより、ヴェルナー中佐が、責任を被るような……いや、自分から生贄になるような性格だとは思ってもいなかった」
「わたし自身、驚いているが……生贄なあ。自分から言い出しておきながら、似合わんな」
もしもクローヴィスに何かあり、国が責任を取らなくてはならない場合について考えたとき、自然に自分の進退、あるいは命を差し出していいと、ヴェルナーはガイドリクスに申し出ていた。
ただそれは、愛国心から出た言葉ではなかったが――誰にも気付かれることはなかった。