【082】至尊の座を狙ったものたち・10
キースからアーレルスマイアー大佐の娘・リーゼロッテと共に入浴するよう命じられたクローヴィスは、更衣室のロッカーに準備している夜勤用バッグから、可愛らしい入浴グッズを取りだし――
「オレンジの石鹸、良い香り」
「柑橘系の香りって、いいよね」
「ロッテも好き。お風呂も良い香り」
乙女心を擽る可愛らしいオレンジの石鹸に、オレンジのアロマオイルを垂らした湯船は、怖ろしい出来事に遭遇したリーゼロッテの心を、柔らかく解す。
「パパ、一生懸命選んでくれてるんだけど、なんか可愛くないの……」
ほぐれたリーゼロッテは、愚痴ではないし、不満でもないのだが、誰かに言いたかったことを口にした。
――ああ、分かる……父さんも、高くて良質で可愛いものをわざわざ捜してくれたんだけど、あれ、なんか違うんだよなあ。心遣いが嬉しいから、どうでもいいんだけど……違うんだよなあ
妻に先立たれ、忘れ形見の娘に不自由をさせてはいけないと、必死に頑張る父親。だが彼らが選ぶ品は、微妙に娘の好みとずれることが多い。
リーゼロッテもクローヴィスも、忙しい中、父親が時間を作って店に連れて行ってくれる……だけで嬉しいし、全く好みではないわけでもない。
きっと母親が生きていたとしても、そういう齟齬は起きるのだろうが――母親に対しては気軽に言えるのだが、妻を亡くして、その穴をも埋めるべく奮闘する父親に、父親をこの上なく愛している娘は、言いだし辛い。
「きっと、アーレルスマイアー大佐はお店を知らないんだとおもうよ。わたしがアーレルスマイアー大佐に、首都でリーゼロッテちゃんが好きそうな雑貨を扱っているお店、紹介しておくね」
「ありがとう! イヴお姉ちゃん」
「ちなみに、リーゼロッテちゃんは、どういうのが好きなのかな。好きなポプリとか教えてくれると、嬉しいな」
「あのね、ロッテねっ! …………なんの音かな? イヴお姉ちゃん」
――人が蹴り飛ばされたような音に聞こえたけど……
「大丈夫、なんでもないよ。安心して、わたしがついているから」
クローヴィスは安心させるために、リーゼロッテを抱きしめる。
「うん!」
オレンジの香りにつつまれた浴室に、クローヴィスの私物でおろしたての、色鮮やかな花柄のバスタオル――厳戒態勢の中、二人はほのぼのとした時間を満喫した。
二人が聞いた異音だが、クローヴィスの予想通り――クローヴィスの入浴を覗こうとした兵士が、キースによって蹴り飛ばされた音だった。
「イヴ・クローヴィス上級士官は、覗かれそうになることが多いので、注意してあげてください」ガイドリクスの従卒を務めていた伍長――キースが代理で就任した際に退役――が、申し送りとしてキースに伝えた事柄の一つだった。
司令本部内で、そんな下らないことをするヤツがいるのか……と、聞いたときは、呆れたものの、クローヴィスを目の前にして、自分の考えを改め、
「王宮が占拠されている最中に、こんな下らんことをするヤツがいるとは」
火を付けていない紙煙草をくわえ、二人がいる浴室へネクルチェンコ少尉にカムスキー軍曹を連れて向かう。
廊下にも仄かに漂うオレンジの爽やかな香り――
「湯気でも吸ってやがるのか」
僅かにドアを開け、不自然な体勢でのぞき込んでいる兵士――見るからに不審者だった。
その不審者にクローヴィスが気付かなかったのは、気付く前に、駆け寄り、クローヴィスの裸体に釘付けになっていた男の脇腹を、容赦なく蹴り飛ばしたからである。
「引きずってこい」
壁に強かに体を打ちつけた男を連れて来るよう命じ――ネクルチェンコ少尉とカムスキー軍曹は、男の足首を掴み引きずる。
「イヴお姉ちゃんのお肌、すべすべ! すりすり、してもいい?」
「いいよ。どこでもいいよ!」
「ありがとう! イヴお姉ちゃんのお肌、すごい。シルクみたいって言うのかな」
「リーゼロッテちゃんも、すべすべだよ」
少女の甲高い声と、クローヴィスの低い声が交互に、廊下に届く。
キースはそっとドアを閉め、
「ネクルチェンコ、ここで見張れ。誰が来ても通すな。四の五の抜かすなら、殺して構わん。相手が貴族だろうが、聖職者だろうが一瞬たりとも躊躇うな。クローヴィスが出てきたら見つからないように、引き上げろ」
「御意」
ネクルチェンコ少尉は男から手を離し――男は片足だけで引きずられ、股関節を脱臼したと、カムスキー軍曹から聞かされた。
「キース閣下は”後々、そのゲスはわたしに最大限感謝するだろうよ”と仰っていた」
「肋骨も、ヒビが入った……らしいんだろう?」
「あの音は、そうだろうな」
それでどうして、感謝するのだろう? ――二人はその理由を、それほど時を置かず知ることになる。
「リリエンタール閣下の妻」
「あ…………それは……」
公表されたら、あの男は、この程度で済んだことを、感謝するのは間違いない。そして――
「ある程度怪我を負わせておかないと、リリエンタール閣下が許さないからな。リリエンタール閣下が許す、最低ラインを見極めてだ。相変わらず、線引きが上手いな、あの男は」
ヒースコートはそう言い、二人は一度キースの元を去った。
**********
リリエンタールは自らの専用車両の一つ、書斎車両で一人きり、
「やはり、陽光の下がもっとも似合うな」
クローヴィスからもらった、百合の刺繍されたハンカチを、暗い室内で眺めていた。
雨戸もカーテンも開いているので、冬の北国の空特有の明るさが差し込んでくるので、ハンカチを眺めることはできる。
車両内にはガス燈もランタンも蝋燭もない――間違って火災が起き、クローヴィスが作ってくれたハンカチにもしものことがあっては、ということで、書斎から明かりの類いを全て撤去させた。
日中は北国の弱い冬の日差しのもと、ハンカチを眺め、そして夜も眺める。
執事が同行していたら「よく飽きないね」と感心するほど、クローヴィスが作ってくれたハンカチだけを眺めて、ロスカネフ王国を出てフォルズベーグ王国へ。
「刺繍されたハンカチをもらうことが、こんなにも嬉しいとは…………嬉しい? 嬉しい……きっと嬉しいという感情だな、これは」
百合が刺繍されている箇所を、手袋越しに撫で――リリエンタールは、次はクローヴィスになにを贈ろうか? と考える。
「ダイヤモンド鉱山を獲るか」
ルース帝国時代に見つかった、世界最大の埋蔵量を誇るダイヤモンド鉱山――書類の類いが紛失し、共産連邦はそれが何処にあるのか知らないが、リリエンタールはそれが何処にあるのか、はっきりと覚えている。
「……となれば、イワンも処分せねばな」
イワン・ストラレブスキーはダイヤモンド鉱山の場所を知っている――ダイヤモンド鉱山を見つけた学者のパトロンが、イワンの父親イーゴリ皇子だった。
イーゴリ皇子はその情報をルース皇帝――リリエンタールの祖父にあたる人物――に献上し、ダイヤモンド鉱山開発のためにルース横断鉄道が計画、実行に移された。
イーゴリ皇子はそのとき、ダイヤモンド鉱山の権利の四割を与えられることが、決まっていた。
息子のイワンは、父親のイーゴリ皇子からそのことを聞いており――共産連邦に協力したのは、ダイヤモンド鉱山を手に入れるための、第一歩。
最終的にはその一帯を自治州にし、自治州のトップにイワンと取引のある共産連邦の幹部をつけ――二人で外貨稼ぎをし、自治州トップには共産連邦のトップになってもらう……というシナリオを、イワンは描いていた。
「平和的で実にまどろっこしいな、イワン。そんなことをせずとも、戦争で簡単にすげ替えられるぞ」
蒸気機関車が停車し――リリエンタールはハンカチをゆっくり丁寧に畳み、それを別のハンカチで包んで胸ポケットにそっと忍ばせた。
蒸気機関車は指定されたポイントに停車した。リリエンタールに到着を知らせる人はいない。指示通りに動き、完遂した時は報告する必要がない。
そして下車を促す人もいない。
リリエンタールが降りたい時に降りる――リリエンタールは、それが許される男だった。