【079】廃太子シャルルの憂鬱な誘拐事件・前日譚
「なにかあったに違いない……」
リリエンタールの執事ベルナルド・デ・フィッツァロッティこと、シャルル・ド・パレは隠れ家で呟いた。
行きたくないと言っていたリリエンタールの背を押し、フォルズベーグ王国へと向かわせたあと、シャルルは予定通り外観は普通の家に身を隠した。
室内の設備・装飾は外観からは想像できないほど整っており、食料も豊富――コーヒー豆や紅茶の茶葉がふんだんに用意されているだけではなく、それを楽しむ茶器も数十セット揃っている。
地下の食料庫にはハモンセラーノやプロシュートなど複数種類の生ハム、チーズ同じように取りそろえられ、
パイナップルなど異国のフルーツのシロップ漬けの他に、真冬ながら新鮮なリンゴも貯蔵されている。
パンはシャルルの好みではないが、保存性が高い黒パンが大量に。
さらにはチョコレートや焼き菓子も。
燃料の備蓄も大量で水道も引かれ、手押しポンプが設置された水をなみなみと湛えた井戸もあれば、大量のワインもセラーに並ぶ。
着替えは大量に用意されているので、着替えるだけで洗濯の必要はなく、暇を潰せる大量の本に、蓄音機にこの世界の全てのレコードが揃えられ――シャルルだけで見れば、特に問題はない潜伏生活。
シャルルには問題ないのだが、毎日やってくることになっていたサーシャが、昨日やってこなかった。
クローヴィスの周辺に警戒を払うよう命じられたサーシャ。
割ける人員が少ないため、ほぼ毎日クローヴィスに張り付くことに。
そんなサーシャはクローヴィスの就業時間に、休息を取ることになり、その休息場所がシャルルの隠れ家。
就業時間はキースと一緒にいるので、大丈夫だろうと。
その間サーシャはここでシャルルの世話を受けて体を休め、夜の見張りにつく――任務の内容から、一日くらいは来なくてもおかしくはない……と思っていたが、二日目ともなればシャルルも不安になる。
「そう言えば、頭が痛そうだったなあ」
サーシャは若干寝不足なのと、寒さからですと言っていたが、もしかして……と心配になったシャルルは、
「誰にも見つからずに、サーシャの見張り部屋へ行けるか……」
悩んだ末、リンゴ二個と切り分けるための果物ナイフ、カットした生ハムとクラッカーにチョコレートとワインを籠につめ、隠れ家から出る。
シャルルが家を出たのは、当然ながらクローヴィスの退庁時刻を過ぎてからなので、外はすっかり暗くなっていた。
――誰にも会いませんように。誰にも会いませんように……
そう願いながら、外灯に照らされた人気のない道を、足早に進んだシャルルだったが、
「まさか、こんな所でド・パレと会えるとは」
――誰かは知らないが、非友好的なのは分かる
シャルルは知らないが、相手は自分のことを「シャルル・ド・パレ」と知っている人物と、遭遇してしまった。
相手は女性だが、シャルルのことを知っているということは、何らかの訓練を受けている可能性が高く、
――走って振り切れるか……やってみるか
殴り掛かっても、かわされ足を掛けて転ばされるのが目に見えていたので、シャルルは振り返り走りだそうとしたのだが、
「逃げられるとお思いで? 王子さまは甘い考えだなあ」
既に背後も取られていた。
――王子と甘い考えは、関係ないだろ……もしかして、こいつらクリスティーヌ側のメッツァスタヤ? …………うわあああああ、まさか、まさか!
王子という台詞に込められた憎悪の感じから、相手が貧民街出身なのを察し――この類いの感情は、向けられ慣れているので、すぐに分かったところまでは良かったのだが、シャルルの身分を知っている貧民街出身で、訓練を受けている者たちとなれば、リスティラ伯爵夫人の部下と考えるしかない。
シャルルは籠を抱きしめ、立ち尽くす。
前後の二人の他に周囲から数名現れ、完全に取り囲まれた。
――一対一だって勝てないのに、五人に……もう一人きた。六人とか、わたしを捕まえるには、過剰戦力。絶対こいつら、どこかへ向かう途中に、ばったりとわたしと遭遇したってとこだろう。こいつらからしたら、良いところにカモが飛び込んできた状態……運がないにもほどがある!
持っている籠を振り回そうが、籠の中のナイフを手に取ろうが――シャルルにはどうすることもできないことだけは、よく分かる。
「大人しくしていればいい」
「痛い目はみたくないだろう」
――アントワーヌやリーンハルトなら、この程度、すぐにボコボコにできるんだろうけど。くそー……わたしが弱いこと、ありがたく思え!
肩を小突かれたシャルルは、そんなことを考え……ていると、一番最後に現れた、五人とは一線を画する雰囲気の人物が、
{初めまして、カール殿下}
胸元に手をあて、頭を下げながら声をかけてきた。
{だ……れだ?}
帽子の端から落ちる黒髪は艶やか。
{リーパのルカと申します}
――菩提樹? ……いや、ルース帝国国家保安省の隠語だ! こいつは、元ルース帝国の国家保安省に所属していたルカ……ル……レオニード・ピヴォヴァロフ?! それとも、ルカ・セロフって名乗ってるヤツ? どっち? 顔さえ見ることができたら!
シャルルはピヴォヴァロフについて知っているが、実際に会ったことはなかったので、声などは知らない。
{カール殿下にお尋ねしますが、ツェサレーヴィチはメッツァスタヤの三人のうち、どれをお選びで?}
顔を見せろと思いながら、
{そんなの、フランシスに決まってるだろう}
アルドバルド子爵と答えた――三人のうちもう一人はリスティラ伯爵夫人だとは分かったが、残りの一人については、全く心当たりはなかったが、答えるのには困らなかった。
{やはり、そうですか!}
喋り終わるのと同時か、それよりも少し早かったか? シャルルは視界に捕らえることはできなかったが、シャルルの脇腹すれすれを、ルカの拳が通り、背後に立っていた男性の腹を抉る。
崩れ落ち”どさり”と膝をついた男にシャルルが視線を向けたときには、他の四人は血を流し倒れ込んでいた。
やっと動きが止まったルカの顔を、シャルルは外灯の下で見ることができた。
そこにいたのは、美しく華やかな顔だちに、妖しく艶めかしい色気を持った青年。
――レオニード・ピヴォヴァロフだ!
{失礼}
ピヴォヴァロフは籠を抱いたままのシャルルに近づき、背中に手を回して乱暴に引き寄せるようにし移動させると、背後で膝を折りうめき声を上げている男の後頭部に、いつの間にか取り出した拳銃をあて、一瞬も躊躇わずに引き金を引いた。
銃声のあと、男の体は硬直しそして揺れながら道路に崩れ落ち――ひくひくと痙攣している。
{カール殿下。どちらへ?}
{あ……}
気付けばシャルルはピヴォヴァロフに手首をがっちりと握られ、
{物騒ですので、目的地までエスコートいたします}
楽しそうに話し掛けられる。
周囲にいまだ痙攣している死体や、血を流し瀕死状態の人間が転がっている時にする表情ではないが――こういう表情をする人間がいることを、シャルルは知っている。
{いや、いい。帰る}
――メッツァスタヤより、レオニードのほうが厄介だ……あの人が迷うことなく選んだ狗だもんなあ……
{いえいえ。遠慮なさらないでください}
{わたしは遠慮なんてしませんよ}
{そうですか。あのですねえ……}
ピヴォヴァロフは耳元で囁くように、サーシャの居場所を教えて欲しいと――教えなければ、このまま本国へ連れていくとも言われたシャルルだが、
{知りませんよ、居場所なんて}
知らぬ存ぜぬを突き通すことにした。
{よろしいのですか?}
くすくすと笑うピヴォヴァロフだが、連れて行くというのは本気。
{良いも悪いも、お前、わたしの言うこと聞かないだろう}
{ええ。わたしは基本、誰の言うことも聞きませんので}
―― ヴィルヘルムやアウグストと、同じタイプだ!
シャルルは掴まれている腕を必死にふりほどこうと、籠から手を離し、一応の抵抗を見せる。
落ちた籠からリンゴが転がり――
「えっ?」
いきなり手首を放されたシャルルは、勢いがついてそのまま後へ。ゆっくりと倒れてゆく自分を感じ――ピヴォヴァロフが吹き飛んでゆく姿を目にした。
寒さで凍り付いている地面に背中を強かに打ちつけたシャルルは、体を動かせずにオーロラが揺れる夜空を、呆然と見上げ……ていると、
「大丈夫ですか?」
名前は知らないが顔は知っているヒースコートの部下が、のぞき込んできた。
「おそらく」
「起き上がれますか?」
「手を貸してくれるか?」
「はい」
金髪で緑色の瞳の、ルース系男性の手を借りてシャルルは起き上がった。
「殿下。意外なところでお会いしますな」
「レイモンド。どうして、ここに?」
そしてシャルルが目にしたのは、膝をつき腹を押さえたピヴォヴァロフと、彼の首に腕を回して、すぐにでも首を折れる体勢のヒースコート。
――そんなに長時間倒れて……いた? わけないよな
目の前の状況がまるっきり変わっているのに、頭がついていかないシャルルに、
「今日ここに来たのは、リリエンタール閣下が、この日時にこの道路で、リスティラ伯爵夫人配下のメッツァスタヤと、ルース帝国側の協力者が合流すると仰っていたので。殿下がいらっしゃるとは聞いておりませんでしたが」
ヒースコートはいつもと変わらず――すこしピヴォヴァロフの首を、強めに絞めたようで、ピヴォヴァロフの美しい顔が少しばかり歪む。
「相変わらず、あの人は……わたし、用事があるから」
ピヴォヴァロフが捕らえられたので、これでサーシャの元へ行けると、落ちたリンゴを拾い籠につめ、
「ネクルチェンコ、カムスキー、殿下に同行しろ」
「はい」
「はい、閣下。殿下? 荷物は小官が持ちますので」
一人で急ごうとしたのだが、ヒースコートに当たり前のように同行を付けられた。
二人を伴い、シャルルは急いでサーシャが見張りの際に使っている場所へ向かう。玄関は施錠されていたが、同行した一人のカムスキーが壁を登り、部屋を確認したところ、床にぴくりとも動かない人が居ると――入り口ドアをネクルチェンコに蹴り飛ばしてもらい、部屋へと乗り込んだ。
暖炉はすっかりと冷え、室内は室外とほぼ変わらぬ温度。
「サーシャ! すごい熱だ! 医者を呼んで……医者のところに行ったほうが早いか」
サーシャは高熱で意識を失っていた。
「殿下? ドアの隙間にこのようなメモが」
ドアを蹴破る際に、ネクルチェンコはメモが挟まれていることに気付き、手に取って目を通した。
「ドアの隙間に?」
「はい」
メモの内容は数字とアルファベットの羅列で、ネクルチェンコは全く意味が分からなかった。シャルルも同じく読めはしないのだが、これが何なのかは知っていた。
――メッツァスタヤの暗号だ。サーシャとかアントワーヌは読めるけど、わたしは読めないんだよねえ……ピヴォヴァロフ? あー駄目、駄目! サーシャ宛の暗号を、ピヴォヴァロフに読ませるなんて
シャルルはメモを籠に突っ込んで、まず部屋を暖めようということで、暖炉の火をおこし、医者を手配し――サーシャはかなり危険な状況だったが、なんとか危険な状態を脱することができた。
「メッツァスタヤの暗号なんだけど、読める?」
シャルルが一息ついて、ピヴォヴァロフを含む六人を片付け、顔を出したヒースコートにメモを差し出す。
「読めますが…………これは」
目を通したヒースコートの表情が、やや曇る。
「どうした?」
「キースが熱を出して寝込んでいるので、警護としては役に立たないと書かれていますね」
「えええー」
「そう心配なさらなくても、大丈夫ですよ、殿下。クローヴィス中尉は、ピヴォヴァロフとやり合っても、遅れをとらないくらいの腕の持ち主ですので」
「…………そんなに強いのか?」
「強いですね。そうは言っても、警護を付けないというわけにはいきませんので、ネクルチェンコとカムスキーを配置しましょう。掛かった費用は、あとでリリエンタール閣下に請求して宜しいでしょうか?」
「幾らでも使え。じゃあ、後は任せていいか?」
「はい」
「ところで、ピヴォヴァロフは?」
「あれとは取引して、国へ帰しました」
「素直に応じるようには、見えなかったけど……まあ、帰ったならいいや」
シャルルはピヴォヴァロフが何をしに来たのか? 全く分からず――
「ではわたしは北へ帰りますので」
「そうか」
ヒースコートはすぐに北方司令部へと引き返し――シャルルがサーシャの世話をしている間に、首都でクーデターが発生した。
シャルルがそれを知ったのは、全てが終わってから、
「クリスティーヌは幽閉したよ」
アルドバルド子爵からの報告によって。
「そうか」
シャルルは一つの案件が無事片付いたことに、安堵した。