【008】間諜、作戦を開始する
クリスティーヌ・ヴァン・リスティラ伯爵夫人は自分は伯爵夫人で終わる人間ではないと思っている。
思っているだけではなく、自ら努力していた。
兄のフランシス・ヴァン・アルドバルド子爵に言わせれば「見当違いな努力」だが、彼女は自らの野望のために幼いころから努力していた。
クリスティーヌがテサジーク侯爵家からリスティラ伯爵家に嫁いだのは、八年前で三十七歳のとき ―― 現在は四十五歳。
夫であるリスティラ伯爵には亡き前妻との間にできた跡取りがおり、クリスティーヌは跡取りを必要としていない伯爵家に後妻として入った。
クリスティーヌ自身、伯爵如きの子を産むつもりはないので、年老いた男性として機能しない伯爵の後妻で構いはしなかった。
クリスティーヌ、彼女が目指しているものは王位である ――
夜更けパウダールームで自慢の黒髪を小間使いに手入れさせていたクリスティーヌのもとに、彼女が望んでいた報告が届いた。
「ついにリリエンタールがロスカネフを出る日が来たか」
部下より受けたそれに、クリスティーヌは歓喜の声をあげる。
「はい」
クリスティーヌはリリエンタールを早くに国から追い出すために、様々な行動を取った。貴族の立場を利用し、ガイドリクスにリリエンタールに女を薦めるよう、妻であるマリーチェを使って遠回しに思考を誘導したり、リリエンタールの相手をしている女に働きかけたりなど。相手が相手なので細心の注意を払い、追い出すまでに四年以上かかってしまった。
「やっと出ていってくれるか。まあ世話になったが、もうわたしに必要はない。リリエンタールが国を発ったらすぐに作戦開始だ」
そして歌うように作戦開始を告げた。
クリスティーヌの髪を梳いていた小間使いも頷き、髪の手入れを終わらせた。
「わたくしはリコリスに作戦開始を伝えて参ります」
小間使いはクリスティーヌの腹心の一人。
艶のない栗色の髪に黒い瞳、化粧をしてもくすみがちな肌で、そばかすが目立つ。身長は高くなく、低くもなく。
体型は太めだが、それはこの時代の女性としてはめずらしく、脂肪ではなく筋肉がついているからである。
「任せたぞカルラ」
「はい」
カルラは報告にきた部下とともにクリスティーヌの元を辞し、メイド服から男物の服に着替える。
夜更けに一人で歩いている女は、売春婦と間違われ声をかけられ、ときには強引にことに及ぼうとするので、男装したほうが安全だし目立たない。
むろんカルラは男が相手でも切り抜けられる自信はあるが、騒ぎを起こして時間を取られるのは本意ではない。
布で胸を押しつぶし、ダークカラーのスリーピースの背広に袖を通し、こっそりと邸を出てからタクシー馬車をひろう。
充分な変装をし人目を憚っているのだから、馭者に目的地を知られることも避けなくてはならない。
途中で馬車から降りて、馭者がその場を離れたのを確認してから歩きだし ―― カルラが王立学習院に到着した頃には、既に日付は変わっていた。
十三夜の月は薄い雲に覆われて霞み、あまり見られたくない人間にとっては丁度よい明るさ。
貴族の子弟を対象とした寄宿学園ゆえ、警備体制は整っているが、以前からここで指示を出すために塀の一部を壊し通れるようにしているため、それらを易々とやり過ごし女子寮へと忍び込む。
塀の一部が壊れていなくとも、潜入や暗殺を得意とするカルラには、この女子寮に忍び込むことは造作もないことではあるが。
女子寮の最上階である五階まで、足音を立てずに上り”イーナ・ヴァン・フロゲッセル”と書かれているリコリスの部屋の前へ。
合い鍵で鍵を開け ―― 貴族令嬢が生活を送る寮ゆえ、ドアを開けても不快な異音を奏でるようなことはなく、ほぼ無音で部屋に身を滑り込ませる。
カーテンが引かれ常夜灯が灯されていないリコリスの部屋はかなり暗いが、命令を伝えるだけなので明かりなど必要とはしない。
カルラは室内の気配を探り、一人しかいないことを確認してから声をかける。
「リコリス」
名を呼ぶとベッドが軋み、身を起こす音が聞こえた。
「ん……なに……」
寝起きで掠れているが聞き覚えのある女の声を確認し、
「作戦開始だ」
作戦の開始を告げる。
リコリスはクリスティーヌの部下の一人が連れてきた貴族の娘で、クリスティーヌの野望を阻む者を排除するために、この学習院に送り込まれた。
排除するのはガルデオ公爵家とモーデュソン侯爵家、この二つを国が混乱する前に実子の失態で破滅へと追い込むことが、クリスティーヌの野望のためにどうしても必要であった。
繋がりを気取られては困るので、まったく関係のない貧乏男爵家の娘を使い ―― その貧乏男爵家の娘である眠っていたリコリスからすぐに返事は返ってこなかった。
「返事は」
しっかりと情報を理解したのか? と、問う意味を兼ねて尋ねると、
「はい。女王陛下のために、最大限努力させていただきます」
こんどはしっかりと返事があった。
「努力ではない。成功させるために、命を捧げろ」
「もちろんです」
カルラはそれだけ伝えてリコリスの部屋を出て、侵入したときと同じように学舎をあとにした。
「溝鼠が人間のふりをしてどうするものか」
そのカルラを死角から見送った二人 ―― 一人は黒髪の男で、もう一人は明るい日差しの元でみれば亜麻色の髪を持った女だが、立ち去ったカルラと同じく男装している。理由もカルラと同じで夜更けに女性が女性の格好をして歩くと、娼婦を間違われてしまうためだ。
もちろんこちらの女性も、娼婦と間違えられて絡まれても、男の首を瞬時に掻き切りなにごともなかったかのように立ち去ることはできるが、必要ではない騒ぎを起こすのは好みではなかった。
「自分を人間だと思い込んでいる溝鼠に”お前は溝鼠なんだぞ”と忠告しても、暴れるだけだろうからな。ところで、どうするのだ? リコリスさん」
黒髪の男は茶化すように女に尋ねる。薄明かりの下でも、男が腹立たしい笑顔を作り馬鹿にしているのが、リコリスと呼ばれたマチュヒナにはよくわかった。
リコリスとはイーナ・ヴァン・フロゲッセルのコードネーム。
この呼び方はクリスティーヌ一派しか使わず、またクリスティーヌの一派はイーナ・ヴァン・フロゲッセルが「二人いる」ことは知らない。
「ヴィクトリアの腹の子の父親は、ルカ・セロフなのかしら?」
腹立たしいほど整った顔だちで余裕に満ちている、かつて競い負けた相手を少しは驚かせたいと、マチュヒナがつかんだ情報をぶつけるも、なにごともなかったかのように躱された。
「ん? ああ、ルカ・セロフってわたしのことだね」
男の余裕はまったく崩れず ―― マチュヒナは男が語った言葉の意味を正しく理解できなかったが、そのことにリコリスはこの時点では気付けなかった。
「なるほど、腹の子の父親はルカ・セロフか」
いつも通りはぐらかしたのだろうと ―― マチュヒナは知らなかった。「ルカ・セロフ」とは、彼女の目の前にいる男レオニード・ピヴォヴァロフが皇帝より下賜される予定の名であったということを。
「どうして、お前はそう思うのかな?」
「さあね。わたしだって、独自の情報網を持っているのよ」
「そうか。まあ頑張って、アレクセイを焚きつけてくれ」
雲が切れ月明かりが地上へと降り注ぐ。
青白い光に照らされたピヴォヴァロフの表情は嫌になるほど美しく、マチュヒナがぞっとするほど歪んだ笑みを浮かべていた。
アレクセイを焚きつけ王位を狙わせるというのは、クリスティーヌの策の一つ。
リリエンタールがロスカネフを出てから、アレクセイにこの国の王位を狙わせて国を乱れさせる ――
「言われなくても。お前こそアレクセイを連れて来ることができるのだろうな」
「そこは問題ない。同志がストラレブスキーを抱き込んだ。これでツェサレーヴィチ・アントンを引きずり出せたらいいな、リコリス」
その馬鹿にした口調に思わず手が出たマチュヒナだが、簡単に手首をつかまれ捻りあげられる。
「……わたしがここで叫んだら、お前は捕まる……」
塀の向こう側は王立学習院の敷地。多くはないが警備が巡回しているので、女の叫び声が上がれば「なにごとか」と確かめにくる。
「捕まっても構わないよ。お前たちの作戦が失敗するだけだ」
「……」
「わたしは寝返ってもいいんだ。わたしを選んで下さったツェサレーヴィチは、きっと今回もお前ではなく、わたしを選んでくださるはずだ」
「貴様!」
ピヴォヴァロフはマチュヒナの腹を素早く蹴ってから、腕の拘束を解く ―― 腕を離して蹴り、体が飛んでぶつかると非常に大きな音がするので、それを避けるために握ったまま暴力行為に及んだのだ。
「まあ、仲良くしようよ、”途中までは”」
そしてピヴォヴァロフはマチュヒナの腕を自由にした。
「……」
「そうそう、これやるよ。うまく使え」
ピヴォヴァロフは党員徽章を指で弾くようにして、マチュヒナへと渡した。明かりが足りないので、はっきりと分からないので、マチュヒナは徽章を指でつまみ、書かれている文字を指先で読みとる。
マチュヒナはなにも言わず、ピヴォヴァロフに背を向けて ―― 学習院の敷地内へと消えた。
彼女を見送ったピヴォヴァロフは表情を消し、マチュヒナとは反対方向へと歩きだす。
―― ロスカネフは近いから訪れやすかったんだが……さてツェサレーヴィチは何処へ向かわれるのか。できれば近い大陸が良いのだが。南の島なんかに行かれたら面倒だなあ
ピヴォヴァロフはふたたび雲に隠れた月のごとく消えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
クリスティーヌのもとに戻ったカルラは翌朝、昨晩と同じように髪の手入れをしながら、リコリスに作戦開始を伝えたことを報告する。
「リリエンタールが国を出る三日後が楽しみだ」
クリスティーヌはリリエンタールがガイドリクスと離婚したマリーチェを、アディフィン国王の下へ送り届けるという名目で国を出ると同時に、作戦を開始するよう命じた ―― リリエンタールが若い娘に一目惚れし、ロスカネフに戻ってくるなどとは露ほども思わずに。
戻ってきた理由となる若い娘が同行した理由が、リコリスにあったことなど、知る由もなかった。