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Eはここにある  作者: 剣崎月
第一章
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【069】閣下、終生後悔する

 リリエンタールはソファーに寝転んでいた――


「……」

「……」


 アイヒベルク伯爵に呼ばれた執事は


――本当だ。いや、リーンハルト(アイヒベルク伯爵)が嘘をついたりしないのは分かっているけど……


 リリエンタールの姿を見て顔を見合わせる。


「理由は?」

「分かりません」

「思い当たる節はあるのか?」


 リリエンタールは何をしても許される男だが、何もしない男――だった。

 彼は寝る時以外、横になることはなかった。そのリリエンタールがソファーに横になり、指を組んで腹に手を乗せている。


「フランシスから届いた、妃殿下の報告書に目を通しておられましたので……それが理由ではないかと」

「アレがそうなるのは、ソレしかありませんけど。今度は何があったんだ」


 そう言いながら執事は総革張りで、ボタン留めされた背もたれ、黒く重厚な三人掛けのチェスターフィールドソファーに、横たわっているフロックコート姿のリリエンタールに近づく。

 アイヒベルク伯爵は、その後に続いた。


「体調が優れないのですか?」


 一応(・・)執事は体調を気遣う。

 声を掛けられたリリエンタールは執事のほうを向く――体調不良だと言われたら「そうか」と思うような、顔色の悪さだが、


「はぁ、娘が」


 もともとそうなので――いつも通りの恋煩いだったことを確認すると、”はいはい”と話し掛ける。


「妃殿下がどうなさったのですか?」


 横たわっているリリエンタールの体と乗せている手の間には、二枚の紙――執事はそれを抜いて目を通す。

 そこにはクローヴィスとキースの会話――そろそろ訪れる冬と長い夜。その夜空に揺らめくオーロラについて。


「変なこと、書いて……ないと思う……貴族の女は無理だけど」


 クローヴィスは「ソロキャンプ、且つ原生林の中でオーロラを見たい」という希望を語っていたと書かれていた。

 厳寒に原生林で空を見上げるなど、執事がしようものなら、その日のうちに儚くなるし、貴族の女性も無理だが、クローヴィスに限ってはそれは当てはまらない。

 キースですら「こいつなら、極寒キャンプもいけるだろう」と――思うだけで、もちろん止める。

 なにせロスカネフ王国の冬の夜は寒い――侵略者(ルース)たちが軒並み凍えて死ぬ。


「娘のことを知ることができた」

「そうだね。ほんと、キースは聞き出すの上手いね」


 ”あんたがやると尋問になりそうだけどな”そう執事は思ったが、口には出さなかった――リリエンタールは察したが、自分でもそうだと思っているので触れなかった。


「このところ、娘の好みを大分把握できた」


 ソファーの端に乗せられている足には、美しいバックルで飾るに相応しい、磨かれたエナメル靴。


「うん。誰が好きかはわからないけれど、大方の好みは分かった。お迎えする時用に、壁紙のデザインもさせているところだ」


 クローヴィスと酒を飲み、ごく普通に趣味や好み、特技などを聞き出すキース。それらを盗み聞きしたアルドバルド子爵が書き起こし、届けられる報告書。

 一つも間違いはない――

 執事はソファー側のテーブルに、報告書を置く。


「自分で聞き出したいという欲求に囚われた」

「は?」

「娘に直接、好きなものを尋ねたい」


 だがそれだけではリリエンタールは、満足できなくなった――いや、最初から満足してなどいなかった。


「今の関係で、あんたに聞かれたら、妃殿下答えられないし、キースに部下を困らせるなって抗議されるよ」

「分かっている……だが……娘は好きなものを語る時、どんな表情をしているのであろう」


 アルドバルド子爵の報告書に、クローヴィスの表情は記されていない。

 それは全く必要ないものであり、リリエンタールも今まで必要としなかった――だが、今は違う。

 百科事典を抱え歌劇場を訪れた時の笑顔。


「笑顔でしょうね……そんな目で見るな! キース相手に笑顔にならない女性はいないの知ってるでしょう」


 それと似た笑顔で語っているのかと思うと、


「分かる。だが娘の笑顔……」


 正面から見たくてたまらなかった。


「あんたを前にして笑ったりはしないと思うよ。まあ、そういう希望を持つのは良いことだけど、現実的には駄目だからな」

「……」

「不貞寝してるあんたに言っておくけど、あんたは”好きな人のことは何でも分かっている、包容力のある大人の男性”という設定で、妃殿下に近づいてもらうんだから」

「設定?」

「そう、設定。素のあんたって、妃殿下のことに関して余裕はないけど、財力と政治力と軍事力だけはある中年男性という、かなり困った存在だ」


 本当はそこに血筋も入るのだが、執事は省いた。


「…………」

「若い娘さんが、年上の男性に求めるものは、財力と落ち着いた包容力。妃殿下は財力はあまり必要としていないらしいから、包容力がある……という設定にする」


 財力のほうに興味を示してくれたら、楽だったんですけれどね。そっちは実際にあるから……と、執事はぼやく。


「一応聞いておくけど、妃殿下が何をしても許せるんだよね? 包容力ってそういうことだから」


 横になっていたリリエンタールは起き上がり、


「それは問題ない」


 はっきりと言い切った。

 二人がそんなやり取りをしていると、従僕が新たなクローヴィスの報告書を携えてやってきた。アイヒベルク伯爵はそれを受け取り、リリエンタールに差し出す。

 新たな報告書に目を通したリリエンタールは、再び横になって目を閉じた。


「どうしたんだよ!」

「キースが娘の差し入れを食べた。クッキーだが、間に挟んだラズベリージャムは、娘のお手製だそうだ」


 執事はリリエンタールの手から報告書を再び抜き取り、


「キースが手作りのクッキーを口に運ぶとか、凄いね。まあ、あんたすら好きになってしまうほど、魅力的な御方だから仕方ないけど」


 そちらにも感動した。


「……で、あんたはなんで、そこで不貞寝を再開したのかな?」

「手ずから」

「妃殿下がお作りになられた料理を食べたいと?」


 リリエンタールが料理を食べたいというなんて、珍しいな……そう執事は思った――クローヴィスが聞けば「ラズベリーを煮ただけなんで、料理でもなんでもないです」と返すであろうが、ジャムを煮たことなどない彼らにとっては、ジャムは立派な料理。


「違うのだ、シャルル」


 ただリリエンタールが横になった理由は違った。

 クローヴィスが作ったジャムを食べたいという気持ちは、もちろんあるのだが――彼は絶望にうち拉がれていた。


「どうしたの?」

「わたしはあの娘が手ずから淹れてくれたコーヒーを、出されていたのだ」

「いつ?」


 以前、サーシャが仕掛け、見破られ――クローヴィスが前世の記憶を取り戻してすぐのころ――リリエンタールが足を運んだ際、クローヴィス自らコーヒーを淹れ、リリエンタールに出した。


「……」

「……」


 状況を聞かされた執事とアイヒベルク伯爵は、この部屋に入ってきた時と同じく視線を交わす――王侯は、外出先で自らの使用人から出されたもの以外、飲み食いすることはない。

 ただ礼儀として、口を付けた素振りをする――その時のリリエンタールは、クローヴィスのことを何とも思っていなかったので、いつも通り口を付けた素振りだけで、一口も飲んでいないことは、すぐに分かった。


 要するにリリエンタールはクローヴィスが淹れてくれたコーヒーを、飲む振りだけして口を付けなかった。


 リリエンタールの身分であれば、それは当然のことで、王弟ガイドリクスの副官を三年も務めていたクローヴィスも、貴族が手を付けたがらないことは分かっているので問題はないのだが、


「下手したら、妃殿下は”お口に合わないのですね”と、二度とコーヒーをあんたに淹れてくれない可能性が出てきた……ということですか」


 そうなることも、考えられる。


「その可能性もある……あの娘に給仕をさせるつもりはないので、それでいいのかも知れないが……」

「わたしやリーンハルト(アイヒベルク伯爵)が、妃殿下にコーヒーを淹れてもらって、お手製クッキーをつまんで話をしていても、我慢出来るの」

「できない……するはずないだろう」

「とりあえず、それについては、仲良くなったらすぐに告げなさい。妃殿下はガイドリクスの部下だから、事情は理解してくれるはずですよ」


 目を閉じていたリリエンタールは、先ほどと同じく顔を横にして目を開け、


「重要性は分かる。最善の策だとも認めるが……勇気がでない」


 自分の失態は隠し通したいと告げるが――


「外で飲み食いしないのを、側で見たら、すぐに妃殿下気付くと思いますけど。それが分からないあなたじゃないでしょ?」


 執事にすぐさま間違いを指摘され、


「コーヒーが苦くて飲めないという設定を盛り込むのは?」

「妃殿下、コーヒー好きですよ。一緒に飲みたくないんですか?」

「飲みたい」

「っていうか、あんた、コーヒー苦くて飲めないって(かお)かよ! 大体、すぐにキースにバレるぞ! キースは妃殿下に付くだろうし! あんたの嘘に口裏なんて合わせてくれないだろ、あいつは!」

「…………」


 精一杯足掻いたものの――夜、燕尾服に着替える時間まで、リリエンタールはソファーの上で、もだもだし続けたが、完璧の極致と謳われる頭脳は、何も策を思いつくことはできなかった。


「あの娘が淹れたコーヒーは、どんな味がしたのであろう……悔やまれる」


 リリエンタールは、一生それを悔やんだ――


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