【007】閣下、作戦を続行する
リリエンタールにとってはどこかの国に宣戦布告されようとも、親族が処刑されようとも、彼にとっては外側の変化であって、内面には関係することはなく、悲鳴も怒号も懇願も、彼の心の内にはとどかない ――
サーシャがガイドリクスの第三副官クローヴィスと接触を図ってから三日後、その日もいつもと同様の朽ちゆく静けさの中、リリエンタールの一日は終わるはずだった。
「失敗したのか」
「勘づかれたような感じを受けました」
リリエンタールはエーデルワイス作戦が失敗したという報告を、サーシャ本人から受ける。
「勘づかれた……か」
珍しく膝を折って報告しているサーシャだが、腹を殴られ立っているのも辛いというのは一目で分かる状態。
サーシャは弱い男ではないが、レンジャー研修まで受けている戦闘のプロ相手では些か分が悪い。
「はい」
サーシャと共に報告にきた部下が、対象であるクローヴィスの、サーシャと接触してから三日間のタイムスケジュールが記された紙をリリエンタールに渡す。
司令本部と寮の往復 ―― 一つだけ普段と違う点を挙げるとすれば、ガイドリクスと共に出かけた今日の午前中。
「今日ガイドリクスと共に王立学習院に行ったのか。王立学習院と言えば……」
十数日前、宰相モーデュソンが王立学習院の副理事長と面談していたことを、リリエンタールは思い出した。
「先日、宰相が王立学習院の副理事長と面談していたが、理由はなんだ?」
「急ぎ調査してまいります」
部下の一人が部屋を出る。
「ふむ……第三副官に探りを入れてみよう」
「閣下が自らですか?」
「そうだ。ガイドリクスの明日の予定を早急に調べろ」
サーシャには休むよう命じ、リリエンタールは目を閉じた。
部下は失敗したのだが、罰するつもりも、配置換えをするつもりもない。
リリエンタールにとって部下は失敗するものであり、失敗した場合の対応策は無数にある。リリエンタールという男は、自分が立てた作戦が、なんの障害もなく成功するなど甘い考えを持ったことはない。
彼の人生のように、途中途中で妨害が入るもの ―― 彼の人生は何ごともなければ、ブリタニアス君主国の王となっていた。だが度重なる妨害により、彼は並べられた無数の王位に背を向ける道を選んだ。
翌朝リリエンタールは、ガイドリクスが第一戦闘部隊の演習視察に赴いている時間を狙い、事前に連絡を入れることなく中央司令部へ出向く。
「殿下はただいま視察で」
受付たちが慌てふためくなか、エントランスのフロアのソファーに腰を下ろし、本当の目的がやってくるのを待つ。
リリエンタールの登場で静まり返ったエントランスホールに近づいてくる、規則正しい足音。
リリエンタールの側ではなく、伴った護衛の前で足を止め、
「ガイドリクス大将付き第三副官クローヴィス少尉です。リリエンタール閣下、どうぞ応接室へ。御案内いたします」
容姿に似合う低い声でクローヴィスははっきりとそのように告げた ―― 九年前に面接で話した時よりもいく分低くなったなというのがリリエンタールの第一印象であった。
面接時には腰まであった金髪は、グリースでまとめればオールバックにできそうなほど短くなっていたが、艶めきそのものは変わっていなかった。
濃紺に赤い太い線が入った尉官の軍服には、少尉を表す徽章のほかに、胸元に優秀な狙撃手であることを表す銀徽章が三つ付けられている。
軍内で狙撃手としては並ぶ者なし ―― 昨晩サーシャが撃たれなかったのは、死体の処理の面倒さからか? などと考えながらリリエンタールは立ち上がり、クローヴィスの案内の元、司令本部に視察にきた王族の休憩室を兼ねた一階の応接室へと通された。
「こちらでお待ちください」
ソファーに腰を下ろすと、クローヴィスは護衛に「コーヒーか紅茶を出したいのだが、どちらがいいか?」と尋ねる。
護衛が「コーヒーで」と返し、淹れる際は臨席したいと申し出ると、
「小官が淹れますので。どうぞ」
クローヴィスが淹れると言い護衛一人と共に応接室を出ていった。
「閣下、いかがですか?」
昨晩、腹を強かに殴られたサーシャは、雰囲気を全く変えて護衛の一人としてリリエンタールに従っていた。
「あの娘、何か知っているな」
「そうですか」
「とりあえず聞き出してみるか。お前とユグノーが同一人物であることには、気付いていないようだが」
リリエンタールはそれだけ言うと杖に両手を乗せて目を閉じる。
それから少ししてドアが開き、室内にコーヒーの香りが漂う。クローヴィスはリリエンタールの目の前にコーヒーカップを置き、廊下に待機させていた従卒に盆を渡して室内で待機する。
しばしの沈黙の後、リリエンタールは目を開ける。そこには後ろ手に組んだ、芸術品と表現するのが相応しいクローヴィスが立っていた。
色濃く透き通ったエメラルド色の瞳は、どんなカットを施されたエメラルドよりも輝き、長い睫が頬に落とす影に、教養として覚えた詩の一節を思い出した。
―― 人間らしさがないという評価もあったな
クローヴィスの評価の中でとくに高いのが容姿について。
人によっては「女なのに身長が高すぎる」というのをマイナス面に挙げる者もいるが、均整という面においては完璧。ただ整いすぎて「人間らしさがない」という評価も記入されていた。
たしかにこうして黙って控えていれば、その評価も分かるが、近くにいて会話を交わしていた者たちからは、そのような証言は一切なかった。
「イヴ・クローヴィス少尉」
「はい」
クローヴィスの声は緊張してはいたが、警戒は感じられないとリリエンタールは判断を下す。
「昨晩は部下が失礼した」
「……へ?」
やや大きめな口が微かに開く。
リリエンタールの提案はクローヴィスにとっては意外だというのがはっきりと分かった。
むしろ分かり易すぎて、少しばかり警戒したくなるほど。
―― これが演技だとしたら、大したものだが
「そのことについて、話がしたい」
”昨晩は部下が”という台詞から、サーシャがリリエンタールの部下であることをクローヴィスは理解し微かに頷く。
「業務終了後、八番街の謳う小鳥亭に。席に付く前に店員に”ブラック・ベルベットを二つ”と注文するように」
暗号と場所を命じると、口元に力を入れ、
「御意」
すぐに軍人の顔で返事を返してきた。
リリエンタールは取っ手に指を通して、コーヒーを口元へと運ぶ。
室内は再び沈黙が訪れ、リリエンタールがカップをソーサーに置く音のみ。
クローヴィスは軍服を着て立っているだけだが、美術館でワンフロアに一つだけ飾られるクラスの彫刻と競って勝つ姿 ―― 演習の視察を終えて急ぎ戻ってきたガイドリクスとリリエンタールが顔を合わせる。
”お役御免だ!”という気持ちが滲み出ているクローヴィスに、ユグノーだと気付かれていないサーシャは笑いを堪える。
リリエンタールの登場にガイドリクスの表情は強ばり、王立学習院での出来事に触れられたくはないのだろう ―― ガイドリクスが貴族と会う際には同席するヘルツェンバインが従わず、クローヴィスを残した。
―― クローヴィスはなにかを知っているようだが、ガイドリクスの意は受けていないということか
ヘルツェンバインの仕草から情報を抜かれることを警戒したか、それともヘルツェンバインに隠蔽工作を命じたか。どちらであっても、リリエンタールには関係はなかった。
現時点で彼の真の目的はクローヴィス。
「アディフィンの娘は要らぬ」
「ほう……若い男爵令嬢でも後添えにするのですかな」
それでいて、本来の目的の出方をも見るため”男爵令嬢”について、慇懃無礼な口調で”分かっているのだぞ”とそれに触れた。
ガイドリクスの表情から気付いて欲しくはなかったという感情が漏れたが、視線は決してリリエンタールから外さず ―― その態度は威嚇に分類されるほど強行なものでいまにもリリエンタールにかかってきそうだった。
―― ガイドリクス相手ならば勝てるが、あの娘はどうか。昨日の一件からサーシャでは止められなさそうだが。
ガイドリクスの”男爵令嬢”に関する態度はそうであったが、対するクローヴィスの視線はリリエンタールにとっても不思議なものであった。視線は上向きだが、いたたまれない……申し訳ない……というもの。
初対面と言ってもいいリリエンタールに対し「申し訳ない」と思うことに関し、心当たりはなかった。
「では失礼する」
クローヴィスの美しい瞳が輝き”やっと帰ってくれる”と内心が漏れていて ―― 分かり易い娘だなと思いながら、サーシャと共に中央司令部をあとにする。
車に乗り込んでから、向かい側に座ったサーシャに、
「任せたぞ」
「畏まりました」
手はずを整えるよう指示を出し ―― サーシャは途中で車から降り、クローヴィスを迎える手はずを整えにむかう。リリエンタールはそのままベルバリアス宮殿へ。
「娘がな」
執務室に到着すると、昨晩指示を出した部下が、宰相のモーデュソンと王立学習院の副理事長との面談内容を報告しにきた。
それによると宰相の娘シーグリッドが、男爵家の娘を階段から突き落とした件について話し合ったというものであった。
名門ではない男爵家の娘に、宰相の娘が危害を加えたところで問題になるのはおかしい ―― 事情は極めて簡単で、突き落としたとされる宰相の娘の婚約者が、わざわざ宰相に伝えた。
「モーデュソン嬢の処分まで求めたようです」
「出過ぎた真似だな。まだ婚約者でしかないくせに」
貴族には法が及ばない。
それは事実で、平民であれば捕らえられ罰せられる軽い犯罪ならば見逃される ―― しかし法が及ばないからどんな罪を犯してもよいわけではない。
さらに当主が法律ゆえ、当主の胸三寸ですべてが決まる。当主が公明正大な人物ならば良いが、暗愚であれば一族のものは通常の刑罰よりも酷いものを受ける。
むしろ平民のほうが法律で守られるので、弁護士の力を借りられれば貴族よりも身の安全を図れる場合もある。
「突き落とされた男爵家の娘ですが、貴族名鑑には載っておりません。跡取りとなれる長子が健在な家の次女で、男爵家の資産状況も芳しくないので、載っていなくても不自然ではないかと」
貴族名鑑とはその名の通り有爵貴族の名や住所、経歴や趣味、家族関係について記載されている。
その情報源は貴族自身。貴族を管理する庁から送られてきた書類に記入し送り返す。
むろん大貴族ともなれば家令が代わりに書き上げるが ―― 当主や家令が記入するほど重要なものであり有爵貴族の義務。
ただ跡取りでもない娘や息子を載せないということはままある。
大きな理由は資産状況。
娘が嫁ぐ際の持参金を用意できないので、敢えて載せず貴族との婚姻は望まないと暗に表明する、ということは経済事情が厳しい貴族の間ではよくある。
貴族に潜りこみたい商人などは、この貴族名鑑に載せられていない娘に狙いを付けることが多い。
リリエンタールは地図でフロゲッセル領を確認する。
なんの特色もない時代に取り残されたような場所 ―― たとえリリエンタールがルース皇帝に即位したとしても、この地に隣接しているルース領土を開発しようなどとは考えない。そうルース帝国にとってもロスカネフ王国にとっても、決して重要視されることのない土地。
「気に食わんな」
中央の目が届かぬ本当の意味での辺境の地にいる、名すら知られていない娘。
「報告に不備がありましたでしょうか」
それがどのようにガイドリクスに影響しているのか?
「いいや。あとは要らぬ」
いくつも予想が思い浮かび、その中の一つに正解がある自信もあったが、この国を出て行くリリエンタールにとっては、正答もなにも必要のないものであった。