【061】箱庭が綻びるとき/03
ユスティーナ・ヴァン・スイティアラ。
貧乏な子爵家の第一子として生まれ――希望していた跡取り男児ではなかったので、両親はユスティーナにまったく興味を示さなかった。
貴族の家では良くある話で、話を振れば「分かる」と同意してくれる女性も多い。
ユスティーナが物心ついた三歳の頃、妹が生まれた。
同じ「女」だが、金髪が美しく可愛らしい妹は、両親に愛される。
容姿はどうすることもできないので、ユスティーナは他のことを頑張った。勉強もしたし、領地の見回りができるように乗馬も覚えた。
でも、そんなものは、可愛らしさの前には無意味だった――
もう切り捨てたと言い聞かせても、思い出してしまう過去の夢をまた見てしまった日、配属先の情報局に登庁したユスティーナは受け付けで、
「スイティアラ少尉、近衛隊隊長のヴェルナー中佐が第八小会議室でお待ちです」
ヴェルナー中佐が会議室で待っていると告げられた。
「ヴェルナー中佐。フェルディナント・ヴェルナー中佐?」
中佐のヴェルナーが一人しかいないことを、ユスティーナはよく知っているのだが――
「はい。登庁後、直接来るようにとのことです」
受け付けはそう言って、命令書を差し出す。そこには見覚えのある「ヴェルナー」のサイン。
受け取ったことを証明するサインをしてから、その命令書を持ち、ユスティーナは小会議室へと向かった。その足取りは重い――だが遅いと怒鳴られたことを思い出し、ユスティーナは大股で急ぎ向かった。
第八小会議室前に到着しドアをノックする。
「ユスティーナ・ヴァン・スイティアラ少尉、参上いたしました!」
そして久しぶりに腹から声を出して名乗り、
「入室を許可する」
ドアの向こうから届いた許可を聞いて、一息ついてから、
「失礼いたします」
ドアを開けて深々と礼をする。
「頭を上げろ」
廊下で素早く直立不動の体勢へと戻り、室内を見る。
会議室には大量の紙の束が乗った長机と椅子が運び込まれ――机に肘をついたヴェルナーと、その背後に黒髪の男性が立っていた。
「早く入ってこい」
「はい!」
入室してドアを閉めたユスティーナに、
「こいつが一時的に部下になる」
ヴェルナーは振り返りもせず、親指で指し示し――国体変更の混乱から、翻訳者が足りず、後回しにしたくない書類があるので、翻訳出来る者を軍属として雇った……とヴェルナーから説明を受けた。
「書類はこれだ。まあお前は分からんだろうが、アディフィン語で書かれたガイドリクス殿下とマリーチェの離婚関連の書類だ。離婚は成立しているが、それに伴う資産の分配だとか、通商条約の変更だとか、相互援助の取り決めの見直しだとか、結婚で結んでいた契約の一部を変更しなくてはならない」
妹に乗り替えた薄情な婚約者だが、ユスティーナも貴族令嬢として、それも婿取りの跡取りとして一時期婚約者がいた身なので、政略結婚の解消の面倒さはなんとなく分かる――無論、貧乏子爵とは桁違いの面倒だが。
「書類に目を通して、間違いや不備がないかを早々に確認する必要がある」
国同士のやり取りなので、当然のことだが――だが翻訳できる者が足りないので、ヴェルナーが信頼できる知り合いを連れてきた。
「議会に提出され一般の目に触れる類いのものなので、それほど機密性は必要ないが、人目に晒す時期というものがある」
王族の婚姻関連の書類を情報局の片隅で翻訳するのは、ちょっとした機密保持のため――とユスティーナは説明された。
「居ないとは思うが、勘違いして書類を盗もうとする輩がいるかもしれん。そういうことも含めて、お前の配下にするというわけだ。書類にサインしろ」
自己紹介すらしていない・されていない状況だが、それは後回しでいいのだろうと、ペンを取り急いでサインをする。
ユスティーナのサインを確認したヴェルナーは、財布を取り出して、かなりの額を机に置いた。
「外で昼飯を買って、こいつに食わせろ。食堂はなしだ」
「はい」
「足りなくなったら電報を寄越せ。あとは任せた」
「はい」
書類を手に、ヴェルナーは部屋を出ていった。その姿は颯爽としていた。
ユスティーナは一度部署に戻り、上司に書類を提出する。上司にも連絡が届いており、どのように仕事をするのかについての説明を受けた――それほど難しい仕事ではなく、登退庁の際に荷物の確認をし、昼食を運び、二日に一度、書類を箱に詰め、ユスティーナの名で封をし受け付けに運び、受け付けにある差出人がヴェルナーの箱を会議室へと運ぶというもの。
足りなくなった消耗品は、ユスティーナの部署から持ち出すことに関しても話が通っていた。
ゲレオン・ヴァルト・アイスラー。――通訳の名前だが、彼は小さな会議室で、一人静かに翻訳の作業を行っていた。
書類の中には最近の報告や、この先の遠征についての計画書などが含まれていたが、気付かれることなく――ガイドリクスは自分と妻の離婚関連の書類の翻訳作業にも勤しんだ。
王族として周囲に人が居ることが当たり前の生活を送ってきたガイドリクスにとって、かなり新鮮な経験だった。
命や貞操が狙われているので、護衛が周囲にいないのは、やや不安だが、ガイドリクスも人並み以上に戦うことはできる。
――クローヴィスに勝てる気はしないが……それにしても、なぜクローヴィスがフロゲッセルへ? エルメル絡みか……ん? ああ、もう昼か
こちらへ向かってくる足音に手を止め、時間を確認すると、そろそろユスティーナが昼食を運んで来てくれる時間だった。机に広げている書類を脇に寄せ、鍵を持って立ち上がる。
今日はシナモンロールとベリーソースが掛かったミートボール。シナモンロールはワックスペーパーに包まれ、ミートボールは持ち帰り用の鉄製の器に入っている。
鉄製の器はユスティーナの私物――初日に持ち帰り用の器を持ってきて下さいと言われた時、ガイドリクスは焦った。
なにを言われたのか、理解できず、返事に詰まった。
ガイドリクスにとって料理は、贅をこらした銀製のクロッシュが被せられた皿によって運ばれて来るものであって、持ち帰り用の容器というものは使ったことがなかった。
なので正直に持っていないと告げると、
「わたしので良ければ」
ユスティーナが私物を貸してくれた。
水筒に入れてきた温くなったコーヒーと共に、ユスティーナが買ってきてくれた昼食を取る。
質素な食事だが、
「次から次へと書類が送られてきてますね」
「ええ」
「政府関係の書類となると、専門用語も多いって聞きますけれど」
「多いですね。どれでも専門になると、独特の用語があり、専用の辞書が必要になります」
「辞書、見せてもらっていいですか?」
「どうぞ」
一日中、狭い会議室で一人きりは辛いだろうと、二日に一度の割合でユスティーナが一緒に昼食をとってくれる――ガイドリクスはこの時間が好きになっていた。
「なにを書いてるのか、さっぱり分からない」
「アディフィン語は難しいですよね」
「アイスラーさんは、何カ国語くらい使えるんですか?」
「仕事として引き受けられるのは、四つほどですね」
ガイドリクスが正式な場で通訳が必要ないのは、ブリタニアス、ノーセロート、アディフィン、そしてルース語。それ以外の言語も軽い会話くらいならば、五カ国語ほど使える。
「すご……なんか、コツとかあります?」
「少尉は外国語を覚えたいのですか?」
「はい」
「駐在武官を目指されるのですか?」
「目指したいけれど……そこまで出世はできないなあ」
ユスティーナは士官としては凡庸――厳しい試験を勝ち抜け、厳しい士官学校を卒業できたのだから、優秀なのだが、優秀な中にあっては凡庸の中でも下の部類。
出世コースに乗るのは難しい。
「まずは勉強してみてはいかがですか? わたしは辞書……で、独学です」
本当はその言語を母国語としている人を講師として招いて習ったのだが、そんなことが出来るのはごく僅かな人なので――いまのガイドリクスことアイスラーは「裕福な中産階級」設定。
クローヴィスを元に考えるよう言われていたので……とても外国から語学の講師を招くなどできないので、嘘を付かざるを得なかった。
「才能あるんですね……あ、それじゃあ、終業時に荷物検査しに来ますから。面倒でもお付き合いください」
「むしろお手数をかけて」
「仕事ですので、お気になさらずに」
ユスティーナは立ち上がりドアが開きっぱなしの部屋を出ていき、ガイドリクスが扉を閉めて鍵を掛けた。