【060】馭者、棺を用意する
リリエンタールは当主の責務として、アレクセイの婚約者を用意した。
邦領君主の娘で名をヨハンナ・フォン・マイトアンバッハと言う。
ヨハンナは嫁ぐために育てられ、この時代の貴族階級において完璧な令嬢に育った――なんの面白みも特技もなく、また容姿も凡庸。
実家は時代の流れに乗れず、いまだに貴族らしさにしがみついている貧乏な邦領君主で、ヨハンナの支度金で一息つくことができた。
妻の実家が下手に勢いがあったり、妻として迎えた女がアレクセイを焚きつけたりなどして、戦争が起こっては困るので――世界情勢を考慮し、アレクセイの身分に釣り合う、完璧な婚約者だった。
それを不服に感じていたのはアレクセイ。
彼は自分を連れ逃げてくれた部下たちに報いたいと考えて――そのためには、共産連邦からルースを取り戻すしかないと考えていた。
ただ幾らアレクセイが語っても、ほとんどの人は聞き流すだけ――その理由は、正統な後継者であるリリエンタールが、国を取り戻そうとしないから。
アレクセイは何度かリリエンタールに、故国を取り戻したいと告げたが、手を払う仕草だけで下げられるを繰り返しただけ。
その結果、アレクセイとリリエンタールは不仲になった――不仲と感じたのはアレクセイだけで、リリエンタールにとってはどうでも良いことではあったが。
ヨハンナ・フォン・マイトアンバッハ。彼女の遺体が見つかったのは、彼女の実家の礼拝室から続く地下墓。
その冷ややかで暗い空間に、ヨハンナの死体はあった。
死化粧が施され、胸の上で手を組み、萎れたミニブーケが添えられ、シルクのシーツで包まれ横たえられていた――享年十九。
地下墓には他にも棺に収められていない遺体が、同じようにシーツに包まれ安置されていた。
それらはヨハンナの家族。
アレクセイは彼に心地良い言葉を囁いてくれる女・マチュヒナの手を取った――アレクセイにとっては「戦争をするしかない」と厳しいことを言ってくる相手と認識されているのだが、実際はアレクセイが言って欲しいことを、燻りつづけたプライドを上手く煽り語っただけのこと。
マチュヒナは更にアレクセイに巧みに囁き――「愛しているヨハンナを殺害させる」ことに成功した。
アレクセイはヨハンナが自分のことを愛していると思っていたが、ヨハンナのことは愛していなかった――だが、マチュヒナはアレクセイに「ヨハンナのことを愛している」と偽りを植え付けた。そして愛している彼女を殺害することで退路を断たせた――救国の英雄になりたかった皇子に悲劇や自己犠牲はつきもの。
実際の悲劇に見舞われ、犠牲になったのは、全く無関係なヨハンナの一族だが、アレクセイの中では、自分のための尊い犠牲に変換されていた。
またヨハンナの死体を丁重に扱ったのは、その気持ちの表れ――マチュヒナは完全に自分に酔ったアレクセイの単純さを嗤うことはなく、むしろ少し警戒した。
こうして愛する女性を自らの手で殺害し、引き返せなくなったアレクセイは、マチュヒナの手引きで合流したストラレブスキーと共に、奪還作戦を開始する。
ヨハンナの家族が殺害された理由だが、アレクセイの動向をリリエンタールに知られないようにするため――どちらかと言えば、ヨハンナは切っ掛けをつくるために殺害されただけ。
アレクセイとヨハンナの結婚を決めたのはリリエンタールで、支度金を用意したのもリリエンタールで、税収不足の赤字を補う国債を買ってくれるのもリリエンタール。
貧しい邦領君主だったヨハンナの父は、金をくれるリリエンタール寄り――その小者精神を買い、金を与えてアレクセイの動向を監視させ、報告させていた。
ただ小者が過ぎて嘘をついたり、リリエンタールを裏切ったりはできない人物でもあった。
アレクセイの動向の監視に直接あたっていたのは一人の従僕。この男が裏切り――アレクセイが当主たちを殺害し、ストラレブスキーと共に居なくなったあとも、そこにいるかのように虚偽の報告を届けていた。
なにも動きがないので従僕のペーターは、気付かれていないと思っているのだが、実際は気付かれていた。
「放置でよろしいのですか」
従僕のペーターは貴族の三男で、当主の仕事の代行の補佐をしていた。そのうち、自分のほうが優秀で当主に相応しいと考え――当主一族の他に、上流使用人たちに毒を盛って排除した。
「領民は困っていないようだからな。まあ、あの庭ほどしかない邦領地など、誰が治めても困りようもないのだがな」
ヒューバートはヨハンナの死体の「保管」を命じられた――いきなり皇子の婚約者らしい死体の保管を命じられたヒューバートは、どうしてこうなったのか? を尋ねた。それに対して、リリエンタールはそのように答える。
「実際は赤字が出ていますが」
「金を借りられているうちは大丈夫だ」
「……。殺害した上流使用人たちに、いまだ給与が支払われているような形になっていますが」
金を貸している形になっているリリエンタールの元には毎月、二ヶ月遅れの収支表が届き、その金の流れはいままで通り。
「従僕の懐に入っている」
「不正受給ですか」
ハクスリー公爵ヒューバートは、グロリア女王から押しつけられた――ヒューバートの父親は健在なのだが、この父親、大貴族の嫡男として生まれたのは間違いだったとしか表現しようのない人物だった――ヒューバートの父親は駆け引きや、言葉の裏を読むことがまったく出来なかった。
そこで貴族の義務である跡取りを作らせたあと、早々に修道院に押し込み――若くして家督を継いだヒューバートの教育に、王家が乗り出し、その教師役に任命されたのがリリエンタールだった。
王族はグロリアとリリエンタールしかいないので――最初は拒否したがアバローブ大陸のハクスリー領バルツアルル王国も統治させるとグロリアに言われ、引き受けざるを得なかった。
「なかなか小狡い男で、発覚を遅らせるために、殺害した使用人の数名が行っていた仕送りは止めていない」
ペーターは従僕のまま働いている。これも発覚を遅らせるため。
「金の切れ目が縁の切れ目って言いますけど……逆もまた真ってところですね」
ヒューバートはやや呆れ気味――だが仕送りが届いているうちは、遠く離れて暮らしている親族たちは、送り主が既に殺害されているなどとは考えない。
足を運ぶにも、使用人として働いている彼らの予定があるので、前もって手紙を送る必要があり、それらは全てペーターが開封して中身を確かめ、上手く言いつくろうことができる。
「せっかく出来ると意気込んで頑張っているのだ。精々、頑張ってもらおうではないか」
リリエンタールにとっては”庭”程度の領地で人口も四万人程度だが、それでも統治するとなると難しい……と領地と住民を所有するヒューバートは思う――ヒューバートのほうが領地も住民もはるかに多いが。
「でも当主不在を、何時までも隠しきれませんが……どうするのでしょうか?」
「ルッツの報告では、当主になりすましているのがいるそうだ。ルッツが語る特徴を持ち、この事態に関係しそうなのは、パルシャコフくらいだが」
――誰だろう……
ヒューバートは初めて聞く名にどうしたものか……と、リリエンタールの後に立っている「ルッツ」に視線を向けるが、教えてくれそうな気配はなかった。
「ルース帝国時代の国家保安省の間諜の一人だ。現在は共産連邦のスパイだが」
「なるほど。それでは従僕のペーターは、そのうち殺害されてしまうのでは?」
従僕のペーターが証拠隠滅のため共産連邦の手により殺害されてしまうと、証拠が失われてしまうのではないかと考えたヒューバートだが、リリエンタールは否定する。
「それはないだろうな。あの邦領には港がない」
アレクセイは海を見たことがない――婚約のためにヨハンナの実家へと赴いても、見ることはできなかった。
リリエンタールが数ある邦領君主の中、大勢いる花嫁に相応しい姫のなかからヨハンナを選んだ理由は、実家が海に面しておらず、港がないことが決め手だった。
不凍港を欲して進軍を続ける共産連邦にとって、港のない土地などうま味はない。飛び地にする価値すらない――
「あ……」
強海軍を有する、不凍港しかない島国生まれのヒューバートは、侵略理由の七割は不凍港と言われる共産連邦の行動原理をよく見落とす。
「あの邦領に港があったら、共産連邦はまずアレクセイを邦領君主に仕立て、足がかりにしたであろうよ」
それを避けるためにも、リリエンタールは海に面していないどころか、海からもっとも遠い邦領君主の娘を婚約者に選んだ。
「……」
ヒューバートはアレクセイの婚約者の選定が、どのような基準で行われたのか知らなかったが、話を聞いて「そこが重要なポイントなのだ」と――いずれ一門の当主として、一族の婚姻の差配をしなくてはならない身としては得ることが多い。
「もっとも邦領国家群は防衛をアディフィン王国に任せているから、ヴィルヘルムに気付かれれば面倒なことになるので、アレクセイを君主にしたとしても、準備が整い次第、邦領からは撤退するであろうがな」
グロリア曰く「ヒューはリチャードに似てるのね」
ここでグロリアが言うリチャードは、リリエンタールの祖父のリヒャルト六世のことで、似ているのは軍事的才能がないこと。
ヒューバートも自分自身、驚くほど才能がなく――軍事は専門家に任せたほうが良いと早々に判断を下し、アバローブ大陸にある領地の防衛をリリエンタールに依頼し、クレマンティーヌ総督がまとめて防衛してくれている。
もちろん相応の金は支払っている。
「ペーターはリトミシュル閣下に捕らえられる……ということでしょうか?」
パルシャコフがどんな人間かヒューバートは知らないが、リトミシュル辺境伯爵に捕まるのは嫌だな――その気持ちがリリエンタールに伝わり、
「たしかに、ヴィルヘルムに捕まるよりは、パルシャコフに毒を盛られたほうが楽であろうな」
思った通りの返事が返ってきた。
ヒューバートは従僕のペーターに対して、憐憫の情はないが、それでも毒を仰いで死んだほうがいいよと、実際はすることのないアドバイスをする。
「捕まえるかどうかは分からん。従僕がパルシャコフについて詳しいことは知らないのは、火を見るより明らかだ。パルシャコフを捕まえて、アレクセイを唆した人物について聞きたいとは思うが。パルシャコフを上手く捕らえられたら、アウグストのところにでも送るつもりだ」
「…………」
ヴィルヘルム同様、アウグストもよくある名前だが、
――そのアウグストがフォルクヴァルツ選帝侯だったら……実際なにをするのかは知らないけれど……捕まったら最後らしいなあ
それがフォルクヴァルツ選帝侯の場合は……と考えると、背筋に冷たいものが走った。
「共産連邦の作戦が開始されたら、パルシャコフは死体の処理を行い帰還する。おそらく君主一家は旅行に出て事故に遭う。冬に外国で馬車が氷に滑って橋から川へと転落して、激流に飲まれて……春になってからでなければ、捜索のしようもないので、地下墓から取り出した死体を乗せておけば、良い具合に腐敗して、いつ殺害されたか分からないな。その時、ヨハンナの死体と共にまとめて埋葬する。ルッツが置いた代わりはハインリヒ下の、骨の専門家たちに判断させる」
いつもの通り、まるで計画を立てた本人のように、リリエンタールは彼らの計画を言い当てる。
当然そのような計画なので、ヨハンナの遺体がなければ騒ぎになるが――ヨハンナの遺体を持ち出したことに気付かれないように、ルッツは別の死体を代わりに置いた。代わりを用意するのは簡単だった。
「それ以上、鼠に食われぬよう、しっかりとした石棺に入れておけ」
「御意」
石の棺に収められていない遺体は、鼠の餌になっており――せっかく死化粧を施された顔の半分以上が既に食われていた。
もちろんそれは、当たり前のことなのだが。
アレクセイの自己満足は、どこまでも自己満足にしか過ぎなかった。