【059】イヴ・クローヴィス・09
「娘が帰ってしまった……」
シーグリッドを見送ったクローヴィスの瞳に浮かんだのは悲しみだけではなく、僅かばかりの安堵――リリエンタールの知り合いの聖職者が、シーグリッドを修道院に連れて行くと聞かされたときのクローヴィスの表情。
そしてシーグリッドが残していった、クローヴィスのために刺繍を刺したハンカチを手にしたときの、やはり少し悲しげな笑顔。
娘ことクローヴィスが滞在していた部屋へと足を運んだリリエンタールは、クローヴィスの荷物が――鞄一つだけだが――引き上げられた部屋で、深いため息とともに呟くと、
「帰るに決まってるでしょう」
執事に淡々と返された。
「…………」
執事は忘れ物などがないかを確認するため――
普段であれば使用人に任せることだが、クローヴィス絡みのことは、おいそれと使用人に任せられないので、執事がやってきた。もちろんリリエンタールは必要ない――
「それにしても、綺麗に使われて。なんか、お通しした時より部屋が綺麗になってる感すらありますね。几帳面な御方なので……ん? おい、ほら、あんた。妃殿下のメッセージ」
忘れ物はないか? と、ライディングビューローの引き出しを開けていた執事は、クローヴィスが認めた感謝の手紙をみつけた。
封はされておらず――
「お前宛ではないか、ベルナルド」
宛名は執事。
「当たり前だろう……その顔。不満があるなら、読まなくてもいいけど」
片眉を上げ、半眼気味になったリリエンタールが持っている手紙を取り上げようと執事が手を伸ばすと、
「いや、読む」
手を払う仕草をし、便箋を取り出した。
端をぴったりと合わせて折られた便箋を取りだし開く。
「これが、あの娘の文字か。力強く伸びやかだ」
――女性の文字を褒めるのに、力強くって表現はどうなんだ?
どう感じようが個人の自由ではあるが、
「女性に力強いはどうなの? 思うのは自由だけど、御本人には言わないほうがいいんじゃない?」
そこだけはしっかり釘を刺す。
「そうだな」
クローヴィスの手紙の内容は、ベッドの寝心地が良かったこと。シーツをコットンにしてもらえて嬉しかったこと。食事がとても美味しかったこと、一番美味しかったのは、朝食に出たバゲットのサンドイッチだったこと。料理人にありがとうと伝えて欲しい。廊下に飾られている宝石類は、自分には善し悪しは分からないこと。一番気に入った絵のタイトルと、どんな所が気に入ったか――
「…………」
そして最後に色々とお世話になったリリエンタールに、機会があったら感謝を伝えて欲しいということが書かれていた。
「良かったね」
横からのぞき込んで手紙を読んだ執事は、
―― 妃殿下、ありがとうございます。あと力強いな。うん……筆圧は普通なんだけど、力強いし若々しい
クローヴィスの心遣いに、心から感謝を述べ、リリエンタールに同意した。
「人生で初めて手紙をもらった」
リリエンタールはテーブルに置いていた封筒を手に取る。
「わたし宛だけどね」
封筒にはしっかりと「執事のベルナルドさんへ」と書かれていた。
「…………」
誰が見ても「ベルナルド」で「リリエンタール」は欠片もない。
「いや、あんたにあげるよ、それ。取り上げたりしないよ?」
「ベルナルド」
「はい」
「娘の手紙に書かれている通りに仕事をせよ」
純白の手袋を嵌めた手で「リリエンタール閣下にもお礼を」と書かれている文章を指す。
「手紙を認められた妃殿下は、この手紙をあんたが読むとは思ってないから、そう書いたんでしょ」
「………………」
しばし王族同士が視線をかわし――
「妃殿下があんたに感謝してましたよ」
執事が折れた。
「そうか。感謝されるようなことなど、していないが、感謝されるのは嬉しいものだな」
リリエンタールは残り香もなにもない、報告書に近い手紙に再び視線を落とす。
「良かったですね……なんだ、この茶番……いいけど……」
少し呆けてしまった執事だったが、部屋を訪れた目的を思い出し――室内にクローヴィスの忘れ物がないかどうかの確認を再開する。
「さすが優秀な軍人さん。忘れ物はないようです…………あのさ、妃殿下が使用なさったペンとかインク壺とか便箋とか、保管しておけばいい?」
来訪者用に用意されたペンなどは、使われていた場合は、使用人用に降ろされるようになっている。
「わたしの書斎へ運べ」
「…………妃殿下が使ったシーツとかも、取り置きしておいたほうがいい?」
「そうだな。また結婚前に泊めた際に、それを使用するのがよかろう」
幾らでも新しいものを用意できるが、庶民風に何度か使ったほうが好かれるのでは? と、リリエンタールは考えた。
「結婚前に泊めるなよ! そんなに頻繁に泊めてたら、不自然だからな! もちろん取り置きしておきますけど」
リリエンタールはその日一日、クローヴィスからの御礼状――執事宛だが――を眺めて過ごした。
その表情はあまりにも不機嫌そうで、
「愛しい人が書いた、感謝状を読んでる表情じゃない」
執事以外の人は、遠巻きにすることすら倦厭するほどだった。
**********
リリエンタールに、
[あの娘をフェドレケ修道院の修道女にせよ。労務は刺繍だ。肉体労働はさせなくてよい。志願者ではなく修練者に。寄付はいくら欲しい? ベルナルド、小切手帳を。欲しい額を書き込め。こちらはお前への手数料だ。好きな金額を書け。ん? 欲しいのならば、この使いかけの小切手帳をくれてやるぞ]
そのように言われたオリンド司祭は、話が見えず――
金額未記入の小切手を三枚押しつけられ、その後、家令と名乗っている異端審問官のスパーダに事情を聞いて、
[……気にしているから……ですか?]
[そうです。妃殿下はお優しい方ですので]
[……]
いままでのリリエンタールを少しながら知っているため、スパーダの言葉が頭に入ってこなかった。
[良いところを見せたいのですよ。今までの枢機卿からは考えられませんが、いまの枢機卿は恋する征服者ですので]
[征服者……]
征服者という表現に関しては、オリンド司祭はすんなりと飲み込めたが、その前についた「恋する」はあまりに異質過ぎて、かなり理解に苦しんだ。
[華燭の典の際には、迷える子羊も招待されることでしょう。その時はあなたが責任を持って、連れてくるのですよ、オリンド]
[は、はあ……]
[華燭の典については、まだ迷える子羊に話してはいけませんよ。枢機卿の結婚はまだ内密に]
[分かっております]
彼らが「妃殿下」と呼んでいる中産階級の娘がどのような娘なのか、オリンド司祭は話を聞いても全くわからなかった。
そしてできる事なら、中産階級の娘を一目見たかったのだが、
[止めておきなさい]
[駄目ですか]
スパーダに止められた。
[ええ。もの凄く嫉妬深いので]
[一応聞きますが、誰が嫉妬深いのですか?]
[シシリアーナ枢機卿がです]
[…………]
[信じられないほど、攻撃性が高くなっています。いまのシシリアーナ枢機卿に、妃殿下の話は振ってはいけません]
オリンド司祭は黙って頷いた。
その後、様々な仕事をリリエンタールから言いつけられ、ボナヴェントゥーラ枢機卿宛の手紙も持たされ、オリンド司祭はシーグリッドと共にロスカネフ王国を去った。
――中産階級の娘とは一体……本当に存在するのだろうか?
オリンド司祭がそう思ったとしても、仕方のないこと。
教皇領へと戻る最中、シーグリッドが語った「優しくて綺麗な少尉」と「リリエンタールの妻となる中産階級の娘」が同一人物だったとは、思いもしなかった。