【006】臣下、引越し先を尋ねる
ヴェルナーは王弟からの命を受け、視察という名目で王都を離れ、情報収集を行い ―― 目的を果たし王都へと戻ってきた。
夕闇の名残も去った夜空の元、ヴェルナーに同行した二名の士官は、着替え等の入った自分の鞄と、ヴェルナーの私物や仕事用品が入った鞄を持って、駅舎内を歩いていた。
ヴェルナーに同行したのは彼の副官オクサラと、目くらまし用に同行させた王弟の副官クローヴィス。
「強行軍でしたね、オクサラ中尉」
「そうだったなあ、クローヴィス少尉」
目くらましとは言葉の通り、煌めくような金髪、色濃くありながら澄み切った緑の瞳を持つ芸術品に例えられるクローヴィスを立たせておくと、人の視線がそちらに向くので、何をするにしても一瞬の隙を突くことができるのだ。
「視察って大変なんですね」
「今回は特に大変だったな」
「煩いぞ、二人とも」
上官に叱責された二人は「あー」と顔を見合わせてから口を噤んだ。殴られなくて良かったなと思いながら。
駅舎を出たところで、ヴェルナーがクローヴィスに手を差し出し、
「お前は帰れ」
「はい」
自分の私物がはいった鞄を持って、オクサラと共に馬車に乗り込んだ。
「ご報告お疲れさまです」
遠ざかる馬車を見送ってから、クローヴィスは独身寮へと徒歩で帰途についたのだが ――
「そこの金髪のお兄さん、一緒に飲まない」
料理と酒を提供するオープンカフェ前を通っていると、癖のある髪と琥珀色の瞳が特徴的な、軽そうな男に声を掛けられた。
クローヴィスは男ではないが、男と間違えられることには慣れており、自分がどこから見ても大男なのは理解している。金髪の男はあたりには大勢いたが、とりあえず足を止め声がした方を向く。
呼び止めたと思しき男はグラスを掲げ、にっこりと笑った。
「いきなりなにかな?」
「一緒に飲まない?」
「誘うのなら女のほうがいいのでは? お前なら声を掛けた女に断られないだろう」
声を掛けた男は、非常に整った顔をしていた。
「お兄さんにそう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、それ本気で言ってるの?」
「本気で言っているが」
「お兄さん、実は鏡見たことない?」
「あ、そういうこと。自分の顔なんて見飽きているから、特に何も思わない」
クローヴィス自身、自らの顔が整っていることは理解しているが、それはあくまでも男性としてみた場合であり、初対面の相手が女だと分からないこの容姿は、どれほど整っていようが、女性であるクローヴィスにとっては無用の長物。
「うわ、もったいねえ。じゃあお兄さんは見飽きた顔、正面から見させてくれない」
「……」
「俺変な趣味はないから。ただ小説なんかに出て来る”芸術品のような美貌”ってどんなもんだよ、と思っていた所、お兄さんが通りかかって”あ、もしかしてこういうの?”って思って声かけたの」
「……ご期待に添えるほどの美貌かどうかは知らないが、一杯奢ってくれるなら正面に座って顔くらい見せてやる」
「もちろん奢らせてもらうよ。あ、俺はユグノー。説明しておくとバルニャー領イルフォード島出身なんで、苗字はないんだ」
クローヴィスは”そういう文化のある国もあったな”と思いながら、ユグノーの前に座った。
「それにしちゃあ、随分と滑らかにロスカネフ語喋るな」
「そりゃあ母親がロスカネフ人だから」
「なるほど。わたしはイヴ・クローヴィス」
クローヴィスはユグノーの前に座る。
「イヴ……コッチじゃ、イヴは男女両方に使われる名前だよね。えっとお兄さん、まさか……いやーでも、男に見えるけれど男とは思えないほど綺麗だから、もしかして?」
「弟と妹はいるが、兄と呼ばれたことはないな」
「それは失礼した。今夜は存分に奢るよ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
リリエンタールの居城及び仕事先の警備責任者の名はリーンハルト・フォン・アイヒベルクという。
黒髪でライトブラウンの瞳を持つアイヒベルクは、バイエラント大公ゲオルグの数多い愛人の一人との間に生まれた庶子である。
彼は早産で、リリエンタールに先んじること三日早く生まれた ―― 本来であればアイヒベルクはリリエンタールより遅く生まれる筈であった。
もっとも遅く生まれようが早く生まれようが、愛人の子であるアイヒベルクと正嫡のリリエンタールとでは生きる世界が違うので兄でも弟でもない。
アイヒベルクがリリエンタールに初めて会い、会話をしたのは十三歳の時。場所はアディフィン王国の幼年学校。
本来であれば出会う筈のない場所での出会い。
リリエンタールはブリタニアス君主国の後継者と目されていたのだが、各国の思惑によりルース帝国皇太子に冊立され、アディフィン王国の幼年学校に通うことになった ―― 庶子であるアイヒベルクには到底分からない世界の出来事であった。
幼年学校在学中に両者の父ゲオルグが死去する。
バイエラント大公領と利殖に長けていたゲオルグの残した財産の全ては、リリエンタールのものとなった。
アイヒベルクの母親は既に過去の愛人として年金が支給されており、ゲオルグの死後も今までと変わらず独身である限り年金が支給されることとなり、アイヒベルクも二十歳までは庶子として生活費が支給される ―― それらの金の出所はもちろん全財産を継いだリリエンタールである。
他の愛人や庶子も全く同じ遺言が残されていた。
リリエンタールの母親、皇女エリザヴェーダは若い頃から修道院に入り、神に仕えていたのだが、国の事情で還俗を余儀なくされ、二十歳近く年上のゲオルグに嫁いだ。
清廉を好み信仰に篤いエリザヴェーダと、現世を楽しむゲオルグの相性は悪く ―― ゲオルグが自分と同時期に愛人を孕ませたところで限界を迎え、エリザヴェーダは身重の時期に、アディフィンを出てブリタニアスに渡り、腹の子を次期ブリタニアス王としてくれてやるので、自分の頼みを聞くようブリタニアスの女王グロリアと取引し、出産後に修道院に入り以降ゲオルグと会うことはなかった。
もちろんエリザヴェーダとゲオルグは離婚してはいない ―― 離婚などしたら、リリエンタールの価値が下がってしまうから。
別居を選び夫が死去しても愛人がいるので近寄りたくないと葬儀に出席しなかった妻 ―― そんな母親を持つリリエンタールなので、彼らはゲオルグの遺言が履行されるかどうかを不安に感じていたが、リリエンタールはそれらを履行し、彼らは安堵した。
幼年学校で何度か会話をしていたアイヒベルクは、若者特有の正義感と、庶子である劣等感から「愛人や庶子は嫌いではないのか」と尋ね ――
「嫌い? さあ?」
無表情のほうが余程雄弁だ ―― その時のリリエンタールの微笑みを、アイヒベルクは今でも忘れることができない。
幼年学校成績最優秀者のリリエンタールと、成績優秀者のアイヒベルクはそれ以降交流を持ち、そして今に至る。
ベルバリアス宮殿の執務室で椅子に深く座り、背もたれに体を預け足を組み、指をも組んで目を閉じているリリエンタール。
「閣下」
「なんだ、リーンハルト」
「次はどちらへ向かわれるのですか?」
「そうだな……久しぶりに暖かい国へでも行くか」
リリエンタールは目を閉じたまま答える。
「似合いませんな」
リリエンタールは感情とは無縁の態度と、寒さで有名なルース帝国を継ぐと目されていたことが相俟って、冷たさが似合う男とされている。
実際は寒冷地ではないブリタニアスで生まれ、暖かな教皇領で育ち、幼年学校に通っていた時期は、まあまあ寒いアディフィンにいたが、その次は南の新大陸と、陽気で歌や踊りを好む人々が多い土地に住んでいた期間は長い。
「そうだな」
だがどうにもリリエンタールという男は見渡す限り白く染まった、生物など存在しない凍えた大地を思わせる。
ドアをノックする音 ――
「入れ」
「失礼します」
アイヒベルクの許可を得て入ってきたのは、琥珀色の瞳の青年。
「エーデルワイス、上手く行きました」
「そうか」
遺言にあった通り、隠れて恋人を作った愛人は年金を打ち切られ、秘密裏に結婚して家庭を築いていた者は遡り年金没収の他に、違約金が追徴され強制執行が執り行われた。
二十歳を迎え生活費の支給が終わる庶子たちに対し、縁談が用意されるわけでもなく ―― リリエンタールは遺言に書かれていないことは、何一つしなかった。
そこに憎悪の一片でもあるならば、彼らもなにか言うことができたのだが、リリエンタールにはなにもなかった。
ただ庶子たちにとって幸いだったのは、長庶子(ゲオルグの庶子で最初に生まれた人物)が優秀な人物で、リリエンタールと会話することができる人物にまでなっており、彼ら庶子の面倒をみてくれたおかげで、嫁ぎたいものは嫁ぐことができた。
むろんリリエンタールは長庶子の言うことを聞くわけではない。陳情を受けてやり、許可をくれてやるだけのこと。
長庶子も出過ぎたことをすれば、すぐに首を切られることは分かっている。長庶子は一臣下として生きている。
そしていつしかリリエンタールよりも年上である、前妻の嫡子たちも一臣下に成り下がり ―― 目を細め口角を僅かに引く笑みを浮かべるリリエンタールの前に頭を下げる。
「サーシャ」
「はい」
「エーデルワイスは美しかったか?」
「ええ。芸術品呼びは、伊達ではありません」
「そうか……」
巨万の富、数々の王位、数多の戦功、無数の名誉、大勢の信奉者、宗教界の権威 ―― 常人には抱えきれない全てを持ったリリエンタールが何かを欲しがっているのを、一臣下たるアイヒベルクは見たことがない。