【057】至尊の座を狙ったものたち・09
アイヒベルク伯爵にマンハイム地方で捕まった男――名前はあるのだが「マンハイムの」と呼ばれている――何故そのように呼ばれているのかマンハイムの男には分からないが、聞ける相手もいないので、黙ってそう呼ばれている。
マンハイムの男はリリエンタール邸の敷地から出ず、リリエンタール本邸以外ならば、どこに居ても良いとされ――その後、放置されていた。
当初は監視でもされているのではと思っていたが、
【お前にそれほどの労力は割かないぞ】
警戒しているマンハイムの男に、通りがかったアーリンゲがそのように教えてくれたが、それを頭から信用するほどマンハイムの男は素直ではない。
【敷地から出たら殺されるんだろう?】
【さあ? 追っ手を準備せよという命令は下っていない。というか、殺すつもりなら、襲撃した時点で殺害しているはずだ】
アーリンゲはそう言って立ち去り、男はそれを力なく見送る。
――それは俺も分かっている。だから意味が分からない!
男は豪奢な廊下にしばらく立ち尽くしていた――男は自分に自信はあるが、実力を見誤ることはなかった。
彼の実力ではケッセルリング公爵の直属の部下にはなれるが、リリエンタール直属の部下は務まらないことを、彼自身よく理解している。
よくそんな存在を暗殺しようと思ったな……と言われそうだが、暗殺を望んだのはケッセルリング公爵で、計画を立てたのは他の人間で、マンハイムの男は実行しただけ――
その日、マンハイムの男は暇を持て余し――リリエンタール邸の来訪者棟の一室、二階のベランダで、紙煙草をどれほど連続で吸えるか? と、無料で吸い放題の煙草で遊んでいると、中庭で肩口ほどの長さのダークブロンドの男性と、彼よりも髪の色素が薄い男が何やら深刻そうに話をしているのが見えた。
|上手くいくとおもうか? ケフィン|
ベランダにマンハイムの男がいることに気付いていないフォルズベーグの王子と、その側近ケフィンが、来訪者棟の中庭の木々に身を隠し、なにやら聞かれたくないらしい話をし始めた。
―― あっちが風上だから、煙草の匂いに気付かないのか
マンハイムの男は煙草を消し、ベランダの手すりに身を隠し、彼らの会話に耳を傾ける。
聞かれて困るようなことを、こんなところで、周囲に注意も払わずに話し始める二人が悪い――マンハイムの男は、そう判断して盗み聞きに没頭した。
フォルズベーグの二人、ウィレム王子と側近のケフィンは、一応周囲に注意を払い、聞かれても分からないようにとフォルズベーグ語を使用して会話をしていたのだが、言語を規制されていないということは、その言語を使用されたところで、解読には困らない……ということなのだが、この二人は気付いていなかった。
――自国語で喋ることが許されている時点で気付け
捕虜など、反乱を起こす可能性があるような者は、自分の国の言葉で喋ることを禁止されることは珍しいことではない。
――あー。こいつら、自分のこと客人だと思ってるのか…………そんなこと、あるはずないだろう
二人の秘密裏の会話――当人たちは深刻に話しているが、第三者が聞けばそれほど深刻でもない。
――野心があるのはいいが、大望持ちすぎだろ? 大陸宗主皇統家から嫁もらうって、身の程知れよ
二十三歳のウィレムは独身――ブルーキンク王家に才覚のある者はほとんどいないが数が多いので、独身王族も少なくはない。
もっとも相応しい縁談が用意できないという、事情もある――王族は相応しい相手としか結婚できないため、釣り合う相手がいない場合は、独身のままでいるしか道がない。
第二王子だったウィレムだが、国内に釣り合う貴族の娘がいなかったため、婚約者がいなかった。
二十年ほど前ならば、国外の貴族を娶ることもできたが、国力が著しく低下したフォルズベーグ王国に嫁いでこようとする貴族もいなかった。
|ガルデオの協力を得られないものか|
|接触を試みてみます|
――ガルデオ? こいつらが名を挙げているってことは、こいつらと繋がりのある貴族なんだろうが……リリエンタールの周囲にはいないよな。響きが、アディフィンでもブリタニアスでもシシリアーナでもない。もしかして、ロスカネフか? ロスカネフの貴族がフォルズベーグ王族のために、リリエンタールに婚姻話を持ちかける? あり得ないな
マンハイムの男は「それは無理だろう」と思いながら話を聞き――ウィレムとケフィンは、その後あたりを伺いながら来訪者棟へと戻っていった。
【いでで……】
身を屈め息を潜めていたマンハイムの男は立ち上がり、少しばかり痛む体を思いっきり伸ばして深呼吸をする。
【面白い話は聞けたか】
背中を反り返させていたマンハイムの男は、この邸では珍しい髭を蓄えた人物――アイヒベルク伯爵に不意に声を掛けられ、隠れていたとき以上に体を硬直させる。
【…………】
【なにを話していたのか、教えてもらおう】
【あ、はい】
マンハイムの男はできる限りのことを思い出し、
【覚えているのは以上です】
覚えていることは全てアイヒベルク伯爵に語った。
【そうか】
聞き終えたアイヒベルク伯爵は「分かった」と――なに一つ尋ねずに去った。
【答え合わせかなにかのような、ものなんだろうな】
おそらく彼らの会話を盗み聞いていた存在は居た。
たまたまそこに自分が居合わせたので、念のために話を聞いた……ということだろうとマンハイムの男は解釈した。
一応「ガルデオ」が気になったので、
【フォルズベーグ王女が嫁いだ、ロスカネフ王国の公爵家だ】
ガイドリクスの影武者をさせられた時、アーリンゲに尋ね――予想通りの答えが返ってきた。
【名家といえば名家だが、ケッセルリング辺りからしたら、地主貴族と変わらないだろうな。ああ、閣下に結婚相手を……という密談をしていたそうだな】
【あれを密談と言っていいのかどうか】
あれから彼らを何度か見かけたマンハイムの男は、彼らが自分に気付かなかったもう一つの理由を悟った。彼らは煙草を吸うため、煙草の匂いに鈍感だったので、声が聞こえる距離にマンハイムの男が潜んでいることに気付けなかったのだ。
【本人たちが密談だと思っているのだから、密談でいいだろう。閣下の一門の娘との結婚だが、お前がマリーチェ王女と結婚できたので、自分にも可能性があると考えたようだ】
「お前」と言われたマンハイムの男は一瞬言葉に詰まったが、自分が「王弟ガイドリクス」に成りすましていることを思い出した。
【マリーチェ……アディフィン王妃の娘か】
【そうだ】
【むしろ、なんでロスカネフにリリエンタールの姪が、王妃でもないのに……ってのが不思議だったな】
【ロスカネフには知る人ぞ知る辣腕がいるんだよ。誰なのかは知らないほうがいい】
アーリンゲの表情や声は変わらなかったが、マンハイムの男は「これは本当に聞かないほうが良い案件だ」と察知し、あとは口を噤む。
そんな話をしたあと、
【一応王弟だから、公爵くらいは覚えておいたほうがいい】
アーリンゲはそう言って、マンハイムの男にロスカネフ王国貴族名鑑と、辞書を渡した。
マンハイムの男は辞書を引きながら、貴族名鑑をぼちぼちと読んで、影武者生活を過ごしていた。
【暇ですよね。その籠を持ってついて来なさい】
その日、パレの廃太子シャルルに声を掛けられ、荷物持ちとして本邸へと付き従った。籠の中身は刺繍道具にランタン、小洒落た缶と聖典、そして置き時計。
マンハイムの男は刺繍はしないが、刺繍は貴族女性の嗜みで、それらの善し悪しくらいは判断がつく――用意された刺繍糸の鮮やかな色から高価な物だと一目で分かる。なにより置き時計は檻の中にいる罪人には過ぎたもの。
マンハイムの男は一通りの貴族教育を受けているので、ノーセロート語も理解できるため、少女とシャルルのやり取りの大半は理解できた。
鍵が開けられた檻に差し入れの品を入れ、
――モーデュソンって聞こえたな。侯爵だったよな? まさかこの国の宰相の娘? まさか……いや、でも宰相の娘でも、こいつらなら牢に突っ込めるか……共産連邦? 枢機卿の言う通り? 意味分からねー
なんで宰相の娘が、こんな治外法権の邸の牢に繋がれているのだろう? と思いながら、後をついて歩き古帝国語の会話を聞き――嫌がるウィレムの従者を引きずる仕事を与えられた。
逃げようとする従者の気持ちが痛いほど分かるが、
――俺だって行きたくねえんだよ! 道連れだ、道連れ!
誰が一人で恐怖の現場に向かうものか……と、従者を力尽くで引きずり、うめき声が聞こえる部屋へ。
「シャルル。フランシスにこれの死を伝えてこい。リーンハルト、マックス、片付けろ……マンハイムの、フォルズベーグ語が使えたな」
部屋を覗いたマンハイムの男は、この時、初めてリリエンタールと視線が合った。
【ああ、お前はロスカネフ語が分からなかったな。マンハイムの、お前はフォルズベーグ語は使えるな?】
【はい】
マンハイムの男に”いいえ”と答える勇気はなかった。
もちろん、それは幸いだった。この時のリリエンタール――不安定な感情が暴発した状態――に対し、否定の言葉は一切許されない。
【ガイドリクスの仮装は終わりだ。次はウィレムの側近フェラウデンに成りすませ】
フェラウデンとは誰か? と尋ねる前に、リリエンタールがウィレムから抜いたレイピアを持ち、大股で倒れている一人の男に近づき、首筋に刃を当てた。
【これだ】
ウィレムに「ケフィン」と呼ばれていた男だった。
【……はい】
マンハイムの男はケフィンとは似ていないが、ガイドリクスも似ても似つかなかったので、それほど高度なものは求めていないのだろうと。なにより、断るという選択肢はないので――こうしてマンハイムの男はケフィン・ファン・フェラウデンに成りすまし、フォルズベーグ王国へと派遣された。
本物のケフィン・ファン・フェラウデンがその後どうなったのか、マンハイムの男は知らない。