【056】王子、話し掛ける
大勢の使用人を抱える邸では、失態に対して罰を与える。
その一つに禁錮があり、邸内にはそれ用の部屋が存在し――その一つへシャルルは向かっていた。
シャルルは腕に全く覚えがないので、もちろん護衛を伴って。
向かうのはシーグリッドのもと。
刑罰用の部屋なので、快適さとは縁遠いが、邸内の一部なので不衛生ではない。人が思い描く「牢屋」そのものの部屋で、シーグリッドは一人で食事を取っていた。
自傷行為を防ぐために、食事にカトラリーはつかない――本日のシーグリッドの夕食は蝋引き紙に乗せられたチキンと野菜のサンドイッチと、木製のカップに注がれた温めのミルクが床に直接置かれている。
貴族令嬢に対して酷い扱いにも見えるが、サンドイッチはロスカネフ王国では一般的ではない、高級食材にあたる白パンが使われており、この部屋の住人になる人物に対しては破格の、新鮮な水がなみなみと入った木桶と柄杓――この部屋では水も自由に飲むことはできないのが当たり前なのだが、シーグリッドは随分と優遇されていた。
それは貴族令嬢だからというわけではなく――優遇の理由は極めて単純「クローヴィスが気にしているから」それだけのこと。
――こんなに美味しい食事が出るなんて、きっと少尉さんが、頑張ってくださったのね
武器と同じく自らを害する可能性があるものは、極力排除されている――寝具は使用人用のマットレスと毛皮。
どちらも普通の人間の手では裂くことができない強度。貴族令嬢ともなれば尚のこと。
一口サイズのサンドイッチしか口に運んだことのなかったシーグリッドだったが、取り調べのとき目の前でクローヴィスが噛みちぎりながら食べていたことを思い出し、両手で掴んで必死に食べ――一口サイズで薄い具材のサンドイッチよりも、食べ応えがあって美味しいと感じていた。
室内も殺風景で寒々しいが、毛皮が敷かれたマットレスに横になり、シーツ代わりに毛皮を掛けて眠ることもできる。さらに部屋の隅に、二枚の毛皮が追加された。
――これも少尉さんが、寒くないか心配してくれたからでしょう
親身になってくれるクローヴィス少尉のことを考えていたシーグリッドは、
――女性だと聞いたときは、吃驚しましたけれど……陛下が仰っていた王弟殿下付きの美しい武官とは、少尉さんのことだったのですね。王宮の警備で中庭にいると、彫刻の中にひときわ見事な彫刻が、と驚かれたと仰っていた話を聞いたときは、ちょっと信じられませんでしたけれど、あの少尉さんなら分かる
卒業後に一度学習院へやってきた陛下の話相手を務めたとき、そんな会話をしたことを思い出した。
仄暗い中、シーグリッドはミルクを飲み終える。
本来であればここにいる者は、灯りを提供してもらえないのだが、シーグリッドの居る牢の反対側の壁に、ランタンが用意され、仄暗いながら夜でも不自由なく部屋のなかを歩くことができた。
「……? 誰かしら?」
シーグリッドは石畳の廊下に響く足音が、自分のほうに近づいてくることに気付いた。
夕食の食器を下げにきた……ということはない。
カップの回収は、翌朝、朝食が運ばれてきたときに回収される。
だが足音は近づき――
いつも時代遅れの恰好をしている執事のベルナルドは使用人服を脱ぎ、王侯に相応しい恰好――糊が利いた燕尾服に着替え、ステッキを持ち、亡国の王子シャルルとして、シーグリッドの前に現れた。
「話がある」
いきなり声を掛けられたシーグリッドは、壁に掛けられたガス灯の揺れる灯りに照らし出された五人の内の一人、自分に声を掛けてきたシャルルの顔を見て――パレ大公爵だと気付き、檻の中で膝をついて頭を下げる。
「顔を上げていい……わたしが誰なのか分かったのか?」
命じられた通りにシーグリッドは顔を上げ、小さく頷く。
「わたしの名前を言ってみなさい」
「パレ大公殿下とお見受けいたします」
「よく分かったな。こんなに暗いのに」
「リリエンタール閣下のお城には、大公殿下がいらっしゃると聞いておりましたので」
「そう……君の婚約者は、もっと明るい場でわたしの顔をみたけれど、気付かなかった。不勉強な男だ」
「お恥ずかしい限りです」
―― なんで気付かないのよ! 年増に騙されてるのは、この際どうでもいいけれど、パレ大公爵に気付かないって、貴族として……最悪よ!
シャルルに詫びながら、シーグリッドは愛想を尽かした婚約者に悪態をつく。
「少し聞くが」<通じるか?>
シャルルはシーグリッドの内心には触れず、異国の言葉で話し掛けた――最初に覚えたのがブリタニアス語なので、シャルルにとってノーセロート語は異国の言葉に分類されている。
<はい>
<では、ノーセロート語で少し喋ってくれ。……そうだな、今日の取り調べを再現してくれ>
<分かりました>
シーグリッドは言われた通りに思い出し、別の言葉で喋り、シャルルは他の言葉も使えるかを聞き喋らせた。
「優秀だ。その優秀さがありながらどうして……人とはままならないものだが」
娘のような年齢の少女に、シャルルは心からそう思い呟いた。
「申し訳ございません」
「とりあえず、信用しよう」
シャルルがそう言うと部下が檻を開け、一晩ともせる燃料が入ったランタンと、色とりどりの刺繍糸や刺繍枠など道具一式が揃った籠と、刺繍糸と同じくカラフルな金平糖が詰められた缶に置き時計、そして聖典が差し入れられた。
「明日も取り調べがあるのだから、あまり夜更かししないように」
「はい」
「そうそう、少尉にわたしのことは言わないように」
「はい」
「執事からもらったと言いなさい」
再び檻は施錠され、シャルルはシーグリッドに背を向け檻をあとにした。
[あれほど異国語に通じているのなら、どの国の修道院でもやっていけるでしょう。まったく勿体ないことを]
寒々しい石が剥き出しの廊下から、大理石で覆われた廊下に出たシャルルは、しみじみと呟く。
[ガルニス修道院などは]
[そんな厳しいところには送らないぞ、スパーダ]
[おやおや]
シャルルの護衛として一緒にいた一人は家令のスパーダ。
[お前が、共産連邦と通じていないかどうか、直接見て確認したいと言ったから連れていってやったが……どうだった?]
[シシリアーナ枢機卿閣下の仰る通りでした]
[とりあえずフェドレケ修道院でいいんじゃないかな]
[教皇のお膝元ですか]
[うん。あそこなら、イヴァーノの目も届くし、オリンドも遠回りしなくていいだろうから]
[オリンド?]
シャルルの口から出たボナヴェントゥーラ枢機卿の腹心の一人で教皇領にいる筈の司祭の名を、スパーダが聞き返す。
[来るって、あの人が言ってた]
[連絡は?]
[来てないけど、あの人が来るっていってるんだから、来るんだろう]
[然様で]
古帝国語で話ながら歩いていると、騒がしい足音がシャルルたちに向かって近づいてきた。
スパーダがさっとシャルルの前に出て、明かりを持っている一人が掲げ――
[おや、フォルズベーグの若造ですね]
ウィレム王子と共にやってきた従者の一人が、血相を変え、蹌踉めきながらこちらへ――シャルルたちを見た従者は、尻餅をついて、
|あう……あわ…………|
譫言を呟く。
「こいつがなにを見て、こうなったのか、大体分かるが……」
「でしょうねえ」
護衛の一人が従者を立たせ、彼がやってきた方向へと引き返す。従者は嫌だと足を止めるが、スパーダは我関せずとばかりに、強かに足を刈り――護衛でもなんでもなく付き従わされていた、マンハイムから連れてきた男に引きずらせ、騒がしい部屋へ。
「うわ…………わたし、帰ってもいい?」
部屋を恐る恐る覗いたシャルルは、予想に近い光景に、すぐに背を向けた。部屋にはリリエンタールとアイヒベルク伯爵が無傷で、フォルズベーグ王国の面々は負傷して転がっていた。
「呼んではいないぞ、シャルル」
「分かってるよ。で、そのダークブロンドの王子さまの後頭部に突き出てるのは、なに?」
シャルルは死体は嫌で、できれば近づきたくはないのだが、ひとり誰が見ても分かる形で、息の根を止められているのが王子なので、一応聞いておこうと話し掛ける。
「レイピアだが」
いつもと全く変わらないリリエンタールの返事。
「そっか……それで、なんであんた直々に殺したの?」
リリエンタールは殺したければ命じれば良い。それも言葉に出さずとも、ゴミを払うように手を動かすだけで、部下が全てを排除する。それがどこかの国の王子であろうとも――
「これが、自分の足を撃ったロスカネフ軍人に、謝罪させたいと言い出した」
リリエンタールの邸の使用人棟に住んでいたウィレムは、クローヴィスを見かけ――目立つ容姿なので噂がウィレムの耳に届くのに、時間は掛からなかった。
ウィレムは複数の意味でクローヴィスのことが気になっており――謝罪をきっかけに、関係を迫りたいと漠然と考えていた。
それがはっきりとした形となる前に、喋っていた口にリリエンタールはレイピアをつきたて、貫いた。
あまりの速さにウィレムの部下は反応できず――なにが起こったのか理解する前に、アイヒベルク伯爵が次々と彼らに鉛玉をぶち込み無力化し、丸腰で戦いの心得が全く無い侍従を最後に残し……何とか逃げ出した先でシャルルたちと鉢合わせして、この場に連れ戻された。
「それはまあ……当然の結果ですよね……」
リリエンタールが、ウィレムを使って何かすると言っていた気がしたシャルルだが、代案は幾らでもあるのだろうなと。
「シャルル。フランシスにこれの死を伝えてこい。リーンハルト、マックス、片付けろ……マンハイムの、フォルズベーグ語が使えたな」
リリエンタールは俯せになっているウィレムの死体を蹴って仰向けにし、突き刺したレイピアを左右に軽く動かしてから抜いた。
白と黒の大理石で描かれた市松模様の床に、ゆっくりと赤いものが広がった。