【053】少将、たずねる
本部からリリエンタールの自宅に電話を入れたキースは、本部を出て食事を取り、そのまま帰宅していた。
キースが越してまだ日の浅い官舎は、備え付けの家具のほとんどに白い布が掛けられたままの状態。
副官のリーツマンがそれらを片付けようとしたのだが、キースは「代理だ。おそらくそう長い期間中央にいることはない」と言い、寝室と書斎以外はそのままにしておくよう指示を出していた。
総司令官の邸なので電話を引くことはできるのだが、官舎に使用人を置かないキースは、彼自身が電話を取ることになる――この時代の電話は手動で、電話交換手が繋ぐ仕組みになっている。
電話交換手の多くは女性――キースが自宅に電話を引くと、女性電話交換手が……ということになるため、自宅に電話を引かないことにしていた。
副官を寮へ帰してから、芸術的なステンドグラス製のシェードを外したランプに明かりを灯し、持参した本を読む。
十ページ読んだだろうか? というところで、微かにドアノッカーの音が響いてきた。誰だ? と、帰宅後、自ら手入れした拳銃を手に玄関に向かう。
玄関ドアを開けると無抵抗を表す姿勢の男性――頭に手を乗せて、ドア側に頭を向けて腹ばいになっているリドホルム男爵の姿があった。
「入れ」
リドホルム男爵は手を頭に乗せたまま立ち上がり、キースの視界から外れないよう注意しながら歩く。
ドアを越えてすぐ、玄関ホールでキースの足が止まったので、リドホルム男爵はその場で膝を折り頭を下げる。
もちろん手は頭に乗せたまま。
「まさか説明するために、お前が来るとは思わなかったぞ」
連絡は入れたが、あのアルドバルド子爵のこと、のらりくらりと躱して誤魔化すつもりだろう――翌日、朝から史料編纂室に乗り込んで、室長室を荒らしてやろうと考えていたキースは、息子の登場にまあまあ驚いた。
「父からの手紙が上着の右ポケットに入っています」
「どうせ白紙だろう」
「なにか認めていたように……見えました」
白紙ではないと息子のリドホルム男爵も言い切れない。書いている姿を見ていたとしても、封筒に入れる時に別の便箋にすり替えるなどお手の物。
さらに言えば、リドホルム男爵はそこまでしっかりとアルドバルド子爵の手元を見ていなかったので――
「そうか。まあいい、立て」
キースに立つように指示されたリドホルム男爵は指示に従い、腹筋に力を込める。それを見計らいキースはリドホルム男爵の腹に拳を入れた。
「ごふっ!」
リドホルム男爵は膝をつき――先ほどまでとっていた体勢に逆戻り。
彼の両方の手の平が乗せられた後頭部に、殴った本人が声をかける。
「顔は大事だろうから、手はださん」
「ありが……とうございます……」
影武者を務めることが多いリドホルム男爵にとって、顔を殴られるのはもっとも痛い――殴られても手を動かさない、完璧過ぎる服従姿勢に、僅かばかり感心しながら、
「それで、話せることはあるのか?」
答えなど返ってこないことを知りながら尋ねた――友人であり、事情を知っているヴェルナーに聞く手段を取っていないのは、ヴェルナーと都合が合わないという事情もあるが、まずは責任者から話を聞く方が手っ取り早い。
とくに人を欺く任を負っている彼らに関しては、直接尋ねるのがもっとも真実に近づき易い。
さらにメッツァスタヤは人を介して騙すのが上手い――それを知っているので、キースとしては、あまり人を介して聞きたいとは思わない。
「知らないを通していただけると」
顔を上げ――
”本当のことを告げる時の表情って、こんな感じでいいのか……少将の嘘くせえな、って表情……”
真実、またはそれに近いことを語るとき、どういう表情をしていいのか……あまり本当のことを語ったことがないリドホルム男爵は、本当を語る時の表情が今ひとつ分からない。
「ふーん。手紙を開封し、便箋を広げて帰れ。事情を聞きたいから、明日の13:00に来いと伝えろ」
「確かに伝えます。必ず訪問させるとは言えませんが」
「そんな期待はしていない」
幸いなことにキースは、リドホルム男爵の困惑気味の感情を読み取ってくれた。
リドホルム男爵は、おかしな動きを取らないよう、注意深くゆっくりと手紙を取り出して開け、便箋を開き床に並べる。
便箋は白紙ではなかったが、リリエンタール邸で出された夕食のメニューと、それについての感想――リドホルム男爵はもう一発殴られるのを覚悟した。
彼が殴られたかどうか? それはともかくリドホルム男爵が官舎を出たあと、キースは燭台の蝋燭に火を灯し、一回も使っていないシンクで炙って文字が出てくるかどうかを確認し――なにも出てこなかったので、そのまま焼いて水を掛けて放置した。
”リドホルムの表情は……あれも理解していないな。完全にシャフラノフ絡み……か”
「まあ深く追求しても、仕方ないしな」
総司令官は彼らメッツァスタヤから報告を受ける。
現在キースはその地位に就いているが、彼は正式に就任するとは思っていないので、これ以上の追求はしなかった。
”正式な総司令官閣下にお任せするか……若い女少尉は別として”
当面はアルドバルド子爵に連れ回されているクローヴィスについて、少し調べる程度に止めることにした――それが全てであることなど、キースには知る余地もない。
本を読む気分ではなくなったキースは、キッチンに並べていたウィスキーのボトルを開けて、そのまま口をつける。
行儀が悪いのは重々承知しているが、燭台の三本の蝋燭程度では照らし出せないほど広いキッチンの食器棚を開け、グラスを捜して取り出す気にもなれなかった。
揺れる炎の明かりを前に、キースは調理台に軽く腰を掛けた。
”ヒースコートの動きも気になるが、あいつが単独で動いているとは考え辛い……やはりシャフラノフか……ヤツの考えを探るのは……”
「ちっ!」
キースはボトルを三分の一ほど開けてから、キッチンに酒瓶を置き、三本の蝋燭の炎が揺らめく燭台を手にし寝室へと戻った。
**********
【どうしようかなー】
マチュヒナの依頼を受けたピヴォヴァロフは、海軍中将プリンシラを追うために、潜入している共産連邦の間諜を使うために、アミドレーネ出版へと足を延ばした。
零細出版社を装い情報を集めている彼らは、ピヴォヴァロフの顔を見た瞬間、逃げ出した――彼らは命じられたノア・オルソンの始末がまだできていなかった。それに痺れを切らしたマルチェミヤーノフ元帥が、ピヴォヴァロフを送り込んできたのだろうと、勝手に判断してのこと。
処分など命じられていないピヴォヴァロフは、逃げた彼らを放置し――追えば簡単に追いつけたが、そんなことをするつもりはなく、彼らの事務所を漁った。
見慣れた暗号文を読み、セシリア・プルックの死体写真を眺め、活動資金が入っている隠し金庫を開けて、軍資金を全てと、発見した幼年学校時代のリリエンタールの写真を持ち去った。
そして連絡員に、アミドレーネ出版の二人が、有り金を持って逃走したと嘘の報告をし、追うように指示を出し、その間にアミドレーネ出版唯一のロスカネフ人で、全く無関係ゆえに殺害命令が下されていたノア・オルソンの追跡を始めた。
この時ピヴォヴァロフは、オルソンとプリンシラが一緒にいるなどということは知らなかったが、結果として二人は一緒にいて、ピヴォヴァロフは彼らを容易に捕らえた。