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Eはここにある  作者: 剣崎月
第一章
53/208

【052】イヴ・クローヴィス・08

 リリエンタールは十分ほど経ってから目を開けた。


「お早い復帰で」


 執事はそう言いながら淹れたばかりのコーヒーを、アルドバルド子爵に差し出す。


「明日の朝までそうしていると思ったので、コーヒーは用意しませんでしたよ」

「構わぬ」


 執事から受け取ったコーヒーの、香りを楽しんでいたアルドバルド子爵は一口飲む。


「わたしは、妃殿下(クローヴィス)を、案内してきますので」


 執事は本当にリリエンタールにコーヒーを淹れず、クローヴィスが泊まる部屋へと案内すべく、彼女が夕食を取っている部屋へと向かった。


「君が案内したら、不自然だからね、リヒャルト」


 椅子から腰を浮かせたリリエンタールは、そう言われて不本意さを隠さずに、再び腰を降ろすしかなかった。

 クローヴィスはリリエンタールに下がれと命じられてから、執事に案内され使用人が食事を取る部屋の一つに通されていた。


”すごーい”


 室内は総象嵌細工――壁も天井も家具も床も、なにもかもが象嵌。

 カトラリーは王侯貴族の邸らしく純銀製、もちろんくすみなど一つも無い。

 使用人の食堂らしく、調理場近くにある部屋で、料理人が焼きたてのステーキを、焼いた当人が運んできた。


「どうぞ、お召し上がりください」

「ありがとうございます」


 クローヴィスはコック帽の長さに”うわあああ、すごい”と思うが、すぐに目の前に置かれたステーキへと視線をうつす。

 その分厚く大きいステーキを大きく切り分け、口へと運んだ。


”さすがリリエンタール閣下のお宅の肉。使用人用でも極上!”


 勝手に使用人用の肉と思い込んでいるクローヴィスだが、肉はリリエンタール用の熟成肉。


「焼き加減はいかがですか?」


 ステーキを焼いて運んできたのは、料理長のジャン=マリー。食材の火の通しかたが天才的で、料理人としての評価は高い。

 彼はこの邸に稀にやってくる人たちに料理を振る舞うことはあるが、基本はリリエンタールと執事にしか作らない。

 執事とは料理について語り合うが、リリエンタールはなにを出しても表情が変わらない――貴族というものは表情に出さない、それは食事のときも言える。

 そういった階級に仕えている以上、表情が動かないことに不満を覚えるのは正しくは無いのだが――「美味しい!」と言われたいという欲求は消えない。


「美味しいですよ」


 クローヴィスはとても美味しそうに食べてくれる。


「もっと火を通したほうがいいとかないですか?」


”使用人にまで火加減を気にするとか、職人さんだなあ”


「ちょうどいいです」


 クローヴィスはそんなことを思いながら、ステーキに舌鼓を打ち「朝のパンの残りで作ったんです。よかったら」と出されたオニオングラタンスープも堪能する。ここでケーキなどのデザートを出すと、さすがに不自然なので――あとで部屋へ、フィナンシェやカヌレ、フロランタンなどの菓子を運ぶ段取りになっている。


 この部屋だが、使用人の食堂というのは嘘ではないものの、執事専用の食堂――王族専用の食堂とも言い換えることができる。


「料理はお口に合いましたか?」


 アルドバルド子爵にコーヒーを出してから、シーツや枕カバー、テーブルクロスなどのリネン類を入れたワゴンを押してやってきた執事は、満足そうにコーヒーを飲んでいるクローヴィスに声をかける。


「はい! とても美味しかったです」


 ジャン=マリーはビールを勧めたのだが「職務中ですので」と断られ――もともと断られるだろうと言われていたので、食事終わりにあわせてバリスタに豆を挽かせていた。


「それは良かった。泊まる部屋へ案内したいのですが、よろしいでしょうか?」

「はい! あ、料理とても美味しかったです」


 執事に声を掛けられたクローヴィスは、残りのコーヒーを一気に飲み干し立ち上がる。


「明日の朝食も楽しみにしていてくださいね、少尉」

「はい」


 礼を言われたジャン=マリーは朝食も任せてくれと――ワゴンを押しながら執事が、


「朝食もあの部屋でどうぞ。何時頃がいいですか?」


 朝食の時間を尋ねる。


「職務がありますので、早いほうがいいのですが」


”職務というか、あの人の我が儘……”


 真面目に仕事をしに来ていると思っているクローヴィスの、澄んだ緑色の瞳に罪悪感を感じながら、


「分かりました。朝の六時半には整えておくように伝えておきます」

「ありがとうございます」

「食べたいものはありますか?」

「え、あ……大食いなので、二人分くらい用意していただけると嬉しいです」

「分かりました」


 かつて重度の人見知りだったとは思えぬ、落ち着いた語り口で、執事は朝食の希望を聞き出す。

 クローヴィスが泊まる部屋は、アルドバルド子爵の部屋の隣……とはいっても、長い回廊の端と端なので相当な距離がある。

 その回廊は高いアーチ状の天井に、シャンデリアが等間隔に吊されている――クローヴィスの感覚では、


”ヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊レベル? 廊下、長いし広いなあ。わたしが横になって手を伸ばしても端に届かなさそう”


 というもの。

 その回廊の両サイドにガラスケースが設置され、ずらりと宝石類が並べられている――普段は専用部屋に押し込められている宝石類が並べられ、壁には執事が集めた名画が所狭しと飾られている。


「この回廊はギャラリーも兼ねているのです。一応自慢できる品々ですので、お疲れなのは存じておりますが、お休み前に見学してみてはいかがでしょうか?」


 普段のこの回廊は、豪奢なシャンデリアは吊されているが、人が通ることなどない寂しい一角。宝石類が飾られることもなければ、絵画がぎゅうぎゅう詰めにされることもない。


「よろしいのですか?」

「ええ。是非見てやってください。良かったらお気に召したものを、お教えいただければ」


”やべえ! ネームプレートは別人だけど、ルーベンスとかモネとかダ・ヴィンチとかアングルなんかの絵だ! それも立派な額に入った絵がみっちみちだよ! 宝石は分からないけど、輝きがないのは伝統の証だって習った……んだが、ガラスケースと鏡とバックライト的な明かりで、キラキラしてるー”


 クローヴィスの身辺を幾ら調べても、宝飾品の好みは分からなかったので、このような手段に出た。


「部屋はこちらになります」


 執事は回廊の端にある部屋のドアを開けた。

 部屋は大きく、室内にはクローヴィスが横になっても余裕があるベッド、テーブルに椅子――


”どれも木製でシンプルなのですけれど……”


「こちらがライディングビューローです。引き出しにペンやインク、便箋や封筒や紙類が入っておりますので、ご自由にお使いください」


”書き物するだけなら、テーブルでいいんですが”


「こちらの書見台もご自由にどうぞ」


”ご立派な単独書見台とか……ありがたいのですけれど、テーブルで充分な生まれです”


「クローゼットの中にパウダールームがございますので」


”全身が映る鏡の他にドレッサー……も、大きいなあ。貴族はなんでも大きいんだねえ”


 大体テーブルで代用できるんだけどな……とクローヴィスは思いながら、説明を聞いていた――家具は木製でシンプルに見えるが、全てマホガニー製の高級品である。

 洗面所などの案内を終えた執事は、


「クローヴィス少尉」

「はい」

「シーツはコットンとシルク、どちらがよろしいでしょうか?」


 ワゴンから新品で素材が違うシーツを二種類取り出す。

 帰りの蒸気機関車内でクローヴィスが「寝具はシルクよりコットン」と漏らしていたと、ヒースコート子爵から聞いていた執事が、急ぎフリオに縫わせたものである。

 コットンが用意されていることを知ったクローヴィスは、


「コットンでお願いします」


 慣れた素材の寝具を選んだ。


「分かりました」


 執事は手際よく白い無地の枕カバーやシーツをかけ、


「お飲み物は何にしましょうか?」


 テーブルに縁に、ふんだんに宝石を縫い付けたクロスを皺一つなく掛け終えて尋ねる。


「大丈夫です」


 職務中ですので! とクローヴィスは断ったが、執事に押され――素直に言われた通りに回廊の芸術品を眺め、


「お持ちしました」


 リネン類が入ったワゴンを押していった執事が、今度は銀製のクロッシュや、クリスタルガラスの水差しとコップ、焼き菓子が入ったバスケットとフルーツが盛られた籠に、手指を洗う水が張られ花弁が散らされたボールを運んできた。


「なにか興味を引く絵はありましたか?」

「どれも凄いな……って」

「広間に大作を飾っておりますので、お時間がありましたらどうぞ」


”ここに飾られているのも、充分大作だと思うのですが……そうか、これは大作じゃないのか……こんな絵画まで見られるとは、凄いなあ”


 クローヴィスが凄い使用人待遇に驚いていた頃――


「親父、司令官代理閣下から”イヴ・クローヴィスの扱いについて”説明しろと、連絡が来た」

「あららら。来るとは思ってたけどねえ」


 クローヴィスは軍人で、彼らを統括するのがキース。クローヴィスは正式に史料編纂室に異動にはなっているが、キースはそこが旧諜報部(メッツァスタヤ)であることを知っている――全員が諜報員ではないことも知っているが、諜報員ではないものを、リリエンタールの元に連れて行くことはない。


 クローヴィスが諜報員、それも旧諜報部(メッツァスタヤ)ではないことを知っているキースが「どういうことだ?」と――クローヴィスは出向のうえ出張扱いになっているので、書類がキースの手元に届き、説明せよと電話で連絡を入れてきた。


「彼は部下を適切に扱わないと、怒るからねえ……彼に事情説明してもいい?」


 クローヴィスを連れまわしている理由を述べていいかと尋ねたところ、


「事情を知らない娘を、自宅に連れ込んだとあれ(キース)に知られたら、確実に国外追放を食らってしまう」


 駄目なことをしている自覚と、キースの性格をよく理解しているリリエンタールが、誤魔化せと――


「喋っちゃ駄目って事だね。分かった。とりあえず手紙書くから、アーダルベルトくんに届けてきてね、イェルハルド」

「…………届けますが、説明を求められると思いますよ」

「明日、誤魔化しに行くから、それまでの繋ぎってことで。よろしくね」


 行きたくないとは思ったが、クローヴィスを守るさい、女性のベックマンが残ったほうが何かと便利なのは分かっていたので、怒鳴られるだけの任を引き受け、ふざけたことが書かれている手紙を手に、リリエンタールの城をあとにした。

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