【051】イヴ・クローヴィス・07
「わたしは絶対に外出しない」
アルドバルド子爵がクローヴィスを自宅に送ると聞き、急ぎ帰途についたリリエンタールは、自邸に戻り、謁見室唯一の椅子――当主しか座ることのできない椅子に腰を降ろして、執事にそう宣言した。
「理由を聞かせてください。まあ、あの娘さん絡み……あ、そうそう、あの娘さんことイヴ・クローヴィスさまのことですけれど、家臣一同の呼び方を”妃殿下”で統一しようと思うんですけど、いい?」
リリエンタールの妻になる人なので――クローヴィスはまだ知らない――敬称は必須。佐官軍人ならば「クローヴィス閣下」と呼ぶ道もあったが、少尉に対して「閣下」は馬鹿にしているようにしか聞こえない。
そこで他の敬称を……と考えた結果「妃殿下」が無難だろうということになった。
「…………」
頬杖をついていたリリエンタールはそれを聞き――
「駄目なら駄目って言ってくださいよ。あなたが望んだ通りにお呼びしますから」
「できれば娘には、陛下を与えたいが」
「お前が皇帝になったらな! 現時点では妃殿下が適切でしょ」
「……そうか。ところで、あの娘は皇后になりたいと思うであろうか?」
「絶対思わないね」
「…………」
「ところで、出かけない理由を聞かせてください」
そして執事は明日、クローヴィスがやってくることを知った。
「なるほど」
先日、クローヴィスに噂が立ってはいけないのでという理由で、執事によって締め出されたリリエンタールは、今回の機会は逃したくはないので、邸から出ないと――
「……あんたが想像以上に馬鹿になってて、嬉しいですよ。前回は、あんたの印章持参でお越しになったから、主人格の部屋にお通しすることはできましたけど、今回はフランシスの部下としてやってくるんだから、お泊めするとしても、使用人の部屋ですよ。あんたの部屋からすっごく遠いよ。わざわざ呼び出すの? あんたが足を運ぶとしても、おかしいけど」
リリエンタールの自宅は大きく、使用人は渡り廊下で繋がっている別棟に住んでいる。来訪者用の棟もあるのだが――リリエンタールは本邸に客を招くことはない。即ち来訪者用の棟も、貴賓用の建物ではない。
「……」
もちろん来訪者用の棟の室内は、普通の人間が見れば高級ホテル並ではあるが、リリエンタールが気に入った娘を泊めるには相応しくない。
「きっとフランシスも来るんでしょ? 上官のフランシスより良い部屋に通したら、すぐに噂になるから、絶対本館の主人格の部屋には泊められませんよ」
本邸には貴賓室はあるが、リリエンタールたちが住みだしてから一度たりとも使われたことはなかった。
「本館の一室を使用人用と言い張れ。本館に泊めるように」
「我が儘だな! ……分かりました。できる限りのことはしますよ」
こうしてクローヴィスはリリエンタール邸の本館――城の一角に彼女のためだけに用意された部屋に泊まることになった。
彼女のための部屋は、上官アルドバルド子爵が泊まる部屋の近く。
「わたし、ここで、こんな立派な部屋に泊まったの初めてだよ」
部屋に通されたアルドバルド子爵が笑う。
通された部屋は八部屋で一つの貴賓室。ドアを開けて目に入ってくるのは円形のホールで、壁に五つの扉があり、向こう側が部屋になっている。
一室一室が大きく取られており、中央の一室だけは独立しているが、他の部屋は壁に隣の部屋と繋がる扉がある。
中央の部屋が主寝室で、五メートルはある天蓋は縁は金房で天蓋の上には、双頭の鷲の彫刻が飾られ、成人男性六人くらいは余裕で横になれそうなベッド。
リリエンタールのモノグラムが横になる面はプリント、踏み台が必要なほど高さのあるマット部分には刺繍が施されたシルクのシーツは、このベッド専用。
各部屋からこの部屋専用の中庭を眺めることができる――中庭は温室で、極寒のロスカネフにありながら、一年中草花を愛でることも、噴水の煌めきを楽しむこともできる……等、まさに国賓の寝室に相応しい作り。
一緒にやってきたベックマンと、現時点ではオーフェルヴェック少佐と名乗っているリドホルム男爵は「王者の寝室ってこういう感じだよな」と――
「ないとは思うんだけど、教皇とかババアが来た時用に、一応用意してるんだ」
案内した執事――執事にしては口調が砕けすぎているが、いまさら彼の前で丁寧な口調で喋る気にもなれないので、二人きりのときは、こんな口調で話すことが多い。
「じゃあ、この十年一度も使われたことない部屋ってこと」
「改装に三年くらい掛かったけど、使ったことはないな。まあ、この先も使われることはないと思うけど」
念のために部屋を用意しておくのは、貴族としては当然のこと。招く可能性が僅かながらあるのは、執事が挙げた二人だけなので、部屋の作りはこの位は必要になる。
「ロスカネフで結婚式するんでしょ? じゃあ来るんじゃないの?」
「十年前ならまだしも、もう二人とも七十間近だ。長旅は体に堪えるだろうから。もちろん二人宛に招待状は出すけど、代理が来ると思う……ババアは本人が来そうだけど」
「ブリタニアスで会ったけどお元気だったよ。全く問題なくお越しになるんじゃないかな」
「ババア、元気か……そうか。っとに死ななそうなババアだな」
「死なれたら、困るだろう」
「まあ……なあ……うん」
「ついでだから聞くけど、ブリタニアスの王位はどうなるの?」
ブリタニアスの女王グロリアの跡を、独身のリリエンタールが継ぐ――それがもっとも有力な説だが、リリエンタールが継ぐという意志を見せたことは一度もない。
だからこそ「ブリタニアスの軍を動かせ」と指示があったとき――ブリタニアス王になる意志があるのではないか? この機会を逃してはならないと、ブリタニアス議会の与党党首と、野党党首が秘密理に話し合い、来たるべき時に軍を動かせるよう、静かに水面下で根回しをしている。
「妃殿下次第みたいだよ。王妃に憧れたら、即位してもいい……って言ってた。あの調子だと、妃殿下が飽きたといったら、即退位するだろうけれど」
「ブリタニアスの王位って、そんな簡単なものだったっけ?」
「アントワーヌにとってはその程度……それで、妃殿下の上官さん、妃殿下は王位に憧れるタイプ?」
「付き合いは一日程度だけれど、まったく興味ないだろうね」
「やっぱり、そうだよなあ」
そんな話をし――書類を持ったクローヴィスはリドホルム男爵と共に、リリエンタールの城へとやってきた。
二人の関係が全く進展していないと聞かされたリドホルム男爵は、クローヴィスに軍人でしかない態度で接する。
貴種と庶民の恋に口を挟むのは難しすぎる。
リドホルム男爵は、自らの力量ではどうすることもできないことを知っているので、見守る立場に――と言いたいのだが、見守るのも難しくて困っていた。
二人の関係が上手く行くように優しく見守るなどという、詩的な意味ではなく、要人を警護する意味でのクローヴィスの見守りが、とても難しい。
少し離れたところから、様子をうかがってみたのだが、すぐに気付かれてしまう。
双眼鏡を使って――太陽の位置を考慮にいれ、反射に細心の注意を払いながらうかがうも、やはりすぐ視線に反応する。
アルドバルド子爵が「勘の鋭さが並外れている」と監視に失敗した息子にそう言い「で、どうするの?」――諦めるという選択肢はなく、二人の事情を知っているメッツァスタヤで、監視がもっとも得意なのはリドホルム男爵なので、他に回すこともできない。
そこで、自分の視線に慣れてもらうことにした。
「今夜はここに泊まることになるが」
通された部屋で待機しているときに、じっとクローヴィスを見ながらリドホルム男爵が話し掛ける。
「はい!」
少し失礼ではないか? と思うくらいに見つめるが、クローヴィスが気にする素振りは全く無い。遠く離れたところからクローヴィスとその周辺をうかがっている時は、すぐに気づかれたのに、どうしてだ? と思うも、
”思っていた以上に、視線に無頓着……もしかして、顔をじろじろと見られるのは慣れているのか? ……この顔だもんな。慣れてるだろうな。慣れてなけりゃ、疲れてしまうだろう”
この容姿なら、そういう不躾な視線はいつものことだろうと、一人ですぐに納得いく答えが出たのはいいが、監視はクローヴィスの周辺をうかがうのが目的なので、顔だけ見ていては仕事にならない。
”近接で監視ならいけそうだが、全体を見渡せる位置からの監視もしたい。自分がリリエンタールに気に入られていると気付けば、監視も……それが言えないから困っている……いつそれが伝わる? ……早めに伝えて欲しいのだが”
そんなことを考えているとリリエンタールがやってきた――
「少尉、フランシスから話を聞いたが、もう一度説明せよ」
クローヴィスと会って話したいという気持ちが抑えきれなかったリリエンタールは、わざわざクローヴィスがいる部屋へ乗り込んだ。
「はっ! 畏まりました」
悪役令嬢シーグリッドのことで頭がいっぱいのクローヴィスは、細かいことはどうでもいいとばかりに流したが、この邸の主であり、皇帝の孫でもあるリリエンタールが、足を運んでやってきて説明を求めるのは異様。
一緒にやって来てコーヒーを飲みながら笑っているアルドバルド子爵の姿を見たリドホルム男爵は、心の中で溜息をついた。
そんな彼のことなど気にせず、
「セシリアとイクセルは修道士になったと」
「はい」
リリエンタールは、同じことを説明させて悪いなと思うも、クローヴィスの落ち着いた声を聞けることに喜びを感じていた。
「少尉、下がれ」
本当はもっと側において声を聞いていたかったが、いきなり別のことを話すのはおかしい状況なので、非常に不本意ながらリリエンタールはクローヴィスに下がるよう命じた。
「失礼します」
クローヴィスは文句の付けようがない、軍人の礼を取り部屋を出た――その後、リリエンタールはしばらく目を閉じて動かなかった。