【050】室長、金の使い方に感心する
「きっと妹の手の者だね」
王立学習院で、共産党の党員徽章を所持している、貴族令嬢が発見された――番号は4104。この桁数は幹部に割り当てられるもので、番号の所有者はレオニード・レオニードヴィチ・ピヴォヴァロフ。
一介の貴族令嬢――宰相の娘程度では、到底盗み出すことのできない人物の徽章を所持していた。貴族令嬢ことシーグリッドが嵌められたのは分かるが、だからといって無罪とはならないのがこの世界。
何も知らないのは明らかなので、殺してしまったほうが早いし凡人であればそうするが、達人ともなれば生き餌として使い、釣り上げようと目論む。
「そうであろうな」
アルドバルド子爵はベルバリアス宮殿で、リリエンタールとそんな話をしていた。
「でもまあ、妹の部下はとてもじゃないけれど、ピヴォヴァロフは出し抜けないと思うんだよね。ましてや党員徽章を盗むなんてね」
アルドバルド子爵はピヴォヴァロフが「ツェサレーヴィチ専属の諜報員」に選ばれていたことを知っている。
これはその筋では有名――ルース帝国崩壊後、ピヴォヴァロフは幼いながら華麗な転身を図り、現在は共産連邦の将軍の一人としてその名を馳せる。
経歴を知られているという、スパイにはあるまじき知名度だが、それでもピヴォヴァロフは各国で難なく諜報活動を行っている。
彼は諜報能力が優れている上に、危機を切り抜ける胆力と腕力が人並み外れているので、捕らえるのが非常に困難だった。
アルドバルド子爵と同じように、雰囲気や仕草で姿を偽ることも得意。
「クリスティーヌの溝鼠では無理であろうよ。お前の犬ならば、なんとかなったかもしれないが」
「いや、無理だよ。なにより、わたし、無理させないし」
アルドバルド子爵の一言に、室内にいたリドホルム男爵とベックマンの視線が、微かに「あらぬ方向」を向く。
両者ともアルドバルド子爵の最初の「無理」に関しては同意だが、後の「無理」は――
「閣下」
部屋へとやってきたアイヒベルク伯爵とアーリンゲが一礼をする。リリエンタールは手を僅かに動かし「喋ってよし」と告げる。
「全ての準備が整いました」
アイヒベルク伯爵の報告に軽く頷く。
軍人である二人がやってきての準備完了報告ということは、
「戦争の準備、終わったの?」
そういうことなの? と、アルドバルド子爵が尋ねる。
「大まかなものは終わった」
「始まってもいないのに?」
「わたしにとっては、すでに戦端は開いている」
リリエンタールが指揮する戦争は、気付いた時には終わっていると言われるが、指揮している側としては、彼らが気付かないだけ。
「……ああー。そういうことかー」
更にリリエンタールはわざわざ「戦いは始まっている」などとは言わないので、一般人には分かりづらい。
「お前は諜報を専門としているのだから、気付け。フランシス」
その兆候を掴んでこその諜報なのだが、世界に名だたる諜報の名人であるアルドバルド子爵であっても、取り逃がす。
「無理だよ」
「お前には、一年半後に異教徒の帝国の軍人ニザール・シディと接触してもらう」
「……ニザール・シディは知ってるけど、なんで?」
遠い異教の軍人の一人――彼について、共産連邦との国境沿いの派遣部隊を率いている、一廉の人物だということくらいしかアルドバルド子爵は知らない。
「必要だからだ」
「共産連邦との戦争は?」
「それが終わってからだが」
「…………君はさ、天才なんだよ。分かってる?」
「天才かどうかは知らぬが、お前が三年後の戦いについて、なにも掴んでいないことは分かった」
「君の頭の中にしか存在しない戦争だよね、リヒャルト」
「現実に起こるが」
「うん。起こるのは分かった。君が完全勝利するのは分かる。でも意味が分からない」
室内にいる人物は、全員アルドバルド子爵と同じ意見だった。
命じられて戦争の準備を行っていたアイヒベルク伯爵やアーリンゲは、異教徒ともやり合うらしいとは聞いていたが、細かな説明などはされていないので――説明がないのはいつものこと。
作戦を事前に説明してもらったところで、リトミシュル辺境伯爵ですら務まらなかった参謀役が務まるわけもなく――圧倒されて無言になる自分の姿しか見えない。
「お前が分からないのであれば、お前の所の者たちは誰も分からぬか」
リリエンタールは視線を二人の方へと向け――二人は「分からない」と首を振る。
「きっとリーンハルト君も、ヘラクレス君も分からないと思うよ」
「…………異教徒との戦いだが、共産連邦をしっかりと躾けられたかどうかを、確認するために行う」
「ヤンヴァリョフなんかは、もう充分躾けられてる気もするけれど。どのタイミングでことを起こすつもりなのかは、分からないけれど、躾け具合を確認するんだね?」
「ことはもう起きているぞ」
「本当に君は……さすがだよ、リヒャルト。その君に聞きたいんだけど、君なら一回の戦争で、やりたいことを全部達成させることも可能だよね? なんで今回は分けたの?」
「分けた? 分けたつもりはないが」
「分けてるよね? え? 違うの」
暫し不思議な空気が二人の間に流れ――
「ああ。そういうことか、フランシス。お前はロスカネフと共産連邦の戦いと、アブスブルゴルと異教徒の戦いを、別物と思っているのか。違うぞ。わたしが計画している一連の戦争の中の、一つにしか過ぎない。わたしにとって、これから起こす戦争は全て同一線上にある。これは、一つの勝利のための戦いだ」
リリエンタールにとって、フォルズベーグ王国の内乱、ロスカネフ王国と共産連邦の戦争、アブスブルゴル帝国との私戦、そして異教徒帝国への遠征――それらは全て一つの計画の局地戦でしかない。
「連合軍対共産連邦の戦いを、全てまとめて三月戦争って言うのと同じってこと?」
ただアルドバルド子爵が、そう捉えなかったことからも分かるように、一般的にこの四つは別の戦いとして扱われる。
たしかにリリエンタールはこの四つに深く関わっているのだが、実際にリリエンタールが指揮したと記録に残るのは、遠征軍のみ――になる筈だった。
これら四つの戦いは、戦争理由がそれぞれ異なるため、同一のものと見なされない。
「そういうことだ。だから、別に小分けにしているわけではない。ただ、行いたいことの関係上、分ける必要があるのだ」
「行いたいこと?」
「フランシス、お前は自分が恨まれている自覚はあるだろう?」
「あるね」
「わたしも、相当恨まれている」
「君は、わたしなんかの比じゃないだろうね」
「ふむ。恨まれても痛くも痒くもなかったのだが、あの娘を手に入れようと考えたとき、わたしを恨むものが、あの娘を害する可能性があることに気付いた」
クローヴィスを手に入れるにあたって、クローヴィスの家族だけではなく、親族も保護しなくてはならないことを知り――大事なものがなかったリリエンタールにとって、かなり難しい問題。
それらの問題を解消するために、リリエンタールが導き出した答えは、
「そうだね。君の言動を見ていると、あの娘さんが絶対に狙われるようになるね……捕らえられるかどうかは、知らないけど」
「まあな。だが塵掃除はしておいたほうがいいであろう?」
「断然したほうがいいだろうね」
殺すというシンプルなものであった。
ただ殺害するにしても、数は膨大。多く殺害するのならば、リリエンタールにとって、戦争がもっとも手っ取り早く、確実であった。
「塵は殺すに限る。どうせ殺すのであれば……今まで考えたことはなかったが、名も上げようと思ってな。戦争は殺せば殺すほど名は上がる」
「捜してくればいいのかい?」
「いいや。お前の腕は確かだが、数が多いから他の者に任せることにした」
アイヒベルク伯爵が軽く首を振る――軍のほとんどを任されている彼だが、そのような命令を部下に下してはいない。
アルドバルド子爵はすっと目を細め、楽しげに名を挙げた。
「共産連邦だ」
「正解だ、フランシス」
リリエンタールがロスカネフ王国に戻ってきたことで、当初の予定が狂った彼ら共産連邦は捨て駒として、またあわよくばという気持ちで、リリエンタールに対し明確な敵意を持っている軍人を投入してくる――ロスカネフ王国に直接投入しないのは、それを切っ掛けに開戦されては困るから。
「そうだ。あれたちは一生懸命捜して、フォルズベーグに投入するであろうよ。敵の敵は味方だ。わたしと共産連邦は明確に敵対しているゆえ、敵はすぐに信用する」
「国家を挙げて、捜させるんだ」
「捜してくれと、頼んだわけではないがな」
リリエンタールの表情は変わらず、声も相変わらず淡々としている。
「君の思い通りに動く……んだろうねえ」
「まずはヴィート・シェベクであろうな。あれならば、殺害しようと考えていた、ブルーキンクの代わりも充分務まる」
言葉の端に、自画自賛の欠片でもあれば人間らしく感じられるものだが――リリエンタールにはそれは一切ない。
彼にとってこれは全く難しいことではない。
「共産連邦で拾いきれる?」
「モルゲンロートの死の商人だったカイにも、頑張ってもらう。なんのために、資産の一部を凍結しそびれたり、家の中に味方を作っておいたのか……まあ、カイは自らの才能が、優れているからと考えるであろうが」
共産連邦が取りこぼしたのは、進退窮まったカイ・モルゲンロートがかき集める――その頃には、共産連邦も自分たちがリリエンタールの希望通りに動き、敵対者をかき集めて献上していたことに気付き、それを止める。
「あれは自分の手を汚すタイプではない。金で解決することを選ぶ。故に金が及ぶ範囲しか手が出せぬ。なによりあれは金があれば諦めぬ。金を取り上げねば、なんでもしてくれる」
カイ・モルゲンロートも敵対者を集めるのは、リリエンタールの望みだと理解するも、まともな傭兵ならば、どれほど金を積まれても敵対しようとは思わないので、リリエンタールに不満を持つ者たちを集め、兵に仕立てるしか残っていない。
「自分の金を使って、敵である君が一番したかったことをしちゃうんだ」
「違うことに金を使ってもいいのだぞ? 手持ちの資産で慈善事業などを始められたら、わたしとしては困ってしまうな」
「嘘つきー。全く困らないよね……一国と大財閥の情報網と資金があれば、大体は網羅できるだろうね」
労力と資金のほとんどを、頼まれてもいないのに敵が担い望みを叶える――
「取りこぼしは、お前に頼むかもしれぬ、フランシス」
数度戦いを起こす理由の一つは、彼らが全ての敵を集めて一度に投入する……ということが不可能なため。彼らが全てを集めて、一つの戦いに投入してきたら――それはそれで、リリエンタールには策があるので、構いはしないのだが、現状では到底無理そうなので何度か戦わねばならない。
「分かった……そうそう、君に一応許可取ろうと思って」
「なんだ?」
「明日、君のお嫁さんを、君の城に行くように指示を出すから。部屋の準備と、あとは採寸もできるように人を用意しておいてね。君はいなくてもいいけ……」
面白くなさそうに椅子に腰掛けていたリリエンタールは立ち上がり、
「自宅に戻る」
アルドバルド子爵に背を向けて歩き出した。アイヒベルク伯爵とアーリンゲが急いで後を追う。
「明日なんだけどねえ……イェルハルド、カミラ君、明日は頑張ろうねえ。これで失敗したら、きっと……ねえ?」
アルドバルド子爵の笑顔に、リドホルム男爵の胃は重くなり、ベックマンの胃は痛くなった――もっとも失敗したら、痛みも重さもなにもない世界へ送られるのだが。