【049】至尊の座を狙ったものたち・08
[よし!]
教皇庁に戻ったボナヴェントゥーラ枢機卿は、教皇専用の礼拝堂で話し合い――リリエンタールと中産階級の娘との結婚を、教皇庁として認めることを決定した。
マイヤー子爵ことフリオに「ロスカネフに向かいました」と伝えにノーセロート帝国まで出向いていたオリンド司祭は、結婚を認める決定がなされたあとに「……という事情でフュルヒテゴットが呼びに来たんだ」と知らされ――その時、フリオは中産階級の娘を妾にするので……と伝えに来たのだが、その辺りの齟齬は大したことではない。
[猊下と閣下が決定なさったことに、異議を差し挟むつもりはございませぬが……中産階級の娘とは一体なにものなのでしょうか?]
[知らん! 名前も年齢も知らされていないからな! 正直なところを言えば、本当に中産階級の娘なのかも知らんが!]
結婚という最も重要な契約を結べる唯一の権威。
その権威ゆえに、王侯の結婚に対しては慎重でなくてはならないのだが――
[…………よ、よろしいので?]
[こっちが反対したところで、どうにもならん。早めに認めなければ、教皇庁および聖教全体に被害が及ぶ]
[仰いますと?]
ボナヴェントゥーラ枢機卿は、リリエンタールから「異教徒の国家を攻める」と言われたことを伝える。
聞いたオリンド司祭は、リリエンタールなら勝てるだろうとは思ったが、その裏にある事情までは分からなかった。
[アントニウスは異教徒の帝国を攻めると言った。聖なる戦いは勝利を持って終わる。故に勝つとは言わなくても、勝つのは分かる。だが統治するとは言わなかった]
アディフィン王国のリリエンタールの離宮で、三人が会話したとき――フォルクヴァルツ選帝侯とリトミシュル辺境伯が膝を叩いて笑ったのは、ここだった。
[……]
[その時点でわたしは結婚を認めないと言っていたので、当然のことだ。アントニウスは、いま異教徒が支配している古帝国の領土を勝ち取ったら、教皇庁が授けた正統後継者の称号リリエンタールと共に国土を献上してくる]
リリエンタールとロスカネフ王国で話をしていたボナヴェントゥーラ枢機卿は、この時「まずい」と気付いた。
現在異教徒の帝国が築かれている土地は、たしかにかつては聖教信者の国だったが――それは五百年以上も前のことで、現在土地に根付いているのは異教徒。
リリエンタールならば勝て、異教徒を抱えていたルース皇帝としての才覚も所持しているので、統治もできるが、その非凡な能力を持つものは、教皇庁にはいなかった――ボナヴェントゥーラ枢機卿の知り合いで、他に統治できそうなのは、フォルクヴァルツ選帝侯だけだが、あの選帝侯は古西帝国の末裔国家・神聖帝国の次の皇帝なので、引き受けることはない。
[献上されては、困ります……か]
[ああ。困るな]
[それと引き替えに正式な結婚を求めるつもりで?]
ボナヴェントゥーラ枢機卿はオリンド司祭の答えに首を振る。
[まさか! あいつが、あのアントニウスが下手に出るなどあるはずがない! 異教徒に支配されている古東帝国を奪い返して、称号とともに教皇庁に収められたら、我々は泥沼に陥り、最終的に膝を折りアントニウスに縋りつくしかない。その際に結婚を認めると言ったところで……引き受けてくれるかどうか分からん]
[…………]
[誰があの難しい土地を支配する? わたしには無理だ。だが我々はいつもあの土地は我々のものだと公言している以上、受け取らないわけにはいかない。正統古東帝国後継者の称号も、中産階級の娘と結婚するゆえ返上すると言われたら、認めていなければ受け取るしかない]
[遠征軍を送らないようにすることは、できないのでしょうか?]
オリンド司祭の言葉はもっともなのだが、
[わたしもそう考えたのだが……戦争に関して、わたしは専門家ではないので、考えても答えがでなかった。そこでアディフィンでリトミシュルに聞いてみた。返ってきた答えは残酷だった。我々聖教の盾となっている国家、アブスブルゴル。彼の国は貴賤結婚を認めぬゆえ、アントニウスと対立してしまう。アントニウスはマリエンブルクから追放されてしまうであろう……まあ、追放したほうが滅びるんだけどなあ! アブスブルゴルの奴らは国が滅びようとも、結婚を認めない。アントニウスからの資金提供がなければ、ろくに戦争なんてできない。ああ、可哀想な我らが守護国家マリエンブルク! 異教徒は弱体化したアブスブルゴルに喜んで攻め入るであろう]
遠征軍は自分たちから送るのではなく、どうしても送らざるを得ない状況になる――
[かつての異教徒ならば、アブスブルゴルまで攻めてくることもできたでしょうが……]
現在異教徒の帝国は斜陽で、大軍を攻め込ませるような力は無い……と見なされていたのだが、
[馬鹿な輩が、モルゲンロートの武器商人に、アントニウスがお前の命を狙っていると教えてしまったのだ。その結果、武器商人はアントニウスの手がもっとも及ばないと考えられる、異教徒の帝国へと逃げ込んでしまった。あの武器商人は、まあまあやり手だ。財産もある。伝手もある……だから一時的に異教徒の帝国は、息を吹き返してしまうのだ。な ん と い う こ と だ !]
オリンド司祭はここに来て、ぞっとした――生え抜きの聖職者である彼は、リリエンタールの策に触れたことがない。
もちろん噂で「気付いた時には終わっている」とは聞いたことはあったが、いままで実感するような機会はなかった。だが今、彼はそれを実感していた。
[だが我々は中産階級の娘との結婚を認めた。認めた以上、アントニウスは教皇への愛から投げ出しはしない。偉大なる教皇の愛が、我々を守ってくださるのだ]
[閣下]
[どうした? オリンド]
オリンド司祭がなにを問おうとしているのか分かっているボナヴェントゥーラ枢機卿は、それは慈悲深く――だが空気は嗤っている。その歪な雰囲気は、どう好意的に受け止めても、滅びを楽しんでいるようにしか感じられない。
[アブスブルゴルが滅びる運命は避けられないということですか]
[そうではない]
[……]
[アブスブルゴルもわたしたちと同じように、アントニウスの結婚を認めて祝福すればよいのだ]
そんなこと、絶対にありえない! と、咄嗟に叫びかけたオリンド司祭は、
[ぶぁ……失礼いたしました]
枢機卿の前だと思い出し叫び声を止めたが、止めきれなかった声が漏れ出し、おかしな声をあげてしまったが、ボナヴェントゥーラ枢機卿は全く気にしなかった。
[遅かれ早かれ滅ぶ国だからな]
そんな話をしているとドアが控え目にノックされ――ドアが開かれ、
[リトミシュル辺境伯爵閣下より無線がありました。フォルズベーグ王族が無政府主義者に襲われ、死者が多数でたとのことです。詳細は知りたければ……とのことです]
北の小国の凶事が告げられた。
[それは……詳細はもちろん知りたいので、オリンド、アディフィンまで出向いて、受け取ってきてください]
[はい、閣下]
**********
フォルズベーグ王国の王族たちが、ほぼ全員、無政府主義者によって暗殺された――その知らせが届いたとき、どの国の上層部も、いい知れない何かを感じた。
【さすがアントン!】
【自重しないアントン!】
軍務大臣と外務大臣が、各々の国で大喜びしているのはさておき――
{ツェサレーヴィチに先制された……と判断すべき……だろうな}
共産連邦の書記長と元帥三名に、その他の将校たちは、某国でテンションが振り切れている貴人とは逆に、ほとんどが沈痛な面持ちであった。
彼らもフォルズベーグ王族の死を悼んでいるわけではない――王族など死んで当然としか思っていないので。
書記長の問いかけに、
{普通に考えたら、そうかと}
ヤンヴァリョフが溜息交じりに答え、
{今回ばかりは、ヤンヴァリョフ元帥の意見に同意いたします}
主戦派のマルチェミヤーノフも、言葉の端々に悔しさを滲ませ――それ以外の言葉が出てこなかった。
彼らの基本戦略は、評判のよくないフォルズベーグ王族を討ち、新たな立憲君主制国家を作る……というもの。
その評判の悪い王族のほとんど全員が、国民の前で爆死及び焼死するという、とんでもない事件が起こった。
タイミングも、彼らが仕掛ける直前――まるで計ったかのように。
その爆死だが、仕掛けられた爆発物が、
{プロで間違いないというのだな、同志ピヴォヴァロフ}
{はい、書記長。爆発後の火薬の匂いも、軍仕様のものでした。嗅ぎ慣れた匂いですので、我らのもので間違いないでしょう}
共産連邦の純正品だった。
爆発の威力も素人が作れるようなものではなく、完全な専門職の手によるもので、すぐに捕らえられた無政府主義者の中に、爆薬から爆弾を作れる者、共産連邦と繋がっている者はいなかった。
たまたま、フォルズベーグ王族暗殺の場を通りかかったピヴォヴァロフ――書記長宛の手紙の署名を確認すべく、フォルズベーグ王国とアディフィン王国の国境沿いに赴いたピヴォヴァロフは、連絡員ウラジミール・ヴァシレフスキー中尉と共に、ストラレブスキーに署名を確認してもらったあと――
{同志ヴァシレフスキーが、アディフィン国内でこれを手に入れたと}
ピヴォヴァロフはヴァシレフスキーから「判断に困る手紙」を渡された。
手紙は神聖皇帝からアディフィン王妃に宛てた――ケッセルリング公爵をアディフィン王にしたいので、離婚しませんか? という内容のもの。
{焚きつけ用に購入した紙束の中に紛れていたそうです}
{皇帝が姉王妃に正式に宛てた手紙が、屑紙の束に紛れ込んでいたと}
薪に火を付けるために、使用済みの手紙などがまとめて格安で売られているのだが――
{考え辛いがな}
ヤンヴァリョフは「あーやだ、やだ」と思いながら、封筒を手に取る。先日ピヴォヴァロフに渡したオデッサ署名の封筒と同じで、庶民が手にするような品質のものではなく、紛れ込むような代物ではないのは明らかだった。
{紛れ込ませたとしたら、リトミシュルか?}
クフシノフ元帥が心当たりのある人物の名を口にする――室内にいる全員が、同じ人物を思い浮かべてはいたが。
{十中八九リトミシュルだろうが、目的が分からんし、この手紙の内容も理解できない。グレゴールとはあのグレゴールのことであろう? あのグレゴールだぞ}
神聖皇帝が「弟のグレゴール」と書いているので、彼らもこのグレゴールがケッセルリング公爵なのは分かった。そしてケッセルリング公爵が、いかに駄目な人間なのかも知っている――彼らですら王位をぶら下げ、協力を持ちかけようと思わないほど。
{マルチェミヤーノフ元帥。同志ピヴォヴァロフが少し調べてくれたのだが、ケッセルリングは現在幽閉されているらしい}
{…………}
{理由はツェサレーヴィチを暗殺しようとしたから……という、荒唐無稽な噂が立っている。だが、幽閉は事実のようだ}
ヤンヴァリョフの言葉に、マルチェミヤーノフは勢いよく首を何度も振る。
{酷い噂としか言いようがない}
{わたしも酷いと思う}
それは事実なのだが、いままで――それこそ二十年以上、リリエンタール暗殺を目論んで、潰されるも放置されてきた男が、ここにきて暗殺が理由で幽閉されるなど、信じようがない。
{だがそれに関連しているような事件はあったのだな? 同志ピヴォヴァロフ}
{はい、クフシノフ元帥}
ピヴォヴァロフはリリエンタールが、アディフィン王国からロスカネフ王国に引き返した理由が、その間にある国フォルズベーグ王国にあるのではないか? と考え、足を伸ばしたのだ。
{我が国が仕掛ける壮大な作戦の第一歩を見て、ヤンヴァリョフ元帥にご報告しようとも思いまして。また何ごとかがあった場合、侵略前に調べなければ、紛失する恐れがあるとも考えて}
往路でリリエンタールの車両が、駅でもなんでもない線路上で長時間動かなかったことを掴んだ。
{何ごとかがあったのだろうと考え、王族に近づこうとしたのですが、遅かったようです}
「どうやって近づくつもりだったのか?」などという、野暮なものはいない――王女に近づくのはピヴォヴァロフの特技であることを、誰もが知っている。
{更に、フォルズベーグの第二王子が、偶然にも隣国ロスカネフに留学していて助かった。保護しているのはツェサレーヴィチ……そんな偶然があってたまるか!}
ヤンヴァリョフがテーブルを拳で叩く。
{気持ちは分かるが、落ち着け、ヤンヴァリョフ元帥。書記長、作戦はどうなさいます?}
クフシノフ元帥がこのまま作戦を実行するのか? と問う。
問われた書記長は渋い顔をし――自分で決断するのは嫌だという空気が、あからさまだった。
普段であればマルチェミヤーノフが「当然だ!」と押すのだが、さすがに今回は彼も強く出る気持ちになれないでいた。
実はマルチェミヤーノフは、これ以外にも気がかりがあった。ロスカネフ王国に送り込んだスパイの一人が殺害された。死体には激しい拷問の跡があったとの報告があり――撤収するように命じていた。
撤収の中には、何も知らないロスカネフ人記者――ノア・オルソンの殺害も含まれているのだが、どうもそれが上手くいっていない。
ただの一記者ごとき、すぐにでも始末できるだろう……と、苛つきつつ、ロスカネフ王国に引き返したリリエンタールの顔が脳裏にちらつき、不安を感じていた。それもあり、今ひとつ精彩に欠けていた。
{はあ……。一つ策があります。シェベク隊をフォルズベーグに投入してみましょう。あれなら短期間で、強姦、略奪などの非道を働いてくれるでしょう。となれば、当初の計画に近づけるはず}
{計画を中止しろと言うと思ったが}
{わたしの本心はそうだ、マルチェミヤーノフ。わたしが確かめたいのは、リトミシュルのほう。手紙を紛れ込ませてきたということは、こっちの動きをリトミシュルも察知しているのか? シェベク隊を直接フォルズベーグ王国へ送るのではなく、アディフィン国内を移動させて国境を越えさせる。捕まっても惜しくない隊だ}
{アディフィン国内で捕らえられず、国境を越えられたら、リトミシュルにも感知されたと……リトミシュルが見逃す筈はないから、判断材料になるな。今日はお前と意見が合う日だ、ヤンヴァリョフ}
{根本的なところで、意見の合致を見たいところだが}
方針は定まり――シェベク隊という、かつて共産連邦対連合軍の戦いの際に、強姦略奪を行い、軍規違反として裁かれそうになったため、共産連邦軍へと逃げ込んだ、元連合軍の部隊が投入されることになった。
シェベク隊の誘導はピヴォヴァロフに任せられた。
ピヴォヴァロフは彼らが国境を越えたら別行動――そのままロスカネフ王国入りして、リリエンタールの身辺調査をするよう命じられた。
彼らはフォルズベーグ国境を易々と越え――彼らと別れたピヴォヴァロフは港を目指した。
ロスカネフ国境を陸路で越えるのは、国境警備がしっかりとしていて難しいため、海軍長官の愛人を頼りに、海から入国を果たす。
見慣れた港に降り立ったピヴォヴァロフは、いままで感じたことのない何かを肌に感じた。
”ヴィート・シェベクが投入されることも、ツェサレーヴィチはお見通しなのかも知れない……きっとそうだ……でもなぜ、ヴィート・シェベクなんかを……”
「レオ」
海を眺めながら物思いに耽っていると、偽名の一つ「レオ」と、聞き覚えのある声に呼ばれ――
「男を捕まえて欲しいと……愛人の長官に任せたらどうですか?」
「捕まえられなかったのよ」
「ふーん。部下もいるでしょう?」
「捕らえるのは海軍長官の息子、ウィルバシー。部下はあまり使いたくないって。派手にやるのは避けたいって」
「なぜ?」
「港にブリタニアスの船が増えたから。間違いなくツェサレーヴィチ絡み。だから、派手に動いて目を付けられたくないって」
「……いいでしょう」
この時、マチュヒナは「捕まえて欲しい」としか頼まず――ピヴォヴァロフは捕らえて引き渡し、暴力込みの尋問を受けている二人をしばし眺めてから、悠々と二人を逃がした。
「逃がしちゃ駄目って、言ってくれないと」
マチュヒナにピヴォヴァロフは扱いきれなかった。