【005】室長、諦める
かつて王族が建てたという由来がある、王都の教会。二百名ほど収容できるその教会は、不定期にとある団体が借りていた。
もちろん借りていることは秘密。更に言えば貸し切りではない。教会は安息日以外は開かれているものゆえ、貸し切りにできないのだ。
そのため借りている者たちのトップは、教会の神父に成りすまし、祭壇にて聖典を手に、座席についている部下たちに古帝国語で語り、部下たちも同じく返すという形式を取り、偶にやってくる一般人に対応している。
本日は部下三十五名が席に付き ――
「滅びるねえ」
ガイドリクスが即位する意思を固めたという報告を受けた際、神父の格好で祭壇にいるフランシス・ヴァン・アルドバルドの第一声である。
テサジーク侯爵家専属の諜報員 ―― メッツァスタヤたちは、主たるアルドバルドの言葉に、あからさまな反応を示すことはなかったが、内心はそうではなかった。
”滅びる”
なにが滅びるのか?
国なのか、はたまた自分たちなのか?
メッツァスタヤの精鋭たちであろうとも、アルドバルドの表情から、何かを読み取ることはできない。
メッツァスタヤの先代主、テサジーク侯をして「息子がなにを考えているか、読めたことは一度もない」と ―― もっともそれを聞いたアルドバルドは「親子として接したことなどないのですから、息子の気持ちなど読めなくて当然では」そう返した。
「滅びるとは?」
髪を短く刈り込んだ青年が聞き返す。
「言葉通りだよ、ロヴネル君」
聞き返した青年はアルドバルドの息子イェルハルド。
だがこのような席で、アルドバルドは息子の名を呼ぶことはない。
「分からないので聞いているのですが」
祭壇にてこの教会の神父に成りすましているアルドバルドだが、闖入者がいない時はアルドバルドのままである。
「滅ぶんだよ。ロスカネフだけじゃなくて、小さい国は次々と共産連邦に飲み込まれ……最終的にはアディフィンやノーセロートも飲み込まれてしまうだろうね。それがツァーリのご希望さ」
人畜無害な笑顔 ―― アルドバルドを暇な史料編纂室の室長としか思わない輩にはそう見えるが、この場にいる者たちには悪魔の冷笑にしか見えない表情を浮かべ、こともなげに言い切った。
「ツァーリとはリリエンタール伯爵のことですか?」
この世界にツァーリと呼ばれる正式な皇帝はいない。
だがそう呼ばれる人間は一人だけいる。
「そうだよ。あーあ……ねえロヴネル君。君、リヒャルトと一緒に行く気はないかい?」
戴冠していないのに皇帝と呼ばれる男。
「……どういう意味でしょうか?」
「王家の影であるテサジーク侯爵家はロスカネフ王国と共に滅びるしかないけれど、君らのような若い世代は国を捨てて、新たな世界で生きて行くべきだと思うんだよね」
各大陸に所有する大地には、大勢の民がいて大軍を所有し、
「共産連邦に飲み込まれるのであれば、ここで滅んでも」
「飲み込まれるのはこの大陸だけだよ。リヒャルトは新大陸に渡るはずだ。あっちまでは、さすがの共産連邦でも食指を伸ばせないだろうから。そうは言っても、ちょっとした延命措置くらいのものだけどさ」
財が膨れあがる会社を所持し、彼以外の誰もなし得ない事業を展開する。
「延命?」
「滅ぶんだよ」
「新大陸すら?」
「ああ、滅びるという言い方が悪かったね。朽ちてゆくんだ。劇的ななにかがあるわけじゃない。ただ誰も為す術なく朽ちてゆくだけ」
いかなる国の国王となることも可能な男は、全ての国を朽ちさせる。
「分かっているのなら止められるのでは?」
「なにも分からないよ」
「……ではなぜ滅び……いや朽ちると?」
「なにをどう考えても朽ちる。強いて言うなら、なんでみんな、リヒャルトが国を守ってくれると無邪気に思っていられるの? それがわたしには分からない。国を守ってリヒャルトになんの得があるのかな? 教えてくれるかい?」
アルドバルドの問いかけにイェルハルドは、答えることができなかった。
リリエンタール、彼にとって世界が平和である必要は何一つない。
「名声くらいのものでしょうが、リリエンタール伯爵が名声を欲するなど想像もつきません」
「うん。そうだね。まあ、わたしとしては世界が朽ちて行くのを眺めるのも一興なんだけど、年齢的にわたしは見られそうにないから残念だ」
「見られないのですか?」
「誰もどうすることも出来ない滅びが始まるのは、リヒャルトが死んでからさ。彼が死ぬと同時に、世界は朽ち始める。わたしはリヒャルトより十以上年上だから。ま、無理だろうね」
アルドバルドが何を言っているのか? 臨席している彼らには分からなかったが、リヒャルト・フォン・リリエンタールの死後起こるであろう出来事は、容易に想像がついた。
そして彼らはアルドバルドが言っていることを理解した。
彼らが思い描くことができる、リリエンタール亡き後の世界の破綻。
それをあのリリエンタールが気付いていない筈がないということを。リリエンタールは知りながら無視どころか、更に世界に介入し、完璧な滅びを作り上げていることを。
領土問題、王位継承問題、民族問題、宗教問題……それら全てをカバーしているリリエンタールが、後継者を作らずにこの世を去ることで起こる出来事。
「王家を守っているだとか、王家は侯爵家がなければ成り立たないなどとほざく愚か者もいるけれど、諜報部の仕事は情報集めで、できる事といえば邪魔者の暗殺。それ以外の方法で事態を収拾する術など知らないし、わたしたちにはそれ以外求められてもいない。ねえ、ロヴネル君。世界を朽ちさせるリヒャルトに対して、わたしたちはなにか出来るかな?」
それは一国の諜報部などが手を出せるような問題ではない。
「世界が朽ちるのを、できるだけ遅らせることくらいでしょうか」
イェルハルドはなぜ父親が、国を出てリリエンタールと共に行けと言ったのか分かった。世界が緩やかにだが手の施しようのない病で死んでゆくのを、少しでも遅らせるためにリリエンタールを守れと命じているのだと。
「世界を止めどなく朽ちさせることが出来るのも、リヒャルトだけなんだよねえ。それが見られないのは残念だ」
「リリエンタール伯爵を今すぐ暗殺なさったらいかがですか?」
イェルハルドはアルドバルドに似た笑顔で、そう言ってみた。
「それはそれで面白そう。じゃあロヴネル君、暗殺してきてくれる?」
「嫌ですよ。わたしはあなたと違って、世界が朽ちるのを見たいわけじゃない。朽ちるのを見たいあなたが、自分自身でするべきだ」
「そんな正論言われちゃうと困っちゃう」
全く困っていないことが分かる表情に、イェルハルドは内心溜息をつく。
『じゃあロヴネル君、暗殺してきてくれる?』 ―― これに冗談で『はい』と答えても消されることを、イェルハルドは知っている。
「さて、困ったついでに、もう一つ困ったことを教えるよ。即位しようとしている王弟殿下、なんか変なのにまとわりつかれているらしいよ。リヒャルトからの情報だから、間違いはないだろう。ほんと困るよねえ……変なのにまとわりつかれる殿下も、リヒャルトに出し抜かれてばかりのわたしたちも」
くすくすと笑い困っている素振りなど一切見せずに、アルドバルドは語る。
「変なのとは、何者ですか」
一国如きでは太刀打ちできないリヒャルト・フォン・リリエンタールのことから頭を切り換え、彼らは本来の職務である王家の影に戻る。
「どこかの諜報部員だね。所属はいまリヒャルトが調査中だけど、リヒャルトがこの国を去るまでに判明しなかったら、案件はこちらに来るよ」
「諜報部所属の根拠は?」
「対象が誰なのかすら分からないからさ。対象を調査しているのはヴェルナー中佐。まあ、彼は優秀な男だから、調査していることに君たちも気付かなかった……と言いたいところだが、誰か一人くらいは気付くよね。それほど君たちも無能じゃないよね」
席についている部下たちを祭壇から一瞥する。その視線は聖職者とは全くかけ離れた、冷酷さしか感じさせないものであった。
「ええ、まあ分かるでしょう。要はヴェルナー中佐の調査対象が諜報部員なので、調査対象自身がこちらに掴まれないように動いていると」
「そうだろうね。クリスティーヌが一枚くらい嚼んでいるかもしれないけれど、それにしても見事なまでにこちらに尻尾を掴ませていないところを見ると、実力あるんじゃないかな」
「一応調べてみます。ところでリリエンタール伯爵の手の者は、どの手法を使っているのですか?」
「ジーク君が、王弟殿下の部下に偽装恋人……どうなさいました?」
「神父さま……あの……」
教会入り口のドアが特有の軋む音を立てて僅かに開き、何も知らぬ人が一人やってきた ―― 彼らは何ごともなかったかのように、教会から去っていった。