【048】箱庭が綻びるとき/02
イーナとの出会いをセイクリッド・ヴァン・ガルデオは覚えていない。
きっと王立学習院で知り合ったのだろう――栄えある公爵子息であるセイクリッドと、男爵令嬢でしかないイーナが知り合う場所は、そこしかない。
出会いも覚えていなければ、どうやって距離を縮めたのかも覚えていない。気付けばイーナといつも語らっていた。
薄らと覚えているのは、イーナと親しくなったのは、婚約者のヴィクトリアが卒業してからだった――それもはっきりと思い出せはしないが、セイクリッドにとって、それもどうでもいいことだった。
イーナ・ヴァン・フロゲッセルは、他の貴族令嬢とはなにかが違った。
下位貴族なので平民に近いから、そう感じるのだろうかと考えたが、平民と接してみて彼らとも違うことに気付き、言葉に出来ないなにかがセイクリッドを強烈に惹きつけた。
元々顔見知りで、王立学習院で更に親交を深めたロルバス・ヴァン・クルンペンハウエルとアルバンタイン・ヴァン・ヒルシュフェルトの両名も、同じくイーナにはなにか普通の人にはない、特別ななにかを感じていた。
イーナ・ヴァン・フロゲッセル――ツェツィーリア・マチュヒナは彼らにアヘンチンキを飲ませて虜にした。
乱用しては気付かれる恐れがあるので少量、ここぞという時のみの使用だったが、スパイとして使い方を教え込まれたマチュヒナの使い方は巧みで、三人は気付きもしなかった。
マチュヒナが用意した飲み物にアヘンチンキが混入され――マチュヒナと話をしているとき、彼らは良い気分になり、気持ちが大きくなり、マチュヒナの囁きに酔いしれ、いつしか「そうすべきだ」と考えるようになった。
セイクリッドはイーナに感じるそれを恋心だと勘違いし――そうなるように、誘導されたのだが――女王の夫になる自分が……と悩んだ。
セイクリッドの気持ちを知っているマチュヒナは、彼に婚約破棄を持ちかけた。
「婚約破棄」と聞かされたとき、セイクリッドはもちろん拒否した。
そもそも相手は女王で、セイクリッドは公爵子息。下位の自分からでは「婚約解消」の希望すら告げることなどできない。
婚約破棄を囁いたマチュヒナ。彼女は「婚約破棄」という言葉を使い、セイクリッドがまだまともな思考回路を持っているかどうかを確認したのだ。
駒にするために薬を投与したが、廃人になられては困るので、細心の注意を払い、吸わせる方法ではなく飲ませ操ったが、薬物の耐性は個人差が大きいので――もしもセイクリッドが婚約破棄をすぐさま受け入れていたら、マチュヒナに殺害されていたことだろう。
のちのちの彼の人生を考えると、そちらのほうが良かったのかも知れないが。
まともな判断能力が残っているが、自分の言うことをよく聞くセイクリッド――この状態でマチュヒナは、
「女王は北の司令官が好きだって聞いたのだけれど……」
「あ……ああ」
ヴィクトリアには他に好きな男がいるのは、知っているのかと揺さぶりを掛ける。
イーナはヴィクトリアが卒業してから王立学習院に編入してきたので、攻略対象たちは二人は直接会ったことはないと思っているが、この二人は会って会話を交わしたこともある――エリーゼ・ヴァン・フロゲッセルがそれを聞いた相手はヴィクトリア自身。
マチュヒナは若いセイクリッドに「女王の恋を成就させてあげるべきだ」と囁く。「それが正義だ」「それは忠義だ」「女王に捧げる崇高な愛」とも――
人が正義で動くことを、マチュヒナは教えられた。正義に見せかけてやれば、正義だと思い込ませてやれば、多くの人にとって悲劇的な結末を迎える惨劇であろうが、当事者にとっては正義。
どれほど残酷な結果であろうとも、たとえ自分が死のうとも、それらの死は全て高潔なものであり、尊い犠牲となる――もちろんそう信じている当人だけだが。
高貴な身分に生まれ、挫折らしい挫折を知らず、正義感を持っている若者にとって、叶わぬ恋に沈む女王の手助けをするのは、正しいことのように思えた。
阿片に微睡みながら、崇高な愛の形を語られ――セイクリッドはその美しき正義に抗うことができなかった。
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財務長官の息子であるアルバンタイン・ヴァン・ヒルシュフェルトは、その性根を見破られていたので、どれほど成績がよかろうとも士官学校には入学できなかっただろう。
アルバンタインは貴族家の次男。
実兄はアルバンタインが及びもつかないほど優秀な頭脳を持ち、官僚として父親の下で働き、務めてすぐにその才能を発揮し将来を嘱望されていた。
アルバンタインが実家を継ぐ可能性はないに等しく、それは本人がもっとも理解していた。
実家は裕福なので死ぬまで飼ってもらえるだろうが、アルバンタインはその人生を選びたくはなかった。
有爵貴族の次男として身を立てると考えたとき、まっさきに挙げられる進路は軍人。
貴族としての品格を失わぬよう、アルバンタインも軍人を目指し十六歳から士官学校を受験しているが――王立学習院に在籍していることから分かるように、彼は不合格が続いている。
アルバンタインの不合格理由は、単純に学力不足で、一次試験を突破したこともない。
父親はアルバンタインに期待はしていなかったので、落胆することもなく――だが見捨てることもなく、最初の不合格のあとに家庭教師をつけてくれたが、今年も不合格だったことで、退役軍人家庭教師は辞した。
実は彼から軍の上層部に「財務長官の次男は士官には不適」と内密に通達がなされていた。
不適な理由は、アルバンタインの英雄思考。
指揮官として前戦に赴き戦い、華々しく戦いたいという願望が強く――そういった思考の人間を軍は採用していなかった。
近年ロスカネフ王国では、有爵貴族将校は数を減らしているのだが、その理由の一つが、アルバンタインとおなじ華々しい戦い願望を持っている者が多いことが挙げられる。
理由は産業革命による庶民の台頭、貴族の凋落――輝かしい歴史を持っている自分たちが、追いやられている様を前に、貴族としての義務を果たすという名目で戦い、かつての栄光を一瞬でも感じたいと願うものが多い――国の方針として、そんな私的な目的で司令官になられては困るので、採用数は減る。
貧乏貴族の七男や八男、持参金が用意できない貴族令嬢のように「故国は決して売りませんが、金は喉から手が出るほど欲しいんです」と素直に語ったほうが、余程採用される――もちろん学力、体力が合格ラインに到達しなければならないが。
アルバンタインの父親は最初の試験が不合格だったあとに、彼とアールグレーン商会の娘と婚約を結んだ。
父親は息子が士官学校に合格することはないだろうと、早々に見切りをつけたのだ――本人の性格上、試験が受けられる年齢なのに、受けさせないと後々まで引きずると考え、年齢ぎりぎりまで受けることは許した。
父親とアールグレーン商会はアルバンタインを兵站部にねじ込むつもりだった。それは財務長官と国一番の商会の力が軍内で及ぶ、数少ない軍内部署。
兵站、すなわち後方支援部門で、華々しい戦いを夢見るアルバンタインにとって、もっとも配属されたくない部署だった。
エリーゼから父親の真意を聞かされたとき、アルバンタインは怒りを覚えた。エリーゼは親の気持ちも語ってくれたが、それは怒りに油を注いだだけ――もちろん知っていて、親に感謝するよう諭したのだ。
{あの単純馬鹿、どうして引き入れるの? ツェツィーリア}
{単純で戦争したがり屋だから……断れない筋からの命令よ}
マチュヒナの当初の計画では、アルバンタインに声を掛ける予定はなかった。マチュヒナとしては、アルバンタインの父親だけで良かったのだが――
{セイクリッド・ヴァン・ガルデオにアルバンタイン・ヴァン・ヒルシュフェルトを付けて}
黒髪に黒い瞳の美しい共産連邦の将校――ピヴォヴァロフが、アルバンタインも組み込んでくれと、出会い頭に腹部にパンチを入れ、崩れ落ちたマチュヒナに頼んできた。
{胃液吐き出しても、まだそういう目つきできるんだ……顔は蹴らないほうがいい? ああ、体も大事か。ま、関係ないけど}
{やる!}
マチュヒナの鳩尾には、ピヴォヴァロフの爪先――
”二度もこの男の攻撃を食らったら、半月以上は動けなくなる”
ピヴォヴァロフはうずくまっているマチュヒナの髪の毛を引っ張り、
「お嬢さん、吐くまで飲まないほうがいいですよ」
「ごしんせつ……に、どう……も」
髪の毛を何本か抜き、ぱらぱらと宙に降らせた。
「なにか頼みごとがあるのなら、聞いてやるよ」
「去れ、狗」
「お望みのままに」
「狗」は極めて優秀で、敵対するのは得策ではないということで従った。
ただ従ったものの、マチュヒナもエリーゼも、ピヴォヴァロフがアルバンタインのような、取るに足らない男をなぜ望んだのか、その時は分からなかった。