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Eはここにある  作者: 剣崎月
第一章
46/208

【045】室長、全面撤退を決定する

 自宅から閉め出され、アルドバルド子爵の定宿のホテルに泊まったリリエンタールは、


「…………?」


 目を覚ますとほぼ同時に上半身を起こし、あたりを見回す。

 中流と上流の狭間に位置するホテルのゲストルームは、リリエンタールが普段寝起きしている部屋からすると狭いが、いまリリエンタールが気にしているのはそれではない。

 ベッドから出て主寝室へと向かい、ドアをノックすることなくドアノブに手をかける――リリエンタールはその身分から、ドアをノックして入室許可を得るという行動をすることはないが。

 施錠されていないドアは開き、


「えーなに、わざわざ起こしに来てくれたの。頼んでもないのに」


 気配を感じたアルドバルド子爵はいつもと変わらずのんびりとした口調ながら、拳銃を握り銃口をドアに向けていた。


「あの娘は?」

「はい?」


 リリエンタールが銃口を向けられて震えるような性格ではないことを、アルドバルド子爵もベックマンも知っているが、


「あの娘を、隠してはいないな?」


 ここまで無視するのも珍しい。


「あ、うん……多分。カミラ君、クローヴィス少尉、隠してないよね?」

「はい。室長からご命令を受けておりませぬので」

「うん。わたしも、そういう命令出してないよ」


 二人の答えを聞き終えるとすぐに主寝室を出ていき、他の部屋の家捜しを始め――


「それは夢だよ」


 人の気配がしない部屋まで踏み込み調べて尚、釈然としないといった表情のリリエンタールに、ガウン姿のアルドバルド子爵は、立ったまま淹れたてのコーヒーを手渡す。

 コーヒーを手にしたリリエンタールに「なぜクローヴィス少尉が居ると思ったのか?」と尋ねたところ「眠っているときに娘を見た」と言いだし――


「夢……か」

「夢と(うつつ)が混ざっちゃったんだね」

「そうか、夢なのか」

「どうしたの?」

「夢を見たのは初めてだ。そうか……」


 カップを持っていない方の手を額にあて、曖昧な表情を浮かべる。


「そっか、夢を見たの、初めてだったのか。じゃあ混乱するね。カミラ君、リヒャルトにコーヒーをもう一杯」


 三十八年生きてきて、夢を見たのは初めて――アルドバルド子爵はリリエンタールのことをまあまあ知っているが、夢を見たことがないというのは今日、初めて知った。


「はい。失礼いたします、リリエンタール閣下」


 リリエンタールはカップを持ったまま――


「とりあえず座ろうよ、リヒャルト」


 二人は食卓の椅子に腰を下ろす。


「朝食、ちょっと早めにできるか聞いてくれる?」

「わかりました」


 ベックマンは内線でフロントに連絡を入れ、昨晩注文した朝食を、出来るだけ早くに運んでくれるよう依頼した。


 昨日リリエンタールが、アルドバルドの定宿のホテルにやってきたのは、自分が外泊していたという記録を残すため。

 自宅前で執事に「あらぬ噂は厳禁」と言われたので、第三者の目があり記録が残る所へと向かったのだ。

 リリエンタールが通年借り上げているホテルの部屋もあるのだが、そちらは「お客様の情報はお守りします」というタイプで、情報が外へと出ないし、照会にも答えない。

 ホテルとしては立派で、安心して泊まることができるのだが、今回の場合はクローヴィスが訪問した日の、リリエンタールの痕跡を辿れるようにしておかなくては意味がない。

 その点このホテルは、そこまで個人情報を守りはせず、また営業の一環としてリリエンタールがやってきたことを客に語り、顧客に「良いホテルなのだな」と思わせるようなことをする。

 婚約が発表されたのち、下世話な記者などが調べたとき、ここに居たと分かるように――クローヴィスのことで頭がいっぱいのリリエンタールだが、先々のことを見据えた、適切な策を息をするように講じることはできる。


 朝食を早めにとフロントから伝えられた調理場だが、混乱は一切無かった。

 昨晩のうちに「リリエンタール閣下が宿泊するので、朝食を」と連絡が入っていたので、早朝でもすぐに対応できるようにと準備を整えていたのだ。

 リリエンタールが泊まったことを吹聴する以上、最善を尽くすのは当然のこと。


 朝食が届くまでの間、二人はベックマンが淹れたコーヒーを手に、今朝のリリエンタールの奇行について話す。


「君はクローヴィス少尉に会いたいんだね」

「会いたい?」


 夢に見るほどなのだから、会いたいという気持ちが溢れてのこと――多くの人間にとって普通のことなのだが、リリエンタールにとっては生まれて初めてのことで、理解が追いついていない。


「会いたかったんだろう? 昨日の晩」

「まあな。だが会いたいからといって、夢を見ることなどあるのか?」

「うん。わたしは、そんな感じで人を好きになったことないから分からないけれど、君は間違いなく、会いたいという気持ちが抑えきれなくて夢を見てしまったんだ」


 リリエンタールは飲みかけのコーヒーに視線を落とし、


「娘が笑っていたのだ。それは美しくてな」

「綺麗だもんね。昨日オペラハウスに来た時の笑顔も素敵だったねえ」

「ああ、とても……あの娘は会いたいと言って来てくれたのだが……わたしの欲求が言わせていたのだな」

「そうだね」

「はあ……わたしの欲求で動かしてしまうとは。あの娘を汚してしまった気分だ」


 まだセットしていないため、乱れている髪を無造作にかき上げる――常時、超然としているリリエンタールがそんな動きをするのを、ベックマンは見たことがなかった。


「虚しいといえば虚しいよね」


 夢の中で手荒く抱いたと言われたら、アルドバルド子爵も汚したに同意したが、聞けば「笑いながら”会いに来ました”と言ったことしか覚えてない。触った記憶もない」と――とても同意はできなかった。


「はあ……」

「いずれ現実にするんだろう?」

「もちろんだ。だが道のりが果てしなく遠い」

「早くしないと、他の男と結婚しちゃうよ」

「……」

「レイモンド君も言ってたでしょ。あれほど美しくて、自分があって、性格がよくて、更に言えば同期の男性士官たち、そろそろ昇進もするから結婚を考える頃だろ」

「あの娘が魅力的なのは事実だな」

「君ですら恋に落ちちゃうくらいだよ。若い男なんて、ころっと行くよ」

「お前の意見を否定できないのが辛い」

「全く言い返せない君というのも、珍しいね」


 リリエンタールはカップをテーブルに置いて、頬杖をついて目を閉じる。脳裏に浮かぶのは笑顔のクローヴィスだが、それは朧気で脆く――触れたら壊れてしまいそうだった。


 ベックマンから連絡を受け、急ぎ仕上げをし用意した朝食をワゴンに乗せたボーイが調理場を出ると、顔見知りの従業員一名とフロックコートを着用した二名、ダークカラーのスリーピーススーツ姿の八名が待機していた。

 スーツ姿の一団は大きな長期旅行用衣装ケースを押しながら。

 フロックコートの二名は、ボーイを明らかに見張っているのが分かり、少し居心地が悪かったが、止めてくださいと言うわけにもいかないので、黙ってワゴンを押し続ける。


”子爵と違って仰々しいな。一泊しただけなのに、長期旅行用の衣装ケース二つとか”


 ボーイは思ったが、リリエンタールの身分であれば、普通なのかもしれないと、すぐに思い直した。

 従業員は部屋の前まで。

 彼はリリエンタールの部下を部屋まで案内するのが役目だったので――フロックコート姿の一人が高額のチップを渡す。

 ボーイはアルドバルドの部屋へと入り、頬杖をつき目を閉じ険しい表情のリリエンタールを横目に、料理をテーブルに綺麗に並べて退出する。

 その際、人が二人くらい容易に入る大きな衣装ケースの側を通ったのだが、ぶるりと震えるほどの冷気が漂っているように感じられた。

 もちろんボーイとして振り返るわけにはいかず、また衣装ケースの側にいるスーツ姿の男たちが、まったくそんな素振りを見せないので気のせいなのかな……と。

 ボーイも部屋から出る時に、先ほど従業員にチップを渡していた人物から、高額のチップを渡され、そんなこともすぐに忘れた。


「戻りました」


 ボーイが下がるとフロックコートを着用し、チップを渡さなかった方が一歩前へと出る。


「無事でなによりだよ、イェルハルド。委細はあとで聞くね」


 アルドバルド子爵はナプキンを手に取り広げ、リドホルム男爵は元の位置へと下がる。

 今度は、さきほどボーイが冷気を感じた、長期旅行用の衣装を運んできたスーツを着ている男が一歩前へと出て、


【閣下、ヨハンナ・フォン・マイトアンバッハを持ってきました】


 深々と頭を下げる。

 リリエンタールは目を開けることなく、頬杖をついたまま手を動かし――報告した男が衣装ケースを開けると、冷気が一斉に溢れ出し、氷漬けになった女性の死体が現れた。

 リリエンタールはゆっくりと目蓋を開き、一瞥するとそのまま朝食を取るためにナイフとフォークに手にとった。


「どうするの?」


 アルドバルド子爵はクロワッサンをちぎって頬張り、オムレツにナイフを入れていたリリエンタールは吐き捨てる。


「台無しだ」

「ん?」

「せっかく娘の夢を見られ、起きてからも余韻に浸っていたというのに、アレクセイのせいで台無しだ」


 ヨハンナが殺害されていること、その遺体が隠されている可能性がある場所をルッツに教え、捜してくるように命じたこと、アレクセイが関わっていること――リリエンタールは全て知っていた。

 運搬用に氷漬けにされた死体を見せられても、なにも思わない――前日にクローヴィスに会って、夢を見ていなければ。


「そうだね」

「アレクセイめ、許さぬぞ」


 朝食を取り終えたリリエンタールは、身支度を調えると、氷漬けの死体とリドホルム男爵以外の者たちと共に部屋を出ていった。


「なぜ、あんなにもお怒りなのでしょう……か」


 残ったリドホルム男爵が尋ね、アルドバルド子爵から理由を聞かされ、頬を引きつらせた。

 食後のコーヒーをゆったりと飲んでいたアルドバルド子爵は、


「メッツァスタヤに告ぐ。我々はヴィクトリア・ヴァン・エフェルクから手を引く」


 新たな指令を下し――ロスカネフ王国を守るために、女王の座を降りるヴィクトリアを、女王が望むとおりに普通の女性扱いにすることにした。

 普通の女性とはすなわち、メッツァスタヤが守らないということ。


「御意」


 リリエンタールのあの態度を前にし、リドホルム男爵も同じ意見だった。

 メッツァスタヤの数は少ない。だから、守るべきものに優先順位をつける――それは王族のみに行われていたのだが、


「女王警備からは完全撤退するよ。クリスティーヌたちに気取られてもいい。むしろ気取られたほうがいいかもね。イヴ・クローヴィスについては王家の秘密よりも慎重に扱うよ。カミラ君、ソフィアの真似事は要らない。君の全ての能力をイヴ・クローヴィスに割いてね」

「はい」

「イェルハルド、ノルンバーグ(メッツァスタヤ)の全てをイヴ・クローヴィスに捧げるよ」

「御意」


 長きにわたり王家を支えてきたメッツァスタヤにとって、初めて王族以外の人間を最優先することが決まり、速やかに彼らは動き、その日のうちに女王の元を引き上げた。



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