【039】永遠、歌う
ガイドリクスがリスティラ伯爵夫人に狙われているので、その身を守るためにリリエンタールは策を講じた。
まずリリエンタールはガイドリクスが住んでいる城に出向いた。リリエンタールが訪問するのは珍しい。ほとんどはベルバリアス宮殿に呼ぶ形で済ませる。
だが全く足を運ばないわけではないし、なにより自らの居城に人を招くことをしないので、なにかを企んでいる者以外は「王族同士、話すこともあるのだろう」としか思わなかった。
部下を連れてガイドリクスの城に入ったリリエンタールは、出迎えのガイドリクスと共にまっすぐシガールームへ――シガールームは女性の立ち入りが禁止されているため、メイドに扮しているリスティラ伯爵夫人の溝鼠が近づくのを排除することができる。更に言えば下手に近づいていると目立つ。
この時期に目立つのはリスティラ伯爵夫人としては避けたい――もしかしたら、メイドの中に溝鼠はいないかも知れないが、わざわざそれを探し排除するより、聞かれないようにしたほうが効果的。
必死になって探るのを見越して手を打つ――
リリエンタールは持参した紙巻き煙草に火をつける。
「ガイドリクスの身辺は、ヴェルナーに任せる」
シガールームで椅子に腰を下ろしているのはリリエンタールとガイドリクスだけだが、室内にはリリエンタールが「同席させろ」と伝えた面々が全員並んでいる。
「分かりました」
ガイドリクスの身辺を公的に守るヴェルナー。
彼が側にいることでガイドリクスではないかと疑われるが、そこまで堂々と側にいるのかという疑問も出てくる。こういう場合は、姿を完全に消すだけではなく、いかに囮を上手く使うかが勝負の鍵になる。
「策だがガイドリクス、お前には平民……は無理であろうから、准男爵の息子くらいになってもらう」
「准男爵か……出来るか……」
礼儀として紙巻き煙草に火をつけているが、口元へ運ぶよりも指の間で弄んでいる時間のほうが長いガイドリクスは「続きを」と――
「お前はあまり重要ではないが、表には出しづらい外国からの公文書の翻訳のために、一時採用された……という役だ。今は国体変更後で忙しいから、一時的に人を雇ってもおかしくはない」
絶対王政から立憲君主に国体が変わったことで公僕は忙しく、書類によっては外部委託という手段を取っても不思議ではない状態だった。
「外国から公文書を取り寄せるのか?」
「そんな真似はせぬ。丁度よくアディフィン王国から、この度のお前とマリーチェの離婚に関する公文書が届いている。王族同士の離婚は、無駄に書類が多い。アディフィン王家からアディフィン語で書かれた文章だ。お前ならば難なく訳せよう」
もともとアディフィン語を使えたガイドリクスだが、アディフィン王女であるマリーチェを迎えてから更に磨いたことで、苦もなく使うことができる。
さらに王室宛の公文書翻訳に必要な知識も持ち合わせている――ガイドリクスとマリーチェの離婚に関する書類は、それなりに重要ではあるが最重要というほどでもなく、緊急性が低いので積まれている状態だった。
「それらの公文書があるのは、情報局だな……灯台もと暗しということか」
情報局の局長はアホカイネンという名だが、実際はアルドバルド子爵で人前に出ない局長として認知されている。
リスティラ伯爵夫人の敵とも言えるアルドバルド子爵が押さえている部署なので、子爵側の勢力が優勢。もちろんリスティラ伯爵夫人の配下も紛れ込んではいるが、旧諜報部のことなど知らない・属していない士官たちが大半を占めていた。
「そうとも言える。王族関連公文書であれば、ヴェルナーが取り仕切っていてもおかしくはあるまい」
情報局の大半、諜報の新勢力にあたる士官たちを動かせるのは、やはり士官。現時点で事情を知り、情報局を動かせるのはヴェルナーしかいなかった。
「そうだな」
「あとはお前の顔だが、厚くドーランを塗って、その美貌を隠せ」
「ドーラン?」
「舞台に立つ俳優や歌手などが顔に塗る、油性の練り白粉です」
舞台女優を母に持ち、オペラ歌手を父に持つヴェルナーが、不思議そうな声を上げたガイドリクスにメイク道具の一つだと教える。
聞いたガイドリクスは、ドーランについては分かったが、
「一時採用で白粉を塗った男が来たら、目立つであろう」
男がメイクをして出仕しては、目立ってしまうのでは? とガイドリクスとしては当然の疑問を投げかける。
「顔を変えるには仕方のないことだ」
「それはそうだが」
リリエンタールは二本目の紙巻き煙草に火を灯し――
「お前は顔に大きな痣があり、それを気にして普段は外に出ず翻訳の仕事に携わっている。家ではさすがにドーランは塗っておらず、だが気になるので長い髪で隠している……というのが大まかな設定だ」
「そうか」
「ヴェルナー」
「なんでしょう、リリエンタール閣下」
「情報局にはあの娘の同期で、仲の良い女性士官がいたな。その女性士官を情報管理責任者として配置しろ」
リリエンタールの言う「仲の良い女性士官」とはユスティーナ・ヴァン・スイティアラのこと。
彼女たちが入学した時に教官を務めていたヴェルナーは、女性士官が少ないこともあり誰のことかすぐに分かったが、
「はっ……あの娘とは誰のことでしょう?」
リリエンタールがクローヴィスのことを「あの娘」というのが気に障った。
その理由は分からないが――ヴェルナーはルース皇太子を蛇蝎の如く嫌う年代なのでそれなのだろうと。ヴェルナー自身、気に障った理由を深く追求しなかった。
自身の中で追求してはいけないという、なにかが動いたことに目を瞑る。
「下手に名を口にして、誰かに聞かれていては困る。だから、あの娘だ」
身分や階級を考えれば、かなり失礼な態度を取られたのだが、リリエンタールは気にする様子はなかった。
ヴェルナーは忌々しげな表情を浮かべ顔を背ける。
大枠を語り、まだ半分以上中身が残っているシガレットケースを置いてリリエンタールは去っていった。
その後、仔細を詰めてヴェルナーは用意されたタクシー馬車に乗り帰途に就く。
城に到着したのは午前中だったが、今は日が地平線に沈みかけていた。群青色と黒を混ぜたような色に染まりゆく空を眺めながら、ヴェルナーは”明日から忙しくなる”――思った側から笑いがこみ上げてきた。このところ、ずっと忙しかったことを思い出し、何を言っているのだと自嘲気味に。
”クローヴィスをか……”
ヴェルナーは負傷したクローヴィスをまだ見ていない。彼の記憶にあるのは、駅で会ったのが最後。
クローヴィスが負傷して帰国したことは聞いていた。
傷を見たガイドリクスが痛ましい傷だと言っていたが――
「どうせ笑って”頑張りました。名誉の負傷です”って言うんだろうな」
彫刻のようで、笑ったりしなさそうに見える顔だちだが、実際は表情が豊かなのをヴェルナーは知っている。
父親に正しく愛されて育てられ、士官学校に入学するまで一度も叩かれたことなどなく、
「中佐、なにか」
「なんでもない……いや、行き先変更だ」
ヴェルナーが軽く頭を叩いただけで、深みがあるが透き通っている大きなエメラルド色の瞳が潤み――人生で叩かれたのが初めてだったので、驚いてしまったと作った笑顔を作ったので、もう一度軽く叩いてやった。
二度目は「え? なんで? 泣いてないよ」という、驚いた表情だったのを――
「何故いきなり思い出したんだ」
すっかりと日が暮れ、少し肌寒さを感じる風が吹く中、ヴェルナーが乗っていた馬車が停まり――歌劇場の併設施設である、練習スタジオにやってきた。
「珍しいですね」
国内歌劇場の支配人や、職員とは顔見知り。
「大声を出したくてな」
「分かります。ストレス溜まると、叫びたくなりますよね」
「そうなのかもな」
忙殺されるだけではなく、洩らせない機密に触れることが増えたからだろう――ヴェルナーは歌った。
目を閉じて二曲ほど歌い大きく息を吐き出すと同時に、勝手にドアを開けて聞いていた、昔から顔なじみの支配人や職員やスタジオを借りて練習していた者たちが、一斉に拍手を送ってきた。
「何をしていやがる」
「いやあ。あまりにも見事で。もともとお前、怖ろしいほどに上手かったけど、声の艶と雰囲気が格段にあがった。円熟どころじゃねえ」
「そこまで本気で歌っちゃいないが」
「相変わらず、もったいねえなあ。声もそうだが、唯でさえいい顔が、とんでもなく良い男になってたぜ。なにを考えて歌ったら、あの悲恋の歌に相応しい表情になるんだよ。悲恋と無縁のお前がよ」
「はっ! 特になにも考えてねえよ。そんな馬鹿面で手叩くくらいなら、金でも払えよ」
「スタジオ代、無料にしてやるぜ」
歌っている時、なにも考えていなかった――ヴェルナーは自分にそう言い聞かせた。