【004】王弟、一度は諦める
北方司令部司令官キース少将が去った応接室で、ガイドリクスは深いため息を吐き出した。
「リリエンタール閣下が去った後のことを考えましょう」
深い皺が刻まれた五十過ぎの第一副官ヘルツェンバインが、ガイドリクスに言えることはそれだけしかなかった。
「まあ……そうなのだが、なにをすべきなのか全く思い浮かばないのだ」
「わたくしめもあの方を頼りにし過ぎていたことを、痛感しております」
「わたしもだ」
リリエンタールがロスカネフ王国へと招かれてから十年。
「実権など要らぬ。アドバイスはしてやる」 ―― リリエンタールは宣言通り方針を変えてはいないが、ロスカネフ王国そのものがリリエンタール中心に動くよう姿を変えた。
リリエンタールの優秀さは、そこに存在するだけで、彼が動きやすいようにと機構そのものを周囲の者たちが変えてしまう程。
「御本人は何一つ変えろと命じませぬが……かの才能を存分に生かせるよう、変えてしまいたくなるなにかをお持ちですからな。それが絶対君主という存在なのかも知れませんが」
ヘルツェンバインは専制君主制からもうじき立憲君主制に国体を変えるロスカネフ王国の有爵者。王弟であるガイドリクスの側近を長年勤めており、絶対君主に直接会う機会は何度もあった。
ガイドリクスの兄や父、そして現在即位している女王。ヘルツェンバインにとって自国の三人の王は確かに王なのだが、即位していない王と称されるリリエンタールはまるで違った ―― 王というよりは支配者、あるいは侵略者と表現したほうがしっくりとくる。
もちろん心に留めているだけであり、誰にも語ったことはない。
「ふふ……思い出すな。リリエンタールが来た当初、まともに一日八時間働かれて省庁がパンクしてしまったことを」
「あれは……実力の差というものを、嫌と言う程に見せつけられましたなあ……殿下、どうなさいますか?」
王弟の侍従を務めそして現在副官を務めているヘルツェンバインとしては、回顧を楽しんでいたいところだが、避けられない、そして早急に片付けなくてはならない問題は山積みであった。
「予定通りわたしが即位する」
国体の変更により政治に関与できぬと知ったセイクリッドが、婚約を結んだ際の取り決めと違うと異議を申し立ててきた。これに対し、王家は申し出を受け入れ婚約破棄が進められている ―― ただ国の象徴であろうとも、配偶者という支えがなければヴィクトリアがこの先女王を続けていくのは無理であった。
新しい支えとなる婚約者を用意するにしても「政治に関わることができない」という条件で「ヴィクトリアを支えることができる」王配を捜すのは難しい。
新制度のもと、女王を支え新たな王家を築けるような才能ある貴族の子弟……となれば、自らの才覚を世に知らしめたいと思うのが道理。
その支えが必要な女王が即位して二年、いままで女王を続けてくることができたのは、リリエンタールとガイドリクスの支えがあってこそ。
その支えである二柱のうち一柱が国外へと去る。
この先はガイドリクスが一人で女王を支えなくてはならないのだが ―― 女王に前向きな気持ちがなく、リリエンタールが国を去ったら退位したいと常々言っている。
「それに関して異論を唱える者はいないでしょう。なにせまだ女王制は根付いておりませんし、貴族社会においては男性上位はまだ根強い。ですが……それは専制君主国家においてのこと。まさか国体が変わってすぐに王家が議会を無視するわけには」
「ヴィクトリアを退位させる理由か」
ヴィクトリアはリリエンタールが万難を排し、揚げ足一つ取られぬよう整えられて即位した女王である。
更にヴィクトリアの退位は、どれほど急ごうとも国体変更後。となれば、退位も議会にかけられ承認を得なくてはならない。
議員への説得工作をするとして、どのように説得すべきか?
「まさか即位に協力してもらったリリエンタール閣下に、お頼みするわけにもいきませぬしな」
議員たちはリリエンタールが女王即位の際に説得した者たちが、過半数を占めることになるのは確実。女王即位に協力してくれた彼らを説得し、退位させるという仕事を、ガイドリクスが一手に引き受けなくてはならないが ―― 即位する王弟が姪の退位を議員に根回しするという図式は、誰の目にも簒奪に映る。
ガイドリクスとしては簒奪を疑われ、簒奪者と終生後ろ指を指される覚悟はできているが、議員たちが簒奪を良しとしない可能性は高い。
もとより議会は簒奪劇などが起こらぬようにするための機関であり ―― 女王ヴィクトリアが玉座を追われぬよう、リリエンタールが配慮した結果であった。
「ああ……」
だからこそガイドリクスはリリエンタールに、ヴィクトリアと結婚して欲しいと切望していた。
「もう一度リリエンタール閣下にお会いして、説得を試みますか? 殿下」
「そうしよう。国を出ると決めているのだ。どれほどしつこくしても、現状以下にはならぬであろう」
「では面会を申し込みます」
退位を望んでいるヴィクトリアだが、退位しても王族は王族であり、退位後も元女王として公務を避けては通れない。
だがヴィクトリアはそれすらも拒んでいた。
ヴィクトリアは生来、人前に出ることを苦痛に感じる性格。どれほど慣らしても、ストレスは溜まるらしく、最近は頓に精神が不安定でもあった。
「ヴィクトリアを妃にするつもりはないが」
ガイドリクスの面会を受け入れたリリエンタールは、訪れた彼に対し、退位し王籍を捨てたがっている姪と結婚して欲しいという申し出を、今まで同様に断った。
「そうか」
リリエンタールが築いた牙城を崩せるのはリリエンタールだけ ―― リリエンタールを大統領にするために、女王は退位し王籍を抜け「妃」となる ―― これは議員はおろか、国民誰もが納得する理由になる。
キース少将も話を聞かされた時「陛下の退位、臣籍降下の理由として、これ以上完璧なものはないでしょうな」と答えた程。ただし彼の答えには続きがある。
『ですが参謀長官閣下になんの利点が? 参謀長官閣下と陛下が愛し合っているのであれば、まあ臣下としては腹立たしくはありますが、同意いたします。ですが、現状二人には何の感情もありません。陛下は退位と臣籍降下が叶うので頷くかもしれませぬが……我が国の女王すら務まらず逃げたいと嘆かれる陛下に、あの参謀長官閣下の妻は務まらぬと進言させていただきます』
歯に衣を着せぬ部下の意見に、ガイドリクスは頷く以外の返事を返すことはできなかった。
今ガイドリクスの目の前にいる、杖に両手を乗せて座っているリリエンタールは、執務に必要だろうと王家が貸し出したベルバリアス宮殿の主に相応しい風格であった。
内装は一つも変えてはおらず、調度品の類いもそのまま使用しているにも関わらず、違和感というものは全くない。
歳月を経て馴染んだものではなく、ベルバリアス宮殿にリリエンタールが足を踏み入れたその時から、この宮殿は頭を垂れた ―― 生まれついての支配者とは、こういうものなのかと、ガイドリクスは故人となった兄と共に息を飲んだことを今でも昨日のことのように、鮮明に思い出すことができる。
「あっさり引くのだな、ガイドリクス」
「策がないのだ、引くしかあるまい」
「そうか」
リヒャルト・フォン・リリエンタールを国内に留める手段は、ガイドリクスには残っていなかった ――
「リリエンタール。最後なので聞かせて欲しいのだが」
「なんだ?」
「お前の好みの女を知りたいのだが」
問いにリリエンタールは眉間に微かながら皺を寄せた。
「好みの女を捜し出し勧めるつもりはない。純粋に知りたいだけだ。お前の心を射止められる女とは、一体どのような者なのだろう」
「そうか。では答えよう。わたしはまだ会ったことはない」
リリエンタールの答えはガイドリクスにとって、意外なものであった。
「会ったことはない? それが好みなのか」
「そうだ。わたしは無欲でもなければ、無害でもない。自分の好みの女がいたら、金と権力にものを言わせ囲い込む性質であると、自身を分析している。だが今までそう思わせる女はいなかった。だからわたしも知らない。まあこの地上には居ないのかもしれないが、それはそれで悲観はせぬよ」
そう答えたリリエンタールの瞳には、一切の感情がないことはガイドリクスにも分かった。
「そう……なのか。肌を合わせた相手に、情を持ったこともないのか?」
「ないな。もしかしたら、そのような感情が欠落しているのかも知れないが、それで困ったこともないし、わたしに感情がなくても誰も困らぬであろう」
「わたしが困っている。お前の好みに合ってくれれば……誰とは言わぬが」
「それは失礼した」
二人とも目を閉じて乾いた小さな笑い声を上げ ―― この話は終わった……筈だった。