【035】青年、一晩泊まる
当初は妾として迎え入れられる筈だったクローヴィス。
妾である以上、本邸ではなく邸に囲われ――その妾宅の執事を任せられる予定だったのはサーシャ。
妾というのは不確かな立場で、関係が終わった後はなにもない――だがリリエンタールは一応その後も考え、財産を持ったジークハルトというサーシャが演じる一人を与えようとしていた。クローヴィスに飽きる前に自身が急死した場合もサーシャが引き継ぐ。
それらの手続きは速やかに行われ、クローヴィスを正式に迎えると決定する前に、サーシャはすでに一財産を与えられていた――王としてはこれ以上ないほどの優しさを持った配慮で、聞かされた者たちは「あの若くて美しい娘を気に入っているのだなあ」と。他にも「サーシャのことは、気に入っているのだな」とも――気に入った部下に愛妾を下げ渡すのはあること。
リリエンタールが人生で初めて気に入った娘を、下げ渡す先に選んだのがサーシャ――一般人の感覚では、このような形で気に入られているというのを表現されるのは甚だ困るのだが、「陛下」「殿下」「貴賤」「摂政」「寵臣」「寵妃」「公妾」などという言葉が生きている世界に身を置いている以上、避けては通れない。
サーシャは根が庶民なので「愛人を囲う」という行動そのものから思うところはあったが、貴人たちが言うように、愛妾にそこまで配慮、補償して迎える王というのは珍しいことは理解していた。
サーシャはこの短い間だけだがクローヴィスと接して嫌いではないし、一緒に生活していけるとは思ったが、自分の裏側を考えるとクローヴィスに悪い気がした。
クローヴィスという人間は、当人と同じく裏側のない人間と暮らしたほうが幸せになれるはずだと。
なのでリリエンタールがクローヴィスを后にすると言ったとき、妾にされなくてよかったなと思うも、リリエンタールの正式な妻というのはどうなのだろう? とも思ったが――なんとなく「クローヴィス」なら何とかできるかもしれない……と、サーシャ自身驚くほど楽観的な回答が自分自身に返ってきて驚いた。
そんなクローヴィスは、サーシャが忙しさから少し目を離した隙に「見合いなんです」と知らされた時は焦り、とりあえず見合いを潰すべく、自分が調査を任せられていた一件を急遽クローヴィスにふり、リリエンタールに報告後急いで準備を整え、後を追った。
”イルガに到着してからが大変なんだよなあ”
クローヴィス隊は軍として作戦行動を取っているため、イルガの先、ロスカネフ王国の果てまで軍用路線を使用できるのだが、サーシャはその路線は使えない。
サーシャが正規のロスカネフ軍人ではないこともあるが――
「待ってたぞ、サーシャ」
「人違いでございます、司令官閣下」
北方司令部を守る司令官キースが、易々と通してはくれない。
「俺が見間違うとでも」
出来ることなら気づかれずに通過したかったのだが、残念ながらキースは仕事ができ目端が利く男なので、こういったことを見逃すようなことはない。
クローヴィスは運が良かったのか悪かったのかは不明だが、会議中だったキースに直接会うことなく、鉄道責任者に書類を提出して目的地へと急いだ。
階級的に少尉でしかないクローヴィスと、少将のキースは直接会うことはないが、指令書のサインがガイドリクスと、不可解な動きをとるリリエンタールともなれば、キースも気になる。
更に言えば部隊を率いていたクローヴィスは、元来王弟の部下ではあるが、周囲の話を聞く分には「武の人」そのもの――鉄道責任者から「調査に向かうそうです」との報告があり、命令書もそうだが、今まで一度も調査任務についていなかった士官を、いきなり隊長として調査に向かわせるか?
答えは「否」――王弟やリリエンタールの元には、クローヴィスよりずっと調査に適した人間がいる。それを使わず士官をいきなり向かわせたということは――後から本命が隠れて通るとキースは読んだ。
通常であればキースの読みは正しいのだが、今回ばかりは読みは外れたが――完全に外れたわけでもない。本来ならばこの任にあたる筈であり、キースの見立てで本命にあたる人物を、軍用車両基地近くで捕捉した。
「わたくしはサーシャではなく」
”サーシャですけどね”と内心で呟きながら、被っている帽子に手をやり顔を隠すように動かす。
「ほぉ、俺の知っているサーシャではないと? では一晩お相手願おうか、美しいお嬢さん」
”女性を誘う顔じゃねえ。二人きりになったら殺されそうな表情だ……けど、女性にはそうは見えないんだよな”
サーシャは暗すぎず明るすぎない上品なモカ色のテーラードワンピースを着ていた――要するに女装していた。
サーシャは背が高く肩幅もあるが、それらに違和感を持たせないほど見事な「女性」を演じることができる。
むろんこの時代、女性の一人旅は目立つので、地方都市イルガに来るまでの蒸気機関車内では男性の恰好で、イルガ到着直前に一等車両内で着替えて、駅員に見られることなく車両を後にした。
女装した理由は単純でキースの目を欺き、近づかれないようにするため。
キースは女性を惹きつける、当人には全く無用どころか持て余す特殊能力のようなものを所持しているので、自分から女性に近づくことはない……と踏んでのことだったのだが、
「…………よく分かりましたね」
キースの目を誤魔化すことはできなかった――
「それはな」
「結構、女装に自信あるんですけど」
サーシャが言う通り、この変装をして雰囲気を変えている時、普通の人間に見破られることはまずないので、それなりに自信を持っていたのだが、結果は手袋を脱いだキースの手が、長袖をまくった腕をしっかりと握っている。
何も知らない観衆からすると、それは目を離せなくなるような情熱的なシーン――男が素手でたくし上げた女性の腕を掴むなど、この時代、外でするようなことではない。
実際は袖を破いて拘束から逃げられないようにするためのことで、腕は軽く捻りを入れられており、下手に逃げようとすると肘関節が抜ける状態。
危機的状況ならば肘関節など犠牲にして逃げるサーシャだが、イルガ一帯はキースの領域――逃げ切れる自信があまりない。
なにより、肘関節を抜いたら直後に殴られて立てなくなる可能性が高い――サーシャも格闘の腕に覚えはあるのだが、キースもこうして護衛を連れないで一人歩きしても「仕方ないけど、腕は確かだからな」と部下が認めるほど。
反撃もできるが、下手に司令官に怪我を負わせたら、公権力で正式に身柄を拘束されることになる。
普段であればそれでも、リリエンタールの威光で逃げ果せることが可能なのだが、キースにはそれがきかない。
だから腕を解くわけにもいかず――嫌でも人目を引く司令官に情熱的に引き留められている姿をさらし続けるのも辛い。
目立つのは諜報員にとって、もっとも避けたいこと。
もちろんキースはそれを知っているので、女性が悲鳴にしか聞こえない歓声を上げる微笑み――男性のサーシャからすると「止め刺しにきてるやつ」にしか見えない表情で、耳元に唇を寄せ、
「ヒースコートのように言うなら、俺に気づいていながら見つめてこない女はいない……だ。もちろんそれ以外の理由もあるが」
言われたサーシャも納得するしかない理由を教えてくれた。
「男のままで来たほうが良かったかな」
「女装していなかったら、殴って独房にぶん投げる。女性の恰好をしているので、万が一間違いがあってはいけないから殴らなかった。判断としては間違ってなかったな。もっともイルガに来たのは決定的な間違いだが」
”この人本当にやるんだよな”
サーシャはキースに腕を引かれ――半分腕を捻りあげられながら、車両基地へと連れていかれ、キースは無線室から司令本部に「リリエンタール宛て」に、
「連合軍総司令官閣下の身辺が安らかなこと、アーダルベルト・キース、嬉しく思っております」
察しのよいリリエンタールならば、キースがサーシャを捕まえたことをすぐに理解できる文面の無線を入れ、回すよう指示していたタクシー馬車に乗せられ、キースの官舎へと連れていかれた。
キースは北方司令部の司令官として赴任してから五年ほど経っており、その五年間この官舎に住んでいるのだが、
”言えた義理じゃないけど、昨日越してきたみたいな家だよなあ”
司令官が住むのに相応しい造りの家は、人が住んでいないかのような傷み具合。室内の空気は澱んではいないし、清掃も行われているようだが、とにかく人の住んでいる気配がなく、まだ冬ではないのに凍えるような寒さをサーシャは感じる。
「着替えて一緒に食事にいくか? それとも着替えないで一緒に食事に行くか?」
玄関ホールに足を踏みいれてすぐに、キースから提案され、
「別々に食事を取るという選択肢は」
「ない」
「……では着替えます」
キース避けで女装していたのだから、それに失敗したら女装している必要はない。
着替えようと自分の鞄に手を伸ばしたサーシャだが、それを蹴り飛ばされ――
「服に色々と仕込まれていると困る。着るなら俺のにしろ」
「仕込んでいますけれど、逃げませんよ」
諜報員のあらゆる装備に精通しているキースは、そう簡単には鞄を開けさせたりはしない。
サーシャは諦め気味に素直に従い、
「男の着替えを見る趣味ないんだがな」
「申し訳ありません。でも逃げないといっても、信じてくださいませんよね」
「お前を信用するほど俺は優しくはないな、サーシャ」
「わたしとしても、あなたがそんなことを言い出したら、何らかの病だと思いますが」
広いクローゼットでキースの私服を物色し、白のワイシャツにワインレッドのアスコットタイ、ダークブルーのベストと揃いのサイドベンツの背広に、革靴を借り――化粧を落とした。
「色合いが違うのもあるが、若いお前には似合わないな」
「なにを仰います。充分若々しいですよ。むしろ昔より若い感じすらします」
「気持ち悪いこと言うな。行くぞ」
大人しく近くのレストランへと足を運び、アンチョビポテトサラダと、チーズの盛り合わせにサーモンのグリルにウォッカを一本注文した。
「奥方さまがロスカネフ王国からいなくなって、気が楽になっただろう」
料理が並べられ、乾杯する間柄ではないのだが、レストランで食事をしながら、乾杯をしないのも不自然なので、二人は白々しく乾杯し――ウォッカが注がれたグラスを片手に、キースが話し掛けてくる。
「そうですね。閣下はまだまだ気が抜けないでしょうが」
「誰のことを言っているのやら」
会食のように上品に酔いが回らないようにウォッカを飲みながら、当たり障りのない話を続ける。
キースはサーシャがなぜイルガにやって来たのかについて、一切聞かない。
「聞かれはしないと思いましたけれど」
料理が八割方片付き、二人で飲んでいるウォッカの瓶も六割ほど空になり――
「答えはしないだろう? むしろ答えたら容赦しない。あの人を裏切るような真似をすることは許さない」
「大嫌いなのに?」
「ああ、嫌いだ。この世の誰よりも嫌いだ……だが…………全く自分が面倒で嫌になる」
「でしょうね……」
サーシャとしては、キースがリリエンタールのことを嫌う理由も分かるし、同じくらい信頼している気持ちも分かるので、なんとも言い難い。
「答えられる範囲でお答えしますが」
「要らん。足止めが最大の邪魔だろうからな。お前、急いでるんだろう?」
「……なんでバレるかなあ」
「嫌に従順だからだ。余程大事な用事があるのだろうな」
「分かっているのなら、解放していただけませんか?」
「命令主によるな。殿下ならば北方を預かるわたしに、命令を開示してくださるはずだが、お前はわたしに命令の委細を教えてくれるのか?」
「……解放は諦めます」
”相変わらず食えないし、折れないし、譲ってくれない上に強いし……ほんと、捕まると厄介だよなあ”
そう思いながら酒に口をつける。
「わたしも忙しい身の上だ。ずっとお前を監視できるわけじゃない。明日になったら好きにしろ。今日はわたしの家に泊まれ」
「お言葉に甘えます」
サーシャはレストランでパンやバター、ハムやマリネなどを買い込み、廃墟一歩手前のような家の、客間という名の開かずの間の封印を解いて一晩過ごし――翌朝、キースが目を覚ますと朝食と新聞がテーブルに用意され、サーシャの姿は既になかった。
テーブルにはメモが残され、女装道具一式を置いていくのでどこかの施設にでも寄付してくださいと記されていた。
「飯を作ったのなら、コーヒーも淹れていけ。気がきかないな……ああ、そうか」
メモを片手にピンチョスを口に運び、呟いてキースは思い出した。この家にはコーヒー豆などなかったことを。




