【032】イヴ・クローヴィス・06
普通の人間なら食事の味が分からない……と、昼餐後に疲労感とともに呟くような昼餐は今だ続いている。
「腹の底を見せぬお前に問うのもばからしいが、跡取りはイェルハルドにするつもりか?」
アルドバルド子爵は白身魚を切り分けていたナイフを止め、
「君に言われたくないなあ、リヒャルト」
「何が?」
「わたしは君がイヴ・クローヴィスと結婚するために戻ってきた……というのを、信じてはいないよ」
息子のヤンネどころかガイドリクスやヒースコート、果てはリリエンタールですら見たことのない表情だった。
「本当のことなのだが」
「誰が信じると?」
「わたし自身」
「リヒャルトの本気なんて、誰も見たことないから、分かるわけない」
「いまお前の目の前にいるわたしが本気だ」
「話が通じないとかそういうのじゃなくて……なんとなく楽しそうなのは分かるんだけど、それが本当にクローヴィスを得る楽しさなのかどうかが、見極められないんだよねえ」
アルドバルド子爵がそう言うのも無理はない――
彼は楽しげであることは感じ取れたが、その楽しさが気に入った娘に対する感情だと、信じられるほど無邪気な男ではない。
そういった点においては、ボナヴェントゥーラ枢機卿のほうが信じやすい――枢機卿の場合は、リリエンタールに裏切られる覚えもなければ、自分が裏切ることもなく、自分が裏切らないことをリリエンタールも知っているので、疑う必要がない。
そこに至る信頼は色々あるが――核となる部分は二人にしか分からない。
「あとでイェルハルドを寄越せ。ウラジミール宮殿侵入ルートと、入国ルートを教える」
「さすが最後の専制君主。こっちの話を全く聞いてくれない」
「お前は話をはぐらかすのが得意だからな」
「言い返せないのが辛い」
辛いと言っている割に、アルドバルド子爵の表情は柔らかで、ヤンネには本当に笑っているかのように見えた。
「ウラジミール宮殿の隠し通路込みの図面は用意した」
「え? 盗んできたの?」
ウラジミール宮殿はルース皇帝一家が住んでいた部屋数900以上の大宮殿。
大国に相応しい大きさと壮麗さは圧巻だった。ウラジミール宮殿は二十年ほど前に主を失ったのだが、彼らを追い出した共産連邦の幹部たちはウラジミール宮殿を党本部とし使用している。
元々ある立派な建物をそのまま使うのは、珍しいことではないし、文化財が破壊されなくて良かったという面はあるのだが、防衛という面では些か怪しかった。
宮殿内部を知る過去の持ち主を全員取り込むか、全滅させられていれば良かったのだが、かなりの数を取り逃がし――その中でも最も危険な男が野放しになっていた。
「描いた」
「どうやって?」
「わたしが図面を描いた」
それでも使用しているのは、施工図など間取りが分かる図面全てを彼らが手中に収めているから――部屋数900以上の宮殿ゆえ、図面がなければ分からないだろうと判断してのことだったが、皇女の婚約者だった頃、長期休みの都度リトミシュル辺境伯爵やフォルクヴァルツ選帝侯、ボナヴェントゥーラ枢機卿などと共に訪れていたリリエンタールは、全ての部屋の並びを覚えているだけではなく、隠し通路なども、教えられ記憶していた
リリエンタールはそれらの隠し通路は自分が皇帝になった際には塞ぐつもりだった。だが彼は皇帝にはならず、隠し通路は公式な図面には記載されてはいない――口頭継承のみで、リリエンタールに教えた人物はルース帝国崩壊時に、殺害された。
その人物は爵位を持たない貴族だったので、指揮官クラスの人間も重要人物だとは分からなかった。
「……リヒャルト。君、図面描けたの?」
「描いてみたら描けた」
「さすが天才だね」
「入国ルートだが、三つある。死ぬほど辛いが絶対に兵士に見つからない第一ルート。辛くて水死の可能性が少々あるものの、ほぼ兵士に見つからない第二ルート。兵士をなぎ倒して進む第三ルート。イェルハルドの能力からすると、第三ルートがいいとわたしは考えている。まあルートに関しては、お前が選べフランシス」
「イェルハルドは撃ったり切ったりは、得意じゃないんだけど」
「第一ルートはレイモンドならば普通に踏破できる」
リリエンタールの背後に礼服姿で控えていたヒースコートが一歩進み出て敬礼し――
「会話に割り込ませていただきますが、小官でも楽勝ではないということは、あのイェルハルド卿には無理かと」
”止めておけ”と言外に告げ、ヒースコートは元の位置へと下がる。
「そうだね。ちなみに第二ルートを詳しく言うと?」
「共産連邦と国境を接している某辺境伯領を必ず通らねばならない故、もれなくその国の軍務大臣が付いてくる」
「イェルハルドに彼を振り切るのは無理だね。わたしも振り切れないけどさ。彼を振り切れるのって神聖帝国の外務大臣くらいだよね」
「外務大臣が軍務大臣を振り切っている姿を見たことはないがな。逆もまた然り。だがフランシスの言う通り、そうだろうな。そうは言ってもイェルハルドには若さがあるから、軍務大臣より体が動くかもしれない」
「それは絶対にないね」
アルドバルド子爵はそこを見誤ることはない――
「そうか」
「ところでサーシャはどこ?」
「イヴァーノを迎えに。ロスカネフ国内に怪盗坊主を放置するわけにはいかないからな。正確には怪盗坊主は訪問してはいないが」
”どれほど動きが速いんだよ、リリエンタール。いつの間に? 速攻が得意とは聞いていたけど……出遅れたなあ”
諜報部の名折れだとヤンネは反省するが――帰宅後「あれは気づかなくても仕方ない」とアルドバルド子爵から言われ、それほどの一大事だったのだなあと思うと同時に、次々と下される命令に震えることになる。
「…………第二ルートを選ぶと、絶対に軍務大臣に捕まるね」
今から急いで用意して第二ルートを使用して共産連邦に向かうと、そこには「ほぼ事情を知っている軍務大臣」が居ることにアルドバルド子爵は気づく――リトミシュル辺境伯爵はリリエンタールが共産連邦に誰かを派遣することは想定していることも分かる。
「そもそもあの第二ルートは、軍務大臣の領地からルース帝国にいかに上手く攻め込めるか……を検証した結果だからな」
”ルート筒抜け! でもこの二人……おそらくフォルクヴァルツ選帝侯もかんでいるだろうから、ルートそのものは確実……となると、父上はきっと第二ルートを取るな”
リドホルム男爵の身体能力を考えると、それがもっとも無難――精神面に関しては考慮されないことを、ヤンネは身を以てしっている。
「共産連邦の書記長室に侵入するより、辺境伯領を抜けるほうが大変じゃないか」
「イェルハルドは跡取りなのであろう? せめて軍務大臣とやり合うことくらいできなければ、長は務まるまい?」
「スパルタだねえ。わたしも結構スパルタだったけど、君には及ばないなあ」
「そうか? わたしとしては、随分と優しいつもりだぞ。わたしがあのくらいの年の頃には、もう…………なにもしていなかったが」
”あんたその頃もう、四大陸の覇者だったよ! ……多分。イェルハルドの年齢はっきり分かんないけど”
「面倒を押しつけるつもりだね? リヒャルト」
「だからお前を召喚したのだ。ロスカネフでもっとも面倒な男を呼ぶ理由など、それしかなかろう?」
「美味しいフルコースだから誘ってもらったと思っていたよ。相変わらずジャン=マリーの小鳩のローストは絶品だね」
「そうだな。鳩は火の通し方を間違うと、ぱさついて食えたものではない。もちろん出されたら食べるが……どうした? フランシス」
アルドバルド子爵は食べている途中にも関わらず、ナイフとフォークを行儀悪く取り落とし、身を乗り出して尋ねる。
「料理の味を語る君とか信じられない……イヴ・クローヴィスとは一緒に食事したの?」
「した」
「二人で食べる食事は、やっぱり美味しいもの?」
「フランシス。気に入った娘を前に、料理の味を堪能できるほど、わたしは器用ではないし、剛胆でもない」
リリエンタールの告白を聞いたアルドバルド子爵の笑いが収まるのに、三分ほどの時間を要した――