【031】イヴ・クローヴィス・05
「考えても無駄なことは、考えないことにしてるんだ」
リリエンタールがロスカネフ王国に引き返してくるのは確実――その知らせを受けたアルドバルド子爵は、リリエンタールがなにをしようとしているのかを探ることを放棄した。
「よろしいのですか?」
「どうにもならないからね。情報を手に入れてなにかできる? わたしには無理だね。情報を集めて対処できるというのなら、してもいいよ」
アルドバルド子爵と共に報告を聞いているリドホルム男爵とヤンネも、同じ意見だった。
「リヒャルトが世界征服の第一歩としてロスカネフを選んだとして、誰も勝てないし。共産連邦に属領になるから、兵力貸して戦って! って頼んでも、あっちだって受けてくれないよ」
この場にいる諜報員たちは戦争に使える情報を集めることは得意だが、それらを使って作戦を立てて実行する能力は持ち合わせていない。
「ロスカネフの港と引き替えにリリエンタール伯爵と死闘……割が合わないな」
リドホルム男爵も軍事について詳しくはないが、百万の国籍も言葉も違う連合軍をまとめ上げ、同一言語で同一民族で構成された精強な数個師団を易々と撃破してきたリリエンタールとことを構える餌が小国の海岸線では――
「まだ侵略しにきたと決まったわけでは」
「それ以外の理由のほうが怖いよ、ヤンネくん」
アルドバルド子爵にそう言われると、ヤンネも「そうだよな」と同意の言葉しか出てこなかった。
「理由が分からないのがもっとも怖い。まあわたしたちには、対処のしようがない軍事の天才のことは終わり。で、ルカ・セロフが何処にいったか、掴めた?」
アルドバルド子爵は本当にすぐに切り替え、先日、息子たちの前に姿を現したルカ・セロフについてなにか情報は集まったか? と聞く。
情報収集を専門に担当している男は首を振り――
「分かってはいたけどね」
どこにでもいる平均的な男にしか見えないルカ・セロフを見つけるのは、至難の業。先日、あの姿を見たリドホルム男爵が「ルカ・セロフ」と見破っただけでも、称賛に値する。
「わたしとヤンネで追いましょうか?」
血筋はどうであれ、メッツァスタヤの跡取りとして育てられてきたリドホルム男爵やヤンネは、他の諜報員とは比べ物にならないほど注意力や洞察力が優れている。
「止めておく」
ただ諜報員としての能力は優れているのだが、荒事に関しては父親譲り。唯一、父親と血の繋がりはないが息子として認められているオースルンドは、撃ったり蹴ったり殴ったりが出来るが、それも突出しているわけではない。
対するルカ・セロフは身体能力にも優れている――と、されている。
はっきりとした根拠はないが、身体能力が低いと侮り捕らえられ、口を割らされるくらいならば警戒した方がよい。
「わかりました」
リドホルム男爵もすんなりと引いた。
「リヒャルトが来るらしいから、聞いてみるよ」
「分かるのでしょうか?」
「どうだろねー。本物のルカ・セロフのことなら分かるだろうけれど、あれは偽物だからねえ」
**********
メッツァスタヤの中核が、情報にもならない情報を前に、そんな話をし――リリエンタール一行を乗せた特別編成車両がロスカネフ王国中央駅に到着した。
「おや……当然か」
蒸気機関車を降りたヒースコートは、異質な視線に気づきそちらをうかがうと、難しい表情の駅員――クローヴィスの弟、デニスがいた。
デニスの視線の先には、出張用の鞄とリリエンタールに託された箱を持ったクローヴィス。彼の視線は額に貼られた大きなガーゼに釘付けだった。
”家族に心配をかけたくないから、傷が完全に塞がってから実家に帰ると言っていたが……無理だろう”
箱に意識をとられているクローヴィスはデニスの視線に気づかず――
「どうなさいました?」
腕を組み、周囲に注意を払っているはずのヒースコートが、随分と楽しげに笑っていたので、彼の副官が声を掛けた。
「いや。楽しくてな」
ヒースコートの副官はその台詞を「リリエンタール閣下がなにかしようとしているのだろう」と判断し、それ以上は聞かなかった。
副官の判断は当たっているが――
**********
リリエンタールはロスカネフ王国の国境を越えてすぐに、アルドバルド子爵とガイドリクスに「帰国後すぐに面会を希望する」と連絡を入れていた。
ガイドリクスは急ぎ、第一副官であるヘルツェンバインと第二副官のオースルンド――に成りすましているヤンネを伴い面会できるよう、予定を調整した。
ヤンネとオースルンドが入れ替わっていることは、ガイドリクスも聞いている。入れ替わりの理由については「任務中の負傷」だけで、詳しいことは知らないが、王族とその影は、そのくらいの距離があって然るべきこと――気にならないといえば嘘になるが、復帰したオースルンドに尋ねることはないだろう。
なにせ彼は傷病休暇など取っていないし、いつもと変わらず任務に就いているのだから。
リリエンタールの帰国翌日、まだリリエンタールが持ち主になっているベルバリアス宮殿にて昼餐を取りながらの面談――クローヴィスに見送られたガイドリクスは、馬車に乗り込み司令本部を出る。
「怪我をさせないようにしてくれと伝えなかったわたしが悪いとはいえ……嫁入り前の娘の額にあの傷は」
一緒に馬車に乗り込んだ二人を前に、ガイドリクスは両手で顔を覆い俯く。
王族は頭を下げてはいけないだの、顔を無闇に隠してはいけないだの、様々な制約があるが、この二人の前ならば、落ち込みを素直に表してもいい。
「あの傷に対する謝罪でしょうかね?」
ヘルツェンバインは「そんなことはないでしょうが」と柔らかながら、ガイドリクスを慰めるような声で話し掛ける――リリエンタールが庶民の傷如きで謝罪するなど、あり得ないことだと知っているので、少しばかり場を和ませるつもりでしかない。
ガイドリクスも分かっているので――顔を上げて、困ったように微笑む。
「謝罪か……それはそうと、ネグリジェをプレゼントされたことに関して、どのように受け取るべきだと考える?」
傷は「軍人として当然のことをしたまでです!!」と報告してきたクローヴィスの意見を尊重するが、ネグリジェは謝罪の品にはならない。
ガイドリクスにそう言われたクローヴィスは、相手が貴人ゆえになにも発言しなかったが「やっぱり、そうなんですね」という表情になっていたのを、三人は見逃さなかった。
「あの人の今回の行動は、父も匙を投げるほどですので」
ガイドリクスの隣にオースルンドとして座っているヤンネが、無難に答える――どれほど考えても、ロスカネフ王国に戻ってきた理由が分からなかった。
そのままガイドリクスたちは「暇な有爵貴族将校軍人」という枠でやってきたアルドバルド子爵と合流し――リリエンタールとガイドリクス、そしてアルドバルド子爵の三人が昼餐の席につく。
もちろんここまで、挨拶もなければ説明もなにもない。
王族の昼餐ゆえ、緊張感があってもおかしくはないが、ここまで張り詰めているのは、戦火を交えている国の首脳同士でもそうそうないだろう――ヤンネはそんなことを考えながら、周囲の気配に注意を払う。
”おや? 給仕がギュンターじゃない……昨日の夜は確実に居たのに……どこに行った?”
重要な会食の給仕は、このところずっとサーシャが務めていたのだが、その姿がないことにヤンネは気づく――室内に入ってすぐに解るのでは? と思われるかも知れないが、サーシャは雰囲気を変えて別人になりすます能力を持っているので、瞬時ながらも「時間をかけて」見極める必要がある。
ヤンネが見る限り、サーシャは室内にはおらず、給仕は執事のド・パレ――
ガイドリクスが運ばれてきた食前酒に口を付けたところで、リリエンタールが前置きなく告げる。
「あの娘を正式な妻として迎える」
ガイドリクスは食前酒に口を付けぬままテーブルに戻し、
「あの娘とは誰のことだ? リリエンタール」
根本的なことを尋ねる。その時ヤンネは執事の「だからさー」と言いたげな表情と、ヒースコートの満足げな笑みを確認したが、真意まではたどり着けなかった。
「あの娘とはイヴ・クローヴィスのことだ。お前の第三副官を務めている、あのイヴ・クローヴィスだ」
”解ったな”とばかりに、リリエンタールは食前酒を流し込む。
「………………」
ガイドリクスは帰宅後、あの場でおかしな声を上げなかった自分の自制心を称賛する――あまりの衝撃に呆然としていたような気もするが、とにかく王族らしからぬ声を上げることはなかった。
聞いたヤンネはヘルツェンバインと顔を見合わせ――ヤンネはガイドリクスの第三副官イヴ・クローヴィスと一緒に仕事をしたのは、今日が初めて。もちろん必要事項は頭に入っている。
”あれ? 第三副官は庶民だったよな? たしか庶民……いやまあ、見た目は芸術品だけど、そういうの愛人にするだけだよな?”
ヤンネの混乱はほぼ全ての人と同じ――
一切和まない場の空気に負けることなく、ガイドリクスは再び食前酒に手を伸ばし、
「まあ……そうか。リリエンタールの好みはクローヴィスだった……ということでいいのか?」
今度は口へ運ぶ。
アルドバルド子爵は既に飲み終えており――表情はいつも同様、なんとなくうっすらと笑っているようだったが……アルドバルド子爵が本当に笑っているのかどうか? ガイドリクスに見分けはつかない。
「そういえば、そんな話もしたな……おそらくそうなのだろう」
「おそらく……か」
他人事のように呟くリリエンタールに、ガイドリクスは王族らしい曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「わたしは親戚の類いが煩いので、片付けるまで公表しない。というわけで、防諜しろ、フランシス」
オードブルの仔牛のテリーヌを楽しんでいたアルドバルド子爵は、
「わたしたち、これでも一応、ロスカネフ王家にしか従わないんだけど」
引き替えになにをくれるの? と――絶品の仔牛のテリーヌを全く楽しんでいないリリエンタールは、視線を合わせることなく言い放つ。
「欲しいものを言え、フランシス。ロスカネフ王国の繁栄、クリスティーヌの排除、共産連邦の懐柔。その他なんでも言うがいい」
「それから一つ選べとかじゃなくて?」
「お前は存外、控え目なのだな」
「えー知らなかったの? 長いつきあいなのに、悲しいなあ」
オードブルを食べ終えたアルドバルド子爵は、白ワインを所望し――
「興味がなかったものでな。今でも興味があるのは、あの娘だけだが」
「うわ、冷たい。それで欲しいものだけど、これでも王家の影という古くさい集団のトップだから、主家に指示を仰がないと」
「現在の主家トップには言うなよ」
「それは分かっているよ。だから呼ばなかったんだろう?」
「そうだ」
「分かった…………後で追加注文も承ってくれたりする? リヒャルト」
「その分、お前に対する要求も大きくなるが、それでもいいのなら」
「老体に無茶させるつもりだ……ガイドリクス陛下、リリエンタールの先ほどの三つの条件と引き替えに動いてもよろしいでしょうか?」
アルドバルド子爵に「陛下」と呼ばれたガイドリクスは頷き――
「いいよ。それで何をすればいいの?」
「フランシス、お前はババアのところに行ってこい」
アルドバルド子爵はいつも通りにポタージュを口へと運び、軽口混じりに尋ねる。
「ババアってブリタニアスのグロリア女王のことだよね」
「それ以外のババアをわたしは知らぬな」
「ふーん。詳しいことは後で聞くけど、他は?」
「共産連邦の懐柔の初手として、ネストル・リヴィンスキーに手紙を届けろ。届けるのはイェルハルド。どうせクリスティーヌが亡き者にしようと、あれこれ画策しているのであろう?」
「うん。リヒャルト、もう知ってるかもしれないけれど、ホーコンがルカ・セロフに撃たれてさ」
ポタージュを掬っていたリリエンタールの手が止まる。
「それはどちらだ?」
「特徴がない方……って、本物だったらあの場にいた三人全員、地獄に送られてるよ」
一応実父に地獄行きと言われたヤンネだが、それに関しては否定はしない。ただ一応実父は地獄が嫌がりそうだな……と――などと思っていたら、いつのまにかアルドバルド子爵が自分の方を見ているのに気付き、背筋が凍った。
「三人? ホーコンの他の二人とは」
「イェルハルドとそこにいるヤンネ」
「三人が揃っていたと? 何故だ」
「君の奇行のせいだよ、リヒャルト。まさかロスカネフに引き返してくるなんて、思ってもいなかったから。理由も分からなくてさあ。聞いても瞬時に理解できなかったけどね」
「それは悪いことをしたな。それにしても、その三人だけというのは、戦力配分間違いも甚だしい」
二人のやり取りを聞きながらポタージュを口に運び――
「全く悪いことをしたという気持ちがないのだけは、伝わってくる」
飲み終えたガイドリクスの意見に、ヤンネも同意だった。
”ほんと、全く悪びれないあたりが、さすがリリエンタールっていうか……こう……仕草一つ一つが、完全に列強絶対王政下の圧倒的カリスマを持った君主なんだよなあ……実際そんな専制君主見たことないけどよ”