【028】鼎談、世界が動く
サーシャから渡された紙袋の中身をボナヴェントゥーラ枢機卿が車中で確認したところ、小切手帳が三冊入っていた。
一冊を手に取りぺらぺらと捲り――他の二冊も確かめてから、ボナヴェントゥーラ枢機卿は軽く頭を振り、紙袋に小切手帳を戻した。
<久しぶりだな、イヴァーノ>
<おお。二人も元気そうだな>
アディフィン王国に入るとボナヴェントゥーラ枢機卿は、聖職者と分かる格好に着替え――国王に挨拶することもなく、首都から十五kmほど離れたところにある、リリエンタールが持つ宮殿へと向かった。
リリエンタールが所有する宮殿は、彼が所有してから、塀の一部を門に作り替え、中央駅から宮殿までの専用線路が敷かれている。
線路が敷かれているということは、侵入を許してしまうのでは? と思われるかもしれないが、その線路はアディフィン王国では採用されていないルース軌の牛頭軌条のため、アディフィン王国内を走る通常の蒸気機関車では、乗り入れることはできない。
リリエンタールはアディフィン王国中央駅に、専用の車両基地を持ち宮殿に立ち入れる専用の車両を所持し――車両基地の鍵を持っている者は、勝手に使って良いとしていた。
もちろん車両を勝手に使って良いだけであって、機関士や整備士は自前で用意しなくてはならず、動かせる者は数が限られている。
ボナヴェントゥーラ枢機卿がリリエンタールの車両基地へと向かうと、鍵は開けられ神聖帝国の軍服を着用した数名が車両基地警備も兼ねて稼働させていた。
ボナヴェントゥーラ枢機卿は車両基地内の無線を借り、
<随分と早いな、アウグストゥス>
<そっちも随分と早いじゃないか、イヴァーノ>
フォルクヴァルツ選帝侯は部下にボナヴェントゥーラ枢機卿を乗せ、蒸気機関車を走らせるよう指示を出した。
蒸気機関車はすぐに宮殿に到着し――駅舎から見える贅をこらしたガゼボから、リトミシュル辺境伯爵とフォルクヴァルツ選帝侯が姿を見せた。
車両基地を使うことを許されている面子は、宮殿の使用も自由――平素は最低限の人員で宮殿を管理させているので、快適に過ごしたければ召使いを伴う必要があるも、
<ガゼボでいいよな>
<もちろんだ>
この貴人たちは快適さをさほど求めはしない。
”まあ……ここに来る人は、誰も快適さを求めませんけれどね。持ち主自身も”
宮殿を預かっている家令は、到着した枢機卿に頭を下げ、
<グレッグ、酒とつまみを。あとは葉巻もな>
<畏まりました、辺境伯爵閣下>
ガゼボ近くに用意させていた黒ビールが詰まった樽とソーセージ、チーズとパン、ボナヴェントゥーラ枢機卿が好む葉巻と、二人が吸う紙巻き煙草二種類に、マッチと灰皿、中ジョッキが積まれたワゴンを押してガゼボに届けた。
家令は中ジョッキに黒ビールを注ぎ、三人に差し出し、
<乾杯!>
三人は勢いよく飲み干した。
その中ジョッキを受け取り、再び黒ビールを注ぐ。
彼らが乾杯したガゼボの外側には、彼らが伴ってきた軍人や政治家が難しい顔をして取り囲んでおり――そこに司祭や神父が混ざり、美しい庭に紛うことなき混沌が発生していたが、グレッグは慣れたもの。
<話を聞かせてくれ、イヴァーノ>
黒ビールに満たされた中ジョッキを受け取り、
<もちろんだ、アウグストゥス>
「まずは聞かせてくれよ」と――グレッグがボナヴェントゥーラ枢機卿に中ジョッキを渡そうとすると、手で制され、
<二人とも、耳を貸せ>
「近づけ」と指で合図を送る。
<なんだ、内密にしなければならないような事柄なのか? イヴァーノ>
<お前たち以外が下手に知ったら、殺されかねない案件だぞ、グリエルムス>
<そりゃあ……イヴァーノがそこまで言うとは>
<背筋がぞわぞわする。もしかしたら、死刑執行直前の死刑囚はこういう気持ちを味わっているのかもしれないな>
この三人は冗談でこのような話し方をする――ことをグレッグは知っているが、冗談ではないことも往々にしてあることも知っている。
失礼がない程度に、だが素早く身を翻して離れ――ボナヴェントゥーラ枢機卿は二人の首をホールドし、周囲に聞こえない小さな声で、
[アントニウスが中産階級の娘と結婚する]
世界が変わる出来事を伝えた。
耳元で囁かれた内容に二人は驚き――首の拘束を解かれ、ワゴンに持っていた中ジョッキを置くとガゼボから出て、互いにしきりに頷き合ってから、力強く踏み込み拳を――あまりにも見事なクロスカウンター、そして両者とも当たり前のように芝生に崩れ落ち……互いの部下が、
【何ごとですか? 外務大臣】
【何ごとだ、軍務大臣】
騒いでいるのを眺めながら、ボナヴェントゥーラ枢機卿は二杯目の黒ビールを飲み干し、ケースから葉巻を取り出し、慣れた手つきでカットし口にくわえて火を付ける。
僧服を着て人前で、ここまで堂々と葉巻を吸う聖職者はいない。
互いの拳を食らい――急所はギリギリで躱していたので、大事には至らなかったが、
【ふぅ……死ぬかと思ったぞ】
【わたしも死ぬかと思った】
二人は痛そうに顎を押さえて立ち上がった。
周囲にいた者たちは「秘密で? それとも殴り合いで?」と悩むも、もちろんそのまま流した。
<詳しい話は、選りすぐり以外は遠ざけて密談ということで>
葉巻を手に持っているボナヴェントゥーラ枢機卿の言葉に、二人も同意だった。リリエンタールが結婚するだけで大事だというのに、その相手が中産階級ともなれば――
<大統領以外は下がれ。それとグレッグ、お前も聞け>
<…………分かった、軍務大臣……>
リトミシュル軍務大臣に残れと言われた大統領アーリンゲ――外では軍務大臣は一応大統領を立てているが、実際の力関係はこの通り。
<畏まりました>
そして残れと言われたグレッグは嫌だったが、これまた拒否もできず。
フォルクヴァルツ選帝侯は、伴ったアディフィン王国駐在の大使と部下二名を、ボナヴェントゥーラ枢機卿はリリエンタールとの会談に伴った聖職者を側に。聖職者の一名は小切手帳入りの紙袋を持っている。
三人はガゼボの作り付けのベンチに腰を下ろし、ボナヴェントゥーラ枢機卿は葉巻を消し、他の者たちが離れたのを確認してから、
<リヒャルト・フォン・リリエンタールは庶民と結婚する>
再び同じことを語った。
彼をして「彼らであろうとも、一度で理解はできない」と判断してのこと。
二人も繰り返し聞き、これが事実であることを認識した――さきほど耳打ちされていなかった者たちは、言葉が耳に届いても理解には至らなかったが。
そんな彼らに懇切丁寧な説明などするはずもなく――
<貴賤結婚としてではなく、正式な結婚か……それは、最初にお前を脅すな、イヴァーノ>
リトミシュル辺境伯爵はボナヴェントゥーラ枢機卿が呼び出された理由を理解した。多くの者たちに認められない結婚ならば、わざわざ高位聖職者を呼び出す必要などない。それをしたということは、リリエンタールが真っ向から后に全ての権利を与えろと、正式な結婚を司る権威に対し宣言したに他ならない。
<脅された脅された。頷かなければ、生きて帰れなかっただろうと思うほど>
<頷けば生きて帰してもらえるなら、まあ良い方だろう>
<そこはな。わたしとアントニウスの仲だから、グリエルムス>
<そうだなあ>
<とりあえず、脅された内容を教えてくれ>
フォルクヴァルツ選帝侯の問いにボナヴェントゥーラ枢機卿は会談の内容を伝えた。話を聞いていた面々は顔色を失ったが、
<…………ぶはははは! 下手うったな! イヴァーノ!>
<被害を最小限に抑えたイヴァーノを褒めてやれよ、ヴィルヘルム! うひゃひゃひゃひゃ!>
リトミシュル辺境伯爵とフォルクヴァルツ選帝侯は、自分の膝を叩いて大笑い――あまりの叩き振りに、グレッグは二人の膝蓋骨が割れるのではないか? 医者を手配したほうがいいのでは? と心配するほど。
<次期皇帝らしからぬ笑い声を上げてるやつに、言われたくねえ! 次期教皇と呼び声高いイヴァーノさまともあろうお方が……ぶはははははは! 笑い止まらねえ!>
由緒正しい辺境領支配者の笑いでもないのだが、
<うひゃひゃひゃひゃひゃ! ひー! ひぃー! 呼吸ができねえ!>
リトミシュル辺境伯爵の言う通り、フォルクヴァルツ選帝侯の笑いは酷かった。
<笑われても仕方ないが、あの場面では仕方なかったんだぞ>
ボナヴェントゥーラ枢機卿は不快さはなく――彼としてはむしろ「もっと笑ってくれ」という気分だった。
<そりゃ分かる>
<流れからして、被害を最小限に抑えたのは分かる……が、最小限に抑えたけど、全く…………うひゃひゃひゃひーひゃひゃ! どーすんだよ!>
<アウグストゥス、お前、他人事のように笑っているが、お前も巻き込まれる可能性があるんだぞ>
<大丈夫だ、イヴァーノ。そうなったら、ティキの坊やに全ておっかぶせる>
<ティキの坊やとて、すでに風前の灯火だぞ>
<わたしのスケープゴートにするために、頑張って生かすさ!>
<アウグストのスケープゴートにされるくらいなら、アントンの策で惨めに敗死したほうが、いくらかマシだろうに。ティキの坊やが死んだら祈ってやれよ、イヴァーノ>
<幾らくれるかによるな>
<言うと思った>
<さすがイヴァーノ>
アディフィン王国の大統領や、神聖帝国の大使は大まかな事情は察したが、とても二人のように笑う気持ちにはなれなかった。
<……で、どうするんだ>
リトミシュル辺境伯爵の問いかけに、ボナヴェントゥーラ枢機卿は禿頭に手を乗せて、くっきりとした顔に、本心からの「困った」という表情で――
<お前たち、良い策はないか?>
<あるわけないだろ>
尋ねたが聞き終える前に、リトミシュル辺境伯爵が拒否を被せてきた。
<ティキの坊やに全部預けてしまえばいいのさ>
ノーセロート皇帝を贖罪の山羊にすることに決めたフォルクヴァルツ選帝侯は、「乗れよ」と誘ってくれるが、
<一年持たずに瓦解するだろうが>
その策は完全に「当座を凌ぐ」だけであり、根本的な解決にはならない。もちろんそれを知ってフォルクヴァルツ選帝侯は誘いをかけている――ことくらいは、二人とも理解している。
<いっそお前が支配しないか? グリエルムス>
<そんな暇ねえな。大統領、来年にはロスカネフ王国に、リリエンタールっていう大統領が誕生するみたいだぜ。どうする? フォルズベーグは亡き国だと思え>
いきなり話を振らないで欲しい――という気持ちを一切隠さず、大国の大統領は隣国に太刀打ちできない怪物が、同じ大統領として並び立つと聞かされ、辞めたいという気持ちを隠さずに伝えた。
<謹んで内閣総辞職したいと思います…………本当に? あの、今の話の流れで、なぜ大統領?>
<簡単な話だ。アントンがロスカネフ王国に戻ったからだ。これは結婚相手がロスカネフ在住であることもそうだが、結婚相手……面倒だから后と呼ぶが、后と后の実家はロスカネフ国内で良い生活を送っていると考えられる。そうでなければ、アントンのことだ、一族ごと連れだして新天地で良い生活を送らせる>
ロスカネフ王国に引き返した――その事実から、リトミシュル辺境伯爵は后と后周辺は悪くないのだろうと判断を下し、それはほぼ正解していた。
<あまり考えられないことだが、后のおかれた境遇が悪い場合も、連れ出して新天地で暮らさせるが、后がどうしてもと望んだとしたら、アントンは国ごと変える。その為には大統領になるしかない。どちらであろうとも、アントンがロスカネフ王国の守護者になる>
フォルクヴァルツ選帝侯の判断理由は、ゆっくりと時間を掛け后として迎えるとボナヴェントゥーラ枢機卿に語っていたこと。そのような余裕があるということは、后の身辺状況が良いからこそ――こちらの読みも当たっている。
<フォルクヴァルツ選帝侯閣下、補足説明ありがとうございます。リトミシュル辺境伯爵閣下、総辞職で。あとはお願いします>
<あとはないぞ、大統領>
<?>
<せっかくアントンが動き出したのだ。ならばわたしも動き出す。頑張れよ、王国最後の大統領>
<…………>
”王国最後って……”一気に問題が襲い掛かってきたことに気づいたアディフィン王国大統領の表情は冴えない。
<ひでぇな、ヴィルヘルム>
<お前に言われたくはないな、アウグスト>
<困った。実に困った。そうだ大統領よ、大統領を辞めたら、新東帝国を統治しないか>
<イヴァーノの悪魔。とても聖職者の言葉とは思えねぇ>
<この敬虔な神の信徒を悪魔とは、酷いではないかアウグストゥス>
<お誘いがきたぞ、大統領。やる気があるなら、新東帝国正統後継者の称号、もらってきてやるぞ>
<お前も大概悪魔だな、グリエルムス>
<お断りいたします>
繊細な作りのガゼボ内は、そこらの悪魔が逃げ出すほどに混沌とし――
<さて、問題を一つ一つ片付けるとしよう。それを>
ボナヴェントゥーラ枢機卿は持たせていた紙袋を受け取り、小切手帳を三冊取り出す。
<こんなもの、三冊ももらっても使い切れないので、お前たちに一冊ずつ渡す>
サーシャから渡された小切手帳は金額が書き込まれていたのだが、その額が凄まじく――
<拝金坊主の名が泣くぞ>
手に取り捲り、三冊の合計額を計算したフォルクヴァルツ選帝侯の笑顔といったら――
<金というのは、適度に崇めるくらいが丁度良い>
<まあな。アウグスト、それでロスカネフ王国の諜報部の動きは?>
<悪いなヴィルヘルム。ほぼ分からないのだ>
<列強の諜報部が、極北の諜報部との諜報戦で負けたのか>
<あれは諜報戦に関しては達人だろ? ただ今家督争い中の妹まで上手く使って、こっちを混乱させてくる。あれの情報撹乱は手に負えないな>
<やり手なのは知っていたが……仕方ない。ところで神聖帝国の駐在武官、カイ・モルゲンロートに殺されるって伝えるのは止めておけ。なに驚いてるんだよ>
フォルクヴァルツ選帝侯がガゼボに伴った三人の内の一人である駐在武官は、カイ・モルゲンロートと親密な関係だった――大国から大国の駐在武官に任命されるには、様々な根回しも必要で、それには金も掛かる。
そういう人間を見つけ出し、すっと懐に忍び込む――
<ヴィルヘルムの言う通りだぞ。資金援助してもらって、女まで宛がってもらったあげくに、死刑宣告とかどんだけ無情だ>
駐在武官は上手く隠していたつもりだったのだが、本国の外務大臣と駐在国家の軍務大臣は、当たり前のように知っていた……その事実に膝から崩れ落ちる。
<よもや気づかれていないとでも思っていたのか。随分と楽観的なエリート武官だな>
ボナヴェントゥーラ枢機卿は、リリエンタールを彷彿とさせる蔑みの視線――僧服をまとった枢機卿の視線ではないが。
三人は駐在武官に「それは止めておけ」と重ねて言うだけではなく、教えた場合、彼がどのような悲しい人生を送るのかを滔々と解き――
<ではな、二人とも。次は慶事のときに会おう>
<おう、イヴァーノ。石炭はわたしの奢りだ! 遠慮無く使え!>
”辺境伯爵閣下。その石炭、車両基地の備蓄ですけど”――グレッグは沈黙する。
<顔色がわたし並に悪くなっている神父をフォローしてやれよ、イヴァーノ>
<彼はわたしとは違って清貧の神父だからなあ。上手くフォローできるかどうか>
”清貧の神父がカイ・モルゲンロートから金もらってるって分かっていながら……あんたたち、相変わらず悪魔だよ”
家令は深々と頭を下げ、枢機卿が乗った蒸気機関車を見送った。