【027】閣下、戦争することを伝える
執事からリリエンタールが面会を希望していることと「ロスカネフ王国に引き返す」という連絡を受け取ったボナヴェントゥーラ枢機卿は、数十名の供を連れ ―― 枢機卿の身分にしては少なすぎるのだが、リリエンタールからの初めての呼び出しに、ただならぬものを感じ、移動速度を最大限に考慮し、人員を最小限に絞り、ロスカネフ王国へとやってきた。
リリエンタールのことを知る司祭が「カルロス司祭を使って、我々を極北に呼び寄せたのでは」――リリエンタールが引き返さないことを知っているので、そういう疑念が出てもおかしくはなかった。
[それはない。そういう小細工を弄するような男ではないし、そんな小細工をカルロスにさせることもない。なによりカルロスはそういうことはしないなあ]
ボナヴェントゥーラ枢機卿は断言した。
彼自身、リリエンタールの性格を熟知しているとは思っていないが、少なくともそういう小細工を仕掛けてこないことは分かっている。
ロスカネフ王国に到着したボナヴェントゥーラ枢機卿は到着の知らせを出し、待ち合わせ場所も分からぬまま、首都へと向かう蒸気機関車に乗り込む。
一等客室の窓から景色を眺め旅を楽しんでいると、途中の駅で若い男が乗り込んできた。
若い男はボナヴェントゥーラ枢機卿に面会を求め――リリエンタールからの書状をもっていたので客室へと通される。
[元気にしていたか! アンジェロ]
ボナヴェントゥーラ枢機卿は両手を広げて若い男――サーシャに近づき、抱擁して歓迎する。
[お久しぶりです]
サーシャも同じように応え、これからの段取り――途中で下車し、馬車で面会場所へ連れていくということ、他に帰国便も手配しているので、
[大至急来いと呼び出しておきながら、さっさと帰れというのが、まさにアントニウスだな]
楽しそうに笑うボナヴェントゥーラ枢機卿に、サーシャは曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
そのサーシャがボナヴェントゥーラ枢機卿の元を辞してから、供の一人が「呼び出された理由を聞かないのか」と尋ねる。
[アンジェロが伝えられるものなら、最初からアンジェロを教皇領に送るのがアントニウスだ。要するにアンジェロに聞いたら、アンジェロが困るだけだ]
サーシャで事が足りるのであれば、リリエンタールはそれで済ませる。執事が電報を入れるだけでいいのなら、それで済ませる。だが今回リリエンタールはわざわざ足を運べと言ってきた ――
[何ごとが起こるか楽しみだ……それにしても寒いな。まだ冬じゃないらしいが、もう教皇領の冬並だな]
ボナヴェントゥーラ枢機卿は脱いでいた山高帽を、つるんとした頭に被り直す――途中下車した一行は、手配されていたほどほどの金持ちが使う馬車に乗り込み、先頭の馬車の御者台にはサーシャが座り先導する。
馬車は軽快に走り、二日後の逢魔が時に首都の外れにある建物に到着した。
出迎えたのは使用人の格好をしたヒューバート・オブ・ハクスリー。
ボナヴェントゥーラ枢機卿は深々と頭を下げるハクスリー公爵の肩を「ぽんっ」と軽く叩き、サーシャの後について邸へと足を踏み入れた。
外側は年代物で草臥れているものの、内装は目を見張るほど凝ったものが揃えられていた。
[久しぶりですね、イヴァーノ]
[おお、兄弟。久しぶりだな。偶には会いに来てくれ]
サーシャにしたようにボナヴェントゥーラ枢機卿は執事とも再会を喜び、抱擁と挨拶のキスを交わし、
[伴ってもいいですけれど、あまり伴わないほうが良いと思いますよ。彼らのためにも]
リリエンタールが居る部屋に、供を同伴してもよいかどうかを尋ねたところ、執事の表情は「下手なことしたら死ぬよ」と――その表情が楽しくて、ボナヴェントゥーラ枢機卿は三名ほど伴い入室した。
枢機卿同士が話し合うのに相応しい調度品が整った室内は、臙脂色の分厚いビロードのカーテンが既に下ろされ、シャンデリアが灯されていた。
リリエンタールはその部屋の中心に置かれた、全面革張りで鋲打ちされた重厚感あるソファーにホワイトタイの燕尾服姿で、組んだ足の上に軽く組んだ手を乗せて座っていた。
[来たか]
ボナヴェントゥーラ枢機卿をちらりと見るも、すぐに視線を移動させ――リリエンタールの向かい側に置かれている、同じソファーにボナヴェントゥーラ枢機卿は腰を下ろした。
[どうぞ]
執事が五十二年物赤ワインのヴュー・レオミュールを注いだグラスを両者の手元にそっと置く。
二人ともグラスを手に取り、目線で挨拶を交わして口へと運ぶ。
室内には二人以外に、ボナヴェントゥーラ枢機卿が伴った三名と、執事にサーシャ、そしてアイヒベルクがいる。
ボナヴェントゥーラ枢機卿がワインの芳醇な香りと味を楽しんでいると、素っ気なく飲み干したリリエンタールが、呼びつけた理由を語った。
[結婚する、許可しろ]
ボナヴェントゥーラ枢機卿が伴った三名は「誰が?」と――リリエンタールが結婚するなど彼らとて想像もしていなかった――が、枢機卿を呼びつけ話を持ちかけるとなれば、結婚するのはリリエンタールか廃王子シャルルしかおらず、当事者であるならばシャルルもソファーに腰を下ろしている筈。
”アントニウスが結婚か…………なにがある?”
ボナヴェントゥーラ枢機卿は一気に味が失せたワインを飲み干し、
[結婚か。それは目出度いが、わざわざわたしを呼びつけて許可しろって言うからには、なにか問題でもあるのか?]
お前ならば、わたしの力を借りずとも対処できるだろう? とばかりに身を乗り出す
リリエンタールと現教皇の関係は良好なので、妻となる女性を連れて教皇領へと出向き紹介するはず――ついでに還俗手続きも済ませられる。
[相手は中産階級の娘だ]
相手の身分を聞いて、さすがにボナヴェントゥーラ枢機卿も驚いたが、いままでいかなる高位の女性と会っても興味を示さなかったのだから、中産階級の娘というのは「あり得ないが、あり得ること」だとすぐさま納得した。
[それが許されると?]
ただ納得はしたが、世界の常識に照らし合わせると、認められるものではなかった。
[許可しろと言っている]
[教会が世界の秩序を守る役割を担っているのを、忘れたわけではないだろう? アントニウス]
王族の貴賤結婚がないわけではない。
ただその場合は「賤」と呼ばれる側は、王族としての待遇は微々たるもので、生まれてくる子は「貴」の全てを受け継ぐことは許されない……という制約をつけて、やっと許可されるもの。
だがリリエンタールが望んでいるのは「全て」
目の前に座っているボナヴェントゥーラ枢機卿には、それが痛いほど分かる。
[共産連邦三代目の書記長の名を教えてやろうか?]
建前では身分のない共産連邦――ルース皇族が逆亡命したところで、捕らえられ処刑されるのがおちだが、リヒャルト・フォン・リリエンタールならば乗っ取ることも可能だろうと思わせるものがある。
[アントーンか? そうなったら、世界は一気に染め上げられるだろうな……何色にとは言わないが]
[イヴァーノ、お前は聡く信仰に篤い男だ。どうしたらいいか、分かるであろう?]
[……それは、まあ]
リリエンタールが言う通りボナヴェントゥーラ枢機卿は賢いので、目の前にいる人物が、どんな手を打ってくるのか大体分かってしまう――頷かなければリリエンタールが戦争を仕掛けてくる……そこまでは自信を持って外していないと言えるのだが、それに対処できる方法は? と問われると、ほとんど思い浮かばず、思いついたことを実行に移したところで完敗するのも見えてしまう。
リリエンタールは空になったグラスを手に持ち、執事のほうへと傾ける。
執事はデキャンタからワインを注ぎ、
[此度の共産連邦との戦いの死者数を、最小限にしてやろう]
ワインを一口飲んだリリエンタールは、唐突に「そう」言い出した。
[できるのか?]
エジテージュ二世が望んでいる二度目の連合軍を、潰すと――
[出来ないと思うか?]
[いいや……やる気に満ちているお前というのは、初めてみるな]
[わたしも初めてだ]
[共産連邦に関するあらゆる事象をお前に任せることで、死者数を最低限に抑えてくれるわけか、アントニウス]
[そうだ]
[死の商人が黙っていないだろう]
この戦いには武器を売りつけ戦いを広げる、死の商人も絡んでいる。
[カイ・モルゲンロートを殺し、わたしが死の商人になる]
その死の商人も殺すと言い出した。さらに彼の事業を乗っ取るとも。
[世界最高の天才指揮官が、世界最大の死の商人をも兼ねるのか。それはもう……敵が哀れだな]
[さすが枢機卿閣下、慈悲深くていらっしゃる]
リリエンタールが口の端を上げて嗤う。
しばしの沈黙が室内に流れ――ボナヴェントゥーラ枢機卿はそれでも「結婚を認める」とは言わなかった。
[ところでイヴァーノ、久しぶりに戦争をしないか?]
愛と平和を尊ぶ聖職者に持ちかけられる戦争話といえば、宗教戦争ただ一つ。異教徒の地に攻め入る戦いをしたのは、今はもう昔のこと。
聖教を奉じていた古東帝国は異教徒の国となり ――
[……五九八年ぶりに?]
最後の遠征軍の戦いが終わってから数えて、今年は五九八年になる。だがリリエンタールは首を振り、
[正式には六〇一年ぶりだ]
三年先のことだと言う。
[勝てるのか?]
ボナヴェントゥーラ枢機卿は現実を見据える聖職者で、遠征軍による聖地奪還などという夢を見るような男ではない。むろん聖地は取り戻したいとおもっているが、それは政治や資金で成すべきことであり、無用な血を流す行動は慎むべきだと――ボナヴェントゥーラ枢機卿は野心家で金を好むが、戦争をしようなどとは考えることもない。
[ますますもって愚問だな。誰に向かって聞いているのだ? 大体、あの体たらくの国だぞ]
[たしかに愚問だったな。……なぜ遠征軍を]
[わたしの后は中産階級の娘だ。となれば、あれたちが、必ずやわめき立てる。だから殺すのだ。国ごとな…………ああ、気にするな。お前たちが結婚を認めようが認めまいが、あの国は滅びる]
リリエンタールが貴賤結婚をすると言い出したら、アブスブルゴル帝室が烈火の如く怒るのは、疑う余地すらない。
[アントニウスならアブスブルゴル帝国を壊せるだろうが、それと遠征軍に何が関係してくるのだ?]
[あの娘は優しいので、自分絡みで戦争が起こり、人が死んだと知れば悲しむ。だからあの娘が全く関係ない理由で滅びてもらう。もちろんわたしの名も出ぬようにする]
[……お前から、そういう台詞を聞くとは思わなかったなアントニウス。正直言って、結婚すると聞いたとき以上に驚いている]
ボナヴェントゥーラ枢機卿はリリエンタールが本当に中産階級出の普通の娘と結婚するのだなと――後々、クローヴィスのことを色々と知り「アントニウスの嫁になるために地上に降り立ったような娘だな」となるのだが、この時点では「中産階級の娘」としか知らなかったので、ぼんやりと普通の娘を脳裏に描いた。
[そうか。イヴァーノ、司教冠を幾つかくれてやる。娘の宝飾品を作るのに、宝石を大量購入したいのだが、まだ娘のことを明かすわけにはいかないので、お前と教皇への贈り物のためにという名目で買いあさる]
[好きにするといい]
[娘に関しては雑事を片付けてから、ゆっくりとことを進めたいのだ]
”性急じゃないのは良いこと……ん、どうした? カルロス”
ここまで比較的無表情を貫いてきた執事――執事はボナヴェントゥーラ枢機卿以上に戦争事が苦手なので、話を流していて当たり前なのだが、ここに来て妙な感情の揺れを見せた……が、ボナヴェントゥーラ枢機卿は追求しなかった。
[無理強いしないことはいいことだ。相手が中産階級ならば、お前がちょっとでも強く出たら硬直して”お気の召すままに”になってしまうからな]
[娘の気持ちを尊重するようにと、皆に注意されている]
ここまで堂々と語っていながら、娘の気持ちを尊重どころか、娘が全く知らないとは、聡いボナヴェントゥーラ枢機卿でも想定できなかった。
[とくにアンジェロの言うことは聞いておくべきだろう]
[そうか。お前がそう言うのならば、聞かぬほうがいい気がするが]
[それでこそアントニウス。ところでその娘との結婚、教皇庁は許可しよう]
ボナヴェントゥーラ枢機卿の一存で、正式な結婚が出来ることになった――教皇庁の高位聖職者の中には、アブスブルゴル帝国寄りで貴賤結婚を良しとしない者もいるが、それらはボナヴェントゥーラ枢機卿が抑えることを確約した。
[返事など分かっていたが]
証書もなければ血判状もないが、どちらも裏切りはしない――裏切らないことを分かっているからこそ、証明は必要ない。
[分かっているのに呼びつけるお前が最高だ、アントニウス]
リリエンタールは声を立てずに笑い――二人は晩餐を楽しんだ。翌日ボナヴェントゥーラ枢機卿は、中央駅から蒸気機関車で帰国することに。
もちろん私服で。
[お持ちください]
見送りはサーシャ一人で、茶色い紙袋を差し出された。
ボナヴェントゥーラ枢機卿は紙袋を受け取ると、会った時と同じように抱擁し、別れを惜しむ。
[あれのこと、頼むな、アンジェロ]
[お任せくださいと言えない、非才の身ですが、できる限りのことは致します]
[無理はするなよ。それと、あまり狗を深追いするなよ……ま、どちらもお前は聞けないか、アンジェロ]
サーシャは答えず――少しだけ頭を下げた。
こうしてサーシャに見送られ、ボナヴェントゥーラ枢機卿一行はフォルズベーグを抜け、アディフィン王国へ――リリエンタールから「あの二人に結婚することだけ伝えて帰れ」と言われたので。
「枢機卿をメッセンジャーに使うとは……まあ、枢機卿クラスが伝言しなければ、信用できない内容だから仕方ないが」