【025】執事、行動を制限する
草原で組み手無双をしていただけで、世界の行く先を変えたクローヴィス。
「いてっ!」
調子に乗って、いつも通りに動き ―― まだ抜糸していない額の傷が引きつり、思わず声を上げる。
「大丈夫ですか」
「水で冷やしますか?」
額を押さえているクローヴィスに、何度も地面に放り投げられていた兵士たちが近づく。
「ちょっと引きつっただけだから、気にしないでくれ」
そう言いながらクローヴィスは伸びた前髪をかき上げる。
誰かが思わず「ほぅ……」と溜息をつき ―― 離れた天幕の下でずっと見つめていたリリエンタールも同じように溜息をつく。
「ん……」
クローヴィスの芸術品のような美貌を眺めていると、やや腰を屈め ―― 兵士たちが次々と包帯が巻かれた額にキスをし始めた。
キスをしているのは、傷がないほうで軽くだが ―― キスされているクローヴィスも笑顔で「ありがとう」と答えているのは、リリエンタールも読唇術でわかったが、
「なんだ、あれは」
なにをしているのかは、分からなかった。
「傷の快復を願っているのでしょう。傷口にキスは、仲間内では珍しいことではありませんので」
問われたヒースコートは、よくあることですよと答える。実際ヒースコートも、負傷した女性兵士の腕に巻かれている包帯にキスをしたり、女性兵士の快復を祈って頬にキスをしたりする。
「……」
「共に襲撃を退けた仲ということで、連帯感が生まれたようですね。見た目と性格のギャップもあって、一度性格を知ったら好かれるタイプのようです」
クローヴィスはその見た目と雰囲気から、話し掛けづらいと思われがちだが、一度話してみると、驕ったところがなく優しげで話しやすい ―― ギャップの大きさに、当人の性格の良さも相俟って、ヒースコートが言う通り好かれるタイプだった。
額に「快復を願って」とキスされたクローヴィスは「ありがとう! お前たちにも祝福を!」と、こめかみの辺りにキスをしてゆく。
「……」
「祈りをもらいっぱなしにしない、よい娘です」
「……」
「リリエンタール閣下。あなたのような、全てを拒絶していた人間ですら恋に落とした娘ですよ。そんな娘が好かれない訳がない」
「わたしも快復を祈るキスをしたいのだが」
「残念ですが、リリエンタール閣下とあの娘はそれほど仲がよくないので、諦めてください。……はい、あそこで組み手をしている兵士たちのほうが、近しいです」
「……」
ヒースコートに言われて、二人きりのときリラックスしたクローヴィスというのを、見たことがなかったなと気付き ―― 今だ痛む肋骨に手を当てて深いため息を吐き出した。
**********
「あの娘ことイヴ・クローヴィスを妾ではなく、妃にすることにした」
草原での休憩が終わり、走り出した蒸気機関車のリリエンタール専用車両で、所有者であるリリエンタールはそのように宣言した。
この時、聞かされたのは、執事とサーシャ、そしてアイヒベルクにシュレーディンガーの異母兄、そしてヘラクレス・フォン・アーリンゲ。
アーリンゲは元は軍人だったが病に罹った。
快復はしたものの日常生活を送るのには差し支えはないが、軍人は無理と診断され退役。実家は兄の代になってはいたが、裕福な地主貴族なのでアーリンゲの療養先を用意してくれたりと、色々と取り計らってくれた。無駄使いをする性格ではないので、今までの蓄えと裕福な実家の仕送りで、田舎で慎ましやかな生活を死ぬまで送ることができる ―― が、その時アーリンゲは二十八歳。
田舎で牧場主として、日の出に起きて川で魚釣りを楽しみ、散歩をし手紙を書いて、日暮れと共に寝る余生を送るのは、少し早い気がしたので……それから色々あって、幼年学校の同級生だったリリエンタールの元で朗読係を担当するようになった。
もちろん朗読をしているだけではないが ――
いきなり妃を迎えると聞かされた五人は言葉を失い ―― 最初に復活したのはサーシャだったが、彼の身分や立場では尋ねることはできないので沈黙をつらぬいた。
次に復活した執事が、
「妃といいながら、実はルース語の公妾の呼び方”寵妃”だ……みたいな引っかけじゃないですよね?」
本当に妃にするの? と尋ねる。
「そんな下らぬ引っかけではない。正真正銘、正妃として迎える」
「神前で誓うつもりなの」
「もちろん」
本気で結婚するつもりなのだと確認してから ――
「早く言えよ! ロスカネフの城、改装しなきゃならないだろ!」
正妃を迎えるのと、愛妾を囲うのはまったく違う。
住むところ一つとっても、王侯貴族は妾を本邸に住まわせることはない。
貴族ならば屋敷を、王族ならば城をあたえてそこへ通う。入り浸って本邸に寄りつかないこともあるが、あくまでも本邸と妾宅は別もの。
それは彼ら王族の常識に則ったものであり、リリエンタールも当初はそのつもりだった。
「つい先ほど決めたのだ。これ以上ないほど、早くに告げたぞ、ベルナルド」
ロスカネフの城だけではないが、リリエンタールの住まいはほぼ男性のみ ―― メイドを雇うと毎年「孕まされた」と腹を膨らませた、近寄らせた覚えもない女が訪れるので、一切雇っていない。
そういうこともあり、リリエンタールの住まいに女性の居住スペースは存在しない。
「決断が遅いって言ってるの! 妾にするか后にするかで悩みすぎだ!」
妾として別邸を与えるのならそれでも構わないが、正妻として迎えるとなれば、話は全く違う。
「それを言われると……だが娘の人生がかかっているので、軽々しく決めることは……」
「そもそもあの若い娘さんが、全く知らないところで話を進めてるの分かってる? あんたの人生もそりゃ変わりますけれど、あの娘さんの人生は激変するんですよ? 妾になっても激変ですけど、あんたの后とか、言っちゃなんですが、世界のNo.2になるってことですよ?」
「そうなのか?」
「そうなのかじゃない! 全く気づかないふりしてるけど、世界No.1はお前だからな!」
「わたしは世界のNo.1になった覚えはないが。大体、何を持って世界No.1と?」
「あんたの認識はこの際どうでもいい。あんたがうだうだ言おうとも、世界No.1なのは揺るぎないの! それで、あの若くて綺麗で身分が全く違う娘さんに対して、どうアプローチすんの? 作戦を教えてもらわないと、用意するものもあるんでしょ?」
執事に詰め寄られたリリエンタールは、アーリンゲがアディフィン王国で集めてくれた、恋愛小説が積み上げられた山を軽く叩く ―― アーリンゲは夢見がちなマリーチェに、母国語の恋愛小説を定期的に届ける仕事もしていた。
感化されやすい性格であることも理解し「駆け落ち」するような内容の物語は省くという、検閲もおこなっていた。
その関係で、庶民の流行の恋愛小説がどのようなものか熟知しており ―― 天才であることは間違いないのだが、情緒は皇帝としては立派だが庶民を愛人に迎えるとなるとどうなのだ……と、リリエンタールの感情面を知るアーリンゲは考え「国は違いますけれど、庶民の恋愛観はこんな感じですよ」と、幾つかの恋愛小説を渡した。
アーリンゲもリリエンタールには幸せになって欲しいのだ ―― 彼が用意した本を読むかどうかまではアーリンゲの力の及ぶところではない。
受け取ったリリエンタールは、分速五万語超とされる速読術で読み切り ―― 恋愛小説を速読するという時点で情緒面が些か……だが、渡された恋愛小説は全て読み、
「庶民は恋愛結婚が流行っているし望むものが多いようだ。よって恋愛を……」
「ばかー! なにその現実性のない計画! 世界征服して世界を与えるから后になって下さいって頼む方が、まだ現実味があるわー!」
ヒースコートに言われた通り、クローヴィス側に立つために認めてもらおうと、庶民の感覚に寄せたつもりだったのだが、執事からだめ出しをされた。
「世界征服如きで結婚してもらえるのであれば、いくらでも世界征服するが……それではダメなのであろう? レイモンド」
戦争で手に入れることができるのならば、リリエンタールにとってこれほど簡単なことはない。
「はい。クローヴィス少尉は、一切好みませんね」
「いや、わたしだってあの綺麗な娘さんが世界征服を好むとは思いませんけど、この人に恋愛って…………できると思ってんの? レイモンド」
「していただかなければなりません、殿下。なにせリリエンタール閣下のお望みは、現状のクローヴィス少尉を手に入れること。権力や暴力で手に入れては、あの笑顔は必ずや陰ります。リリエンタール閣下が他人の感情を全く察知できないお方ならば、多少の無理強いもありですが」
リリエンタールは感情らしい感情を持っていないが、他人の感情の些細な動きも読むことができる ―― 自らが知らなくても、周囲にいる者たちは皆感情を持ち、感情的に動くので学ぶことができた。
「無理強いはしない……が、あの娘はあまりにも魅力的なので、他の者にとられないように手を打つ」
「それはあんたの得意とするところですね」
恋愛結婚をすると言われた時は「何言ってんだよ」だった執事だが、外堀を埋めるだとかほとんどの者に気づかれぬよう根回しするなどに関しては、リリエンタールに限って失敗などないことは知っているので、心配などはしない。
「国家に関しては、文句を言ってこなければ滅ぼさないが、異議を唱えた場合、容赦しないつもりだ……どうしたのだ、ベルナルド。その表情」
「あのさ、あんた今まで容赦したことあったの?」
戦争においてリリエンタールの強さは「容赦のなさ」がよく上げられる――軍事施設を消滅させたり、化学兵器で皆殺しにしたり、火山を操り溶岩で師団を溶かしたり……誰もがしたことのない戦い方をして、大規模壊滅させてきた男が今更ながらに「容赦しないつもり」とはどういうことか?
「淡々と殺してきただけだからな。だが振り返ってみて、容赦はしなかったかもしれないが、いま思っている「容赦しない」とは別物だ。今回のことに限っては、狂信者が異教徒の国を殲滅するときよりも容赦はせぬ」
「…………あ、まあ、それはいいや。戦争に関して、わたしは門外漢だから……でも、戦争と言えばロスカネフ王国とルース帝国ってかなり戦争してるよね。あの娘さんの家族がアーダルベルト・キースみたいに、ルース帝国のこと嫌ってたら、どうするの? 娘さん、悩むよ」
執事の問いにリリエンタールは視線を逸らし、
「…………ルースとロスカネフの戦闘は大小合わせて七十九回。報告されていないものもあるだろうな…………娘の家族、親族のことまで考えてはいなかった。一人や二人、キースのような人物がいてもおかしくはない」
考えていなかった――と。
「ばかー! わたしでも思いつくことなのに! たしかに、あんたにとって、親族なんて羽虫以下でしかありませんけれど……きっとあの娘さんは、そういうタイプじゃないはずですよ」
「…………大統領」
「はい? 大統領? アーリンゲの兄がなにか?」
アーリンゲの兄はアディフィンの大統領の座についている――
「それではない。ロスカネフ王国の大統領だ」
「……?? はい?」
現時点ではロスカネフ王国はまだ専制君主制で、大統領などいない。
「過去は変えられぬ。ならば未来を確約するしかない。皇統宗主の名にかけてロスカネフ王国に百年の安寧を……もたらすために、ロスカネフ王国の大統領になる」
リリエンタールが大統領に就任したならば、小国ロスカネフであろうとも百年の安寧は夢ではないが、
「大統領って、人気投票で一番とったヤツがなれる役職だよね? あんたロスカネフ王国でロス人相手に人気投票して勝てるの?」
リリエンタールは異物も異物。
「そういう流れを作ればよい。幸いネスタとお供、愉快な踊り子と、作られた悲劇の皇子がロスカネフ周辺で活発に動く。これらを全て平定し、心酔させてみせる」
戦争と精神の支配と思考の蹂躙は、この男の得意とするところであった。
「こと戦争に関してあんたが決めたら、そうなるのは確実なんだけど、あの娘さんとの結婚にいたる恋愛に関してはなにか思いついた?」
執事に聞かれたリリエンタールは、再び恋愛小説の山を軽く叩き、
「ヘラクレス提供の資料で実践できそうだったのは、娘が暴漢に襲われているところを庇い助けるというものだが、あの娘の強さから言って、暴漢はレイモンド並に強くなくてはならぬという問題点があり、わたしはレイモンドクラスには勝てないという更なる問題がある」
「わたしはクローヴィス少尉は襲いませんよ。わたしは女性を助けるのが専門ですから」
物理的に不可能でシチュエーション的に駄目なことを言い出した。
「あんた、そっちを考えるのは止めて! とりあえず、こっちで指針を作るから。それまであの娘さんとの接触は一切禁止! 贈り物も禁止! あんたは最後の審判の時、どうやって魔王と戦うかでも考えてなさい!」
「…………」
「こっち見るな! そんな目で見るな! もう戦い方決まったぞみたいな顔すんな!」