【202】あなたが死んでから十数年の時が流れた
「さすが総司令官直属の部下たち。優秀揃いだなあ」
夏期休暇に入ったキースの代理を務めるのはテサジーク侯爵。政府の官房長官にも任じられているが、当人が忙しそうにしている素振りは全くない。
持参したコーヒー豆を従卒に淹れてもらい、香りを楽しみながら、ゴシップ紙を執務机に広げ――そのゴシップ紙すら見ずに、伴った一人に同意を求める。
「国防の要に無能揃いはないでしょう」
返事をしたのは護衛も兼ねている秘書のシモン・ノルバリ――もちろん司令本部ではノルバリとは名乗っていない。
テサジーク侯爵の護衛は基本ベックマンが担当しているのだが、総司令官用のフロアはクローヴィス以外の女性は立ち入り禁止になっているので、テサジーク侯爵が総司令官代理を務める間は、ベックマンではなくノルバリが選ばれた。
もちろんベックマンは「男」になりきることはでき、キースもベックマンを伴うことに関し、異議はない――なのでベックマンを伴っても良かったのだが、ノルバリが抜擢された。
”なんか、失敗でもしたのか”……と、懲罰的なものかと焦ったノルバリだが、目の前で笑っているテサジーク侯爵の考えを読むことなどできず。あとでベックマンに聞いてみたが、ベックマンも聞いておらず――男装準備も整えていたのに……と溜息をつくような、いきなりの交代だった。
「えー。昔は無能揃いだったんだよ。無能を選りすぐった感じ。司令本部なんて、無能貴族将校がつかみ取りできるような配置だったよ」
「閣下……」
「だからわたしだって、将校になれたんだから」
「閣下。コーヒーが冷めます」
力の抜けた語り口と、平時は実際左遷部署の責任者であること、そして無害な笑顔と、気が抜けたような雰囲気――誰もテサジーク侯爵のことを警戒しなかった。
「閣下。こちらになります」
「ありがとう、ユルハイネン君」
ゴシップ紙が広げられている机の端に、ユルハイネンの部下が「履歴書綴り」を乗せた。テサジーク侯爵はその一冊を手に取る。
「これを読めば、隊員たちのことが分かるんだね」
「大まかなことだけですが」
履歴書はクローヴィスが前世の知識を生かして作ったもの――書類のサイズすらまちまちな世界において、クローヴィスは親衛隊の内部書類をA4サイズに統一。
親衛隊の履歴書は、部隊別で色を変えている――この履歴書と同じものは、クローヴィスの実家にもあるので、テサジーク侯爵は直接ではないが、クライブからの報告で知っていた。
その履歴書に興味を持った。
クローヴィスの実家に忍び込んで、盗み見ても良かったのだが、クローヴィスに気付かれる可能性を考慮して、司令本部で読むことにした。
――あの身長を測るのも、良い案だよな
キースの代理としてフロアにやって来た際、受け付け近くの柱に三色の色紙が貼られていることに気付いた。
「これは、なにかな?」
「隊長が考案した身長を測るものです」
受け付けはそう答え――クローヴィスの前世の表現を用いるならば「コンビニの入り口の身長を測るヤツ」
有事の際に、瞬時に身長を大まかに判別できるように、細工を施したのだ――ちなみに防犯カラーボールは置かれていない。なにせここは軍隊で、武器を所有しているので必要ないのだ。
「その色紙は、毎朝小隊長が、メジャーで測って確認しています」
しっかりと貼り付けられたものではないので、ずり落ちたりすることを考慮し、クローヴィスは小隊長に用途を説明し、測定することを命じた。
説明された小隊長たちの中で、憲兵に所属しているヘル中尉は、侵入者の身長を割り出せるシステムに感心していた。
――他にも、なにか案とかあるのかな
そんなことを考えながら、テサジーク侯爵は履歴書の綴りを捲った。
「おや?」
テサジーク侯爵が開いたのは、ネクルチェンコ隊の履歴書で、名前の欄の上部、枠外に当たる部分にルース文字でも名前が書かれていた。
「これって、クローヴィス君の指示?」
「はい」
「へぇ……大変だったんじゃない?」
「はい。ルース文字を知らない隊員が三分の二以上を占めていたので」
ルース帝国の識字率はかなり低い――ルース帝国の農民は文字と縁の無い人生を送る。ネクルチェンコ隊の面々は、ほとんどが農民で、戦争で農地を追われて逃げた者ばかりなので、ルース文字の存在すら知らなかった。
「じゃあ、わざわざクローヴィス君が調べてあげたのかな?」
履歴書は文字が書けない隊員たちにも「自分の名前だけは書け」と教え、練習させて書かせた――彼らのサインの証拠になるということも考えてのこと。
「そのようです」
「間違っていないかどうか、総司令官に尋ねたりした?」
「いいえ。そのようなことで、お手を煩わせるわけにはいかないと。文字の対応表を作れば、あとは簡単なことですから」
「そうなんだ」
――リヒャルトに聞いたんだろうな
クローヴィスの性格上、使い慣れていない文字で名前を綴るとなれば、必ず確認する。それがどれほど簡単なことであろうとも。
クローヴィスの近くにいてルース語を使いこなせるのはキースだが、彼に聞かなかった。となれば、キース以上に詳しい人間に聞いたのだろうとテサジーク侯爵は推察し、その推察は外れてはいない。
「ネクルチェンコ隊で、少しブームになったと仰っていました」
クローヴィスが作った履歴書を堪能して仕事を終えたテサジーク侯爵――キースとは違い、日勤だけで定時には仕事を終えてホテルに引き上げ、夜間は親衛隊ではなく官房長官の護衛が付くことになっていた。
そのホテルにカールソンを呼び出し、履歴書について尋ねた。
「なにが?」
「名前をルース文字で綴ることです」
親衛隊には自分の名前のスペルが怪しい人間がゴロゴロいたが、ネクルチェンコ隊はヒースコート直属ということもあり、名前だけは全員書くことができた――名前を書けるだけ……と思われがちだが、この時代の識字率や就学率を考えれば、ネクルチェンコ隊の面々は優秀な部類だった。
そんなネクルチェンコ隊の面々でも、ルース文字で自分の名前を書いたことがない者の方が多い――前述の通り、親がルース文字を使えず、ロスカネフ王国ではルース文字は使われないのだから当然のこと。
「全員に練習するようにと、見本を書いて、廃棄用紙と鉛筆を渡したそうです」
ルース文字で書かれた自分の名前を、何人かの隊員が休みの日に実家へと持ち帰り「ルース文字では、こう書くんだよ」と教え――家族に「自分の名前はどう書くのか」と聞かれ、
「分からないので、皇妃に尋ねたそうです」
クローヴィスは「そういうことなら! 任せておけ」と、全員の名前のルース綴りにしただけではなく、父称なども教えた。
「教えたのはリヒャルト?」
「そのようです」
クローヴィスがルース文字が書かれた紙の束を持ち帰った日付を伝え、
「聞かれて、天にも昇る気持ちだったんだろうなあ。あ、帰っていいよ」
テサジーク侯爵は、呼び出したカールソンに帰るよう命じた。
その後すぐに日付を調べ――入浴を終えたテサジーク侯爵の元に、リドホルム男爵が報告しにやってきた。
「たしかにその日は、総司令官と双頭の鷲の会談がありました。人払いをして……とのことです」
「親衛隊隊長はその場に残ったわけだ」
「はい」
室内ではすぐに話を詰めて、残り時間はクローヴィスとリリエンタールの語らいに割いた――
「二人の時間を作った筈なのに、部下たちの名前を書いて欲しいって……でも、リヒャルトは喜んだだろうね」
「おそらく」
テサジーク侯爵は下がるよう手を動かし、一人きりになって、報告を聞く為に腰を掛けていたソファーの背もたれに体を預けて指を組んで目を閉じる。
脳裏にクローヴィスとリリエンタールのやり取りが見える……等ということはないが、やり取りしている二人の姿を、目を細めて眺めているキースの姿は思い浮かんだ。
――アーダルベルト君が丸くなったわけじゃない
キースとリリエンタールは仲が良くないのは、周知の事実……というよりも、キースの年代から上は、誰もがキースとリリエンタールのような蟠りを抱えている。
キースが特に目立つのはリリエンタールの副官を務めた経歴と、現在の国内の状況から頻繁に会談するところにある。
――”以前のキースなら、人を遣わせて終わり”……確かにその通り
政府と軍のトップの連携が取れているのは、有事においては心強いが、キースの性格からすると、礼を尽くすが連携はこれ程密に取らないと思われていたのだが、蓋を開けて見れば、自ら頻繁に足を運び昼餐も取る。
事情を知っている者からすれば、クローヴィスを伴う為に――とも言い切れない。
――親衛隊隊長なんだから、代理で向かわせることも出来るのに、わざわざ足を運ぶんだもん
毎回クローヴィス任せとはいかないが、頻度を減らすことはできる。それこそ「キースらしい」頻度に。
だがそうしなかった理由について、テサジーク侯爵は敢えて答えは出さなかった。ただ――ルース帝国に対し蟠りを持たない世代が、ルース移民の部下の心を掴み、そうでありながらルース帝国に対して蟠りを持つキースに配慮するその姿は、育ちの良さもあるが、クローヴィスが物心ついたころから、大きな侵略を防ぎ続けた有能な前戦の兵士たちの努力の結果。
”わたしは死ぬまでルースに対しての蟠りを消すことはできないが、次の世代にはこんな感情を持って欲しくはない”
当時恋人を失ったばかりの若い士官は、そう問いに答え――その最良の結果を目の当たりにし、彼は祝福できる男になった。
「君の十数年に及ぶ、努力が実った結果だね」
テサジーク侯爵は目を閉じたまま称賛を送った。