【200】deus ex māchinā「この物語は終わりにする」
仕事を終え帰宅したデニスは、まっすぐランドリールームへと向かい、そこで軍服を脱ぎ部屋着に着替える。
軍服をハンガーに掛けようとしたが、メイドのローズが受け取り、
「プレスしますので」
ズボンをプレス機にかける。
「カリナのブラウスか」
ズボンを手渡したデニスは、棚の補修が必要な服を入れる籠に、カリナのブラウスが入っていることに気付き手に取る。袖口のボタンが取れかけていたので、棚から裁縫箱を取り出し、椅子に腰を降ろしてまずはボタンと服を繋いでいる糸を外してから、針に糸を通して慣れた手つきで玉結びをしボタンをつける。
「ただいま」
ボタンを付け始めてすぐに、マナー教室からカリナと母親が帰ってきた。
「おかえり、カリナ。母さん」
ランドリールームから声が聞こえてきたことに気付いたカリナが、軽快に廊下を走り、ランドリールームに飛び込んでくる。
「ただいま、ローズ。兄ちゃん、カリナのブラウスのボタン、付け直してくれたの?」
「お帰りなさいませ、カリナお嬢さま」
デニスの手元には、自分のブラウス。
「うん」
「ありがとう。兄ちゃん、好き」
「兄ちゃんも、カリナのこと好きだよ」
手際の良いデニスは玉留めをし、ブラウスをローズに渡して、
「今日は兄ちゃんの蒸気機関車のお話、聞いてあげる」
「そう? じゃあさ――」
手を繋いで、リビングへと向かった。
**********
リリエンタールの城の玉座は、クローヴィスの警護を担当する親衛隊員たちに謁見した、ルース仕様のまま。
大理石の床に薔薇色の絨毯が敷かれ、壁紙も同じく薔薇色。圧巻のシャンデリア。そこに設えられたルース皇帝が座る玉座に、ルース帝国の皇帝ではない男が腰を降ろしていた。
皇帝ではない男、ルース皇太子オデッサことリリエンタールは、リリエンタールの私設軍の軍服を着用し、軍帽を被り、ルース帝国の毛皮紋様を施した金色の身長よりも長いマントを羽織り、膝丈のロングブーツを履いた足を組み、肘掛けに腕をかけ頬杖をつき、目を閉じている。
謁見の間にはアイヒベルク伯爵にヘラクレス、フリオにサーシャがリリエンタール私設軍の軍服を着用し並び、ヒースコートはロスカネフ王国軍の礼服を、ルッツはフロックコート姿で彼らと共に並び、そしてシャルルとスパーダは僧侶の恰好で玉座の側に控えていた。
リリエンタールがゆっくりと目蓋を開き――
【殺し合うような兄弟では、イヴが困るであろう】
いつも通りの抑揚のない口調で話し始めた。
【グレゴールを殺害するの?】
胸に金糸で聖印が刺繍されている純白の司祭服をまとい、金色の司教冠を被ったシャルルが確認の意を込めて尋ねたが、リリエンタールは黒い革製の手袋をはめた手を軽く払うように動かし――否定した。
【イヴはわたしの暗殺未遂現場に遭遇したであろう?】
【そうだね。そこでお前は妃殿下に恋に落ちた】
【ああ。よって、わたしの暗殺を企んでいる者がいることは、イヴに知られている。その主犯がグレゴールであることをイヴはまだ知らない。これは、いつものことなので、誰も主犯の名を口にしなかったからだが】
【まあね】
リリエンタールは頬杖を降ろし、肘掛けに指を乗せ軽く叩く。
【主犯についてイヴに教えることを禁ずる】
【分かった……言われなくても、言いませんけんどね。お前の最初の言葉じゃありませんけど、殺害計画を立てる兄と、襲撃の主犯を知っていながら、そいつに無関心のまま年金を与え続ける弟なんて、尋常じゃありませんから】
【致命的に仲が悪い兄弟だったわたしとグレゴールだが、今日からわたしとグレゴールは、一般的に悪い程度の兄弟となる。グレゴールはわたしの殺害計画など、未だかつて立てたことはない。分かったな】
【え……】
【わたしと交流のないまま、グレゴールには幸せに長生きしてもらう。もちろん、グレゴール本人の意見などは一切必要ない】
リリエンタールはケッセルリンク公爵を幸せにするつもりなどないが、世間的にケッセルリンク公爵が幸せだということにはできる。
クローヴィスが噂で小耳に挟んだ時に「閣下とは疎遠だけど、それで互いが幸せならいいか」と思わせるように――
【お前がそう決めたのなら】
【グレゴールはもう二度とわたしの暗殺計画を実行することはないし、いままでも立ててこなかったことになった。だがイヴに一度だけ、暗殺計画を見られている。そこで、いままでわたしの暗殺計画を立て、実行を命じていた人物が必要となる。その代役は共産連邦元帥のヨシフ・マルコヴィチ・クフシノフとする。そして、この先暗殺計画など立てられては困るので、ヨシフ・マルコヴィチ・クフシノフを殺害する】
ヨシフ・マルコヴィチ・クフシノフは共産連邦の元帥で――たまたま元帥になれただけで、マルチェミヤーノフやヤンヴァリョフのような士官学校を優秀な成績で卒業した、軍の専門家ではない。
行商人の息子で、親が軍に物資を卸していた伝手で指揮官の従卒に採用され、そこから頭角を現し、時流に乗って軍内で出世し、最終的には書記長リヴィンスキーの子どもと自分の子を結婚させ、元帥として盤石な地位を築き上げた。
【マルチェミヤーノフとリヴィンスキーの殺害は?】
クフシノフを殺害するのならば、マルチェミヤーノフやリヴィンスキーの殺害は取りやめるのかと思ったシャルルが尋ねるも、
【もちろん、その二人も殺害する】
リリエンタールは「お前は何を言っているのだ?」と――
【えっと……マルチェミヤーノフとリヴィンスキーの二人は、今回の戦いで始末するって言ってたけど、クフシノフはいつ頃】
【まとめて処分する】
【…………ま、まあ、お前だから、クフシノフくらい”ついで”程度で殺害できるんだろうけど】
シャルルは謁見の間にいる、軍事軍略にもっとも詳しいアイヒベルク伯爵に視線を向け――視線を受けたアイヒベルク伯爵は微かに頷く。彼は作戦の概要は分からないが、簡単に殺害できる状況になることだけは分かっていた。
【そもそも、なんでクフシノフなの?】
共産連邦の支配層の元帥たちを、いとも容易く葬り去れる――これに関してシャルルは疑いを懐いてはいないが、それでも驚いてしまうのは仕方のないことだった。
【あれは、マトヴィエンコの弟子と繋がりがある。グレゴールほどではないが、物事を占いで決めてきた】
クフシノフは為政者には珍しくない、政治に占いも絡める人間だった――ケッセルリンク公爵ほど行きすぎてはいないが。
ケッセルリンク公爵が大陸で最も古い家柄の当主の座を、父ゲオルグから引き継げなかった理由は”占い”。
彼があまりに占いに異存しているので、占いで物事を決めることのなかったゲオルグはケッセルリンク公爵ではなく、自分に似て占いを全く信じていない息子リリエンタールに、その地位を継がせた。
【いつかイヴに過去の暗殺未遂事件について話す場合、占いに傾倒している者が起こした事件だと説明する必要がある。なにせそうでなければ、普通はしないような計画が八度もあったからな】
【回数まで覚えているんだ。相変わらず凄いな】
【イヴが軍人でなければ、誤魔化しもきくが、イヴの優秀さと向上心から誤魔化しきるのは難しい。お前ならば、騙せるのだがな、シャルル】
【それは簡単に騙せるでしょうね。クフシノフがマトヴィエンコの弟子と繋がりがあり、占いで物事を決めていることを、共産連邦の上層部は知っているってこと?】
シャルルはクフシノフが占いを重用していることは知らなかった。だがこの作戦を遂行するためには、クフシノフが占いを用いていることを、客観的に証明する人物が必要になる――共産連邦の上層部がその役割を担う。
【知っている】
【そうなんだ。マルチェミヤーノフとかヤンヴァリョフは、あまり好きそうではないけど】
【嫌いだな。だがクフシノフはマトヴィエンコの隠し財産について、もっとも近い場所にいて、リヴィンスキーがその財宝を欲しているので、二人とも表立って糾弾はしない】
【マトヴィエンコの隠し財産?】
【クフシノフの元にいるマトヴィエンコの弟子たちが、マトヴィエンコの息子は隠し財宝の在処を知っていると、あれ達に伝えたのだ】
クフシノフ子飼いの占い師は、マトヴィエンコの弟子に当たる者たち。上手く戦乱をくぐり抜け、クフシノフの元にいる。
【その息子は本当に、隠し財産を在処を知っているの?】
【知っている】
【断言するってことは、もしかして……】
”遺産など、どうでもよい”。この世界には、自らの莫大な遺産の在処を知りながら、全く興味を持たない人間がいる――シャルルの隣に。
【ああ、お前の想像通り、わたしがマトヴィエンコの息子の一人、ガヴリイル・ゲオルギエヴィッチ・チャズロフに教えてやった】
マトヴィエンコはルース皇女たち以外にも、大勢の愛人を囲っており、それらの愛人は皇帝の居城に飼われていた。愛人たちの中には、昔からの女性も多く、子連れで皇帝の居城ウラジミール宮殿に住んでいた。
リリエンタールは彼らを全員”一瞥”したので、容姿は完璧に覚えている。名前に関しては、宮殿に入れる際に「侍女」という名目にしたので名簿があり、それに目を通している。
そこから姓で出身地を割り出し、同じように顔つきなどの容姿の特徴から、姓と対応させ当て嵌めた。
それを聞いたテサジーク侯爵が調査した結果、外れはなかった――多民族国家の皇帝になるのに相応しい能力を持ったリリエンタールらしい逸話だが、リリエンタールの能力を知っている人たちからすると、驚くには驚くが「できるだろうな」と。
【ぅわぁぁ…………え、待って……息子の一人ってことは、他にも息子がいるの?】
子どもの方はもっと簡単で――リリエンタールにとっては、だが――父親の特徴を取り除けば、母親はすぐに分かったので名前を調べるのは造作も無いことだった。
数名マトヴィエンコの特徴がない子どももいたが、リリエンタールにとっては、関係のないことだった。そして子どもたちの多くは、混乱期に殺害された。
【いる。ルスラーン・バラバノフ。いまはイリヤ・カガロフスキーと名乗らせている】
【名乗らせて、いる?】
【そうだ。ルスラーン・バラバノフはガヴリイル・チャズロフとは違い、父親のマトヴィエンコに似ている。マトヴィエンコを知っている者が見れば、気付く程にな。よって生かしておけば、なにかに使えるかと考えて、フランシスにルースの孤児院に預けるよう指示した。その際にイリヤ・カガロフスキーという名も与えておいた】
【へ、へえ…………お前、なにしてるの?】
あまりの情報の多さに、シャルルは思わずそう呟く――
【世界を滅ぼそうと思った。滅ぼすというほど、積極的なものではない、滅んでいけばよいと……だが、止めることにした。だから怪僧マトヴィエンコの亡霊一味は要らぬ。クフシノフもろとも消す】
本来であれば二十年前に、皇太子だったリリエンタールに殺害されていたマトヴィエンコの一派――もう昔のことなので、無事に逃げ切ったと信じ切っている彼らの人生は「彼らにとって」突然終焉を迎えることなる。
――陛下にとっては、得意の占いで危険を回避するがよい……なんだろうけど……無理だよな
クフシノフが占い込みで最良の行動を取った先に、絶望しかない状況に追い込まれることをは、軍事に詳しくないルッツでも分かる――占いの範囲内でしか作戦を立てられないクフシノフは、位置と時間をリリエンタールに簡単に割り出され、最高の策で蹂躙される。
――クフシノフだって分かっているだろうし、マトヴィエンコの弟子たちも分かっているだろう、黒魔術だとか占星術では陛下に簡単に読まれてしまうことは。でも、強大な皇帝に立ち向かう時、最後に頼るのは……クフシノフは占いなんだよな
ルッツは憎悪の対象であるマトヴィエンコ一派が一掃されるのは嬉しいが、一掃の規模があまりにも大きいと、思わず躊躇ってしまうことを、この時、身を以て初めて知った。
【リーンハルト】
【はっ!】
【クフシノフを討て】
【畏まりました。クフシノフが率いる軍はいかように?】
【壊滅以上で構わぬ】
【御意】
【クフシノフが軍を展開するポイントだが、おそらく――】
リリエンタールは経度と緯度を告げた。
【詳しくはイラリオンに聞け。割り出せるな? イラリオン】
【御意】
リリエンタールの言葉を受けて、ルッツは軽く頭を下げる。
【その場所って、特に何もないよね? それが占いの結果だってことは分かるんだけど、そもそも出てくるの? お前に呼ばれて出てくるほど、クフシノフは自分の強さを過信していない筈だよ】
クフシノフは自らが、ヤンヴァリョフやマルチェミヤーノフに指揮官として劣ることを知っている――クフシノフはリリエンタールと戦ったことはないが、前者の二人が手も足も出なかったことを知っているのだから、誘ったところで国から出てこないのではないか? というシャルルのもっともな問いに、リリエンタールは軍帽を黒い革手袋で覆われた手で押さえながら、シャンデリアを見上げ、
【アウグストだ。あれはこの前、ロスカネフ王国を通って共産連邦に入った。アウグストの目的は分かっている。クフシノフに大軍を率いらせ、わたしと戦わせる。それが目的だ】
口の端を少しだけ上げて語った。
【アウグストか……アウグストなら、出来るだろうけど……】
【ヘラクレス、リーンハルト。アウグストが、わたしの為に、敵軍を少なくするよう動くと思うか?】
アイヒベルク伯爵は無言で首を振り、ヘラクレスは首を振ると共に手も軽く振り否定する――そしてわざわざ共産連邦に足を運ぶ理由として、これ以上ものはなく、これ以外なかった。
【アウグストは己の一割強の能力を使って、ヨハン・マルコヴィッチ・クフシノフを動かすであろう。わたしにぶつけたら、面白そうだという理由で】
【面白そう……な。うん、そういう理由で動く奴だよ】
【そしてリヴィンスキーとわたしの対面を、絶対に阻止しようとするヤンヴァリョフを動かすのはヴィルヘルムだ】
シャルルはその時、並んでいる彼らに視線を向けはしなかったが、アイヒベルク伯爵はゆったりと何度も頷き、ヘラクレスは額に手を当てて俯く。
【あー……もう、うん、そうだな。あの二人ならやるな。お前の本気を見たいとか言って】
【シャルル。わたしは、この程度では本気を出さずとも勝てるぞ。あいつらもそれは分かっている。だから、仕込むだけで、その時が来た時には自国でいつも通り過ごしていることだろう】
【勝てるんだ】
【わたしは戦争が、人より少しばかり上手いからな。酷い表情だぞ、シャルル。キースも同じような表情になったが】
【お前の恐いところは、慢心しないところだよな】
【慢心などするはずなかろう? わたしは、本当に人より少し戦争が得意なだけなのだから】
【そういうことにしておいてやるよ。ということは、生き残るのはヤンヴァリョフだけか】
【そうだ。三月戦争で小突いた詫びとして、政敵を葬ってやる。セリョージェニカも喜ぶであろうよ】
軍帽から手を離し、両手を広げて語ったリリエンタールだが、それが本気なのか、冗談なのかその場にいた者たちは、判断がつかなかった。ただ、彼らには分かった――ヤンヴァリョフは決して喜びはしない。
あの日と同じく、降臨した皇帝に、恐怖に震える憐れな農奴になるだけだと――
【そうだ、レイモンド。マトヴィエンコの残党どもと、ロスカネフ王国の朝露の残党どもが繋がっているのは教えたな】
【はい】
【マトヴィエンコの残党を処理するついでに、朝露の残党どもも処分する。残して欲しい者たちはいるか?】
マトヴィエンコ一派を一掃する作戦の一環として「朝日を受けた百合の朝露」と名乗っている神秘主義集団の逃げ道を残すが、残される逃げ道はロスカネフ王国ではない――彼らと繋がりのあるセイクリッドたちがいる、元フォルズベーグ王国へ誘導する。
その為にも、ロスカネフ王国にいる「信じている」者たちを片付ける。
【そうですね……妃殿下の副官を務めているエクロースの息子は?】
ヒースコートの親族はいるが、既に神秘主義からは距離を置いている――
【あれは生かしておく。望めば改名してやってもよい】
ウィルバシーはクローヴィスがしっかりと認識しているので、処分されないことは分かっていたが、敢えてヒースコートは尋ねた。
【では、彼を養子に迎えたいと思います。ウィルバシーに直接交渉いたしますが、他の雑事はお任せしてもよろしいでしょうか?】
【構わぬ】
その後、以前共産連邦に潜入したリドホルム男爵が描いた「現在のルスラーン・バラバノフ」の似顔絵が配られた。
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「ただいま」
「姉ちゃん! お帰りなさい! ウィルバシーさんも、お帰りなさい!」
クローヴィスの帰宅に走って玄関へとやってきたカリナの後から、クライブがやってきて、
「スタルッカさま、着替えの補助をさせていただきます」
「世話を掛ける」
「そんなことは、ございません」
ウィルバシーの上着を脱がせる。
「姉ちゃん、あのね――」