【199】百合の朝露が夜明けの光を受けて煌めくように
少し時が戻って――【196】総司令官誘拐阻止戦・後処理7からの続き
「今回の一件はクローヴィスとサーシャが本部に戻ってきたおかげで、被害を最小限にすることができたが…………」
結果が最良だったからと言って、不問にはできない問題に、矮小な嫌がらせをする思考を持たないキースは”知ってはいるが、聞かされると……”とばかりに、小さく溜息をつく――
「話は変わりますが、ヴォルフガング・ヴァン・ホランティに関してお話が」
ヒースコートは空になった自分のグラスを、机に置く。
「ホランティがどうした」
キースはワインボトルを手に持ち、尋ねもせずにヒースコートのグラスにワインを注ぐと、ヒースコートは軽く挨拶するようにして感謝をしてから、口元へと運ぶ。
「ちまちまと北部の軌条を共産連邦仕様に変更していた、実行犯でした」
北方司令部の司令官になったヒースコートが探し出した、共産連邦側についていそうな士官たちの一人ホランティ少佐。他にも二名いたが、そちらに関しては「殺害しても構わない」と、既に報告していたリリエンタールに言われたので、ヒースコートはさっさと処分していた。
「実働部隊のトップということか。それで指揮官にあたる奴は?」
以前自分が司令官を務めていた司令本部での出来事で、事態としては当時の司令官ことキースが責任を取って総司令官の地位を退いてもおかしくはない程のことだが、リリエンタールとしては、次の大統領に就任するキースの経歴に傷がつくのは困るので「なかったこと」で進めるつもりだった。
「ファンボール伯。特に面白みもなにもない、最初から犯人だと思われていた人物です」
「レニーグラス地方を治める伯爵だったな」
キースも司令官として何度か顔を合わせたことはあるので、伯爵の容姿などは覚えているが、交流などはほぼない。
「はい。ところで総司令官閣下に少々お尋ねしたいのですが、六~七十年ほど前に我が国の王侯貴族の間で流行した、オカルト集団についてご存じでしょうか?」
王侯貴族が占星術などの占い師を抱えるのは、珍しいことではなく、ロスカネフ王国内にも大勢いる。
そのお抱え占いを生業としていた「何者か」が、変わった教義のようなものを打ち出し、それがロスカネフ王国の支配層に広まった時期があった――ヒースコートが言う通り六~七十年ほど前のことだった。
「叔父に聞いたことがある、百合がなんとか……という名称の神秘主義集団だったと。イェルムの名前もそれの影響だと本人から聞いた」
西方司令本部を預かっているヴァン・イェルムの本名は”ウルファンシャディ”。
ヴァン・イェルムはこの名を好まず、普段はロスカネフ王国によくいる「ミカ」と名乗っている。
だが正式な名前は”ウルファンシャディ”なので、公式の書類にはそのように署名せねばならず――キースは北方司令部の司令官だった時に、ヴァン・イェルムからの書類を見て、
「二日酔いかなにかで、豪快に名前を書き間違ったのかと、無線で尋ねた。後日、イェルムから事情と謝罪を認めた書類が届いた」
その時に、キースは亡き叔父との会話を思い出した。
ちなみに”ウルファンシャディ”は文字だけではとても発音できず、無線越しではとても拾い切れなかったので、後々の直接顔を合わせた際に、本人の口から聞かせてもらった。
自らの本名を発音している時のヴァン・イェルムの顔は、余程のことがないかぎり表情など変えない、軍人らしい彼らしからぬ、羞恥まみれで耳まで朱に染まり――よほど嫌なのだな……とキースは、少しだけ同情した。
「貴族ですと、暗黙の了解ですので」
この変わった名前こそが、ロスカネフ王国の支配層に浸透したオカルト集団「朝日を受けた百合の朝露」を信じている者たちの特徴だった。
「そのようだな」
ヒースコートからかつて流行したオカルト集団の名を聞いたキースは「その名称、もう少しどうにかならなかったのか……」と――
「ちなみにファンボール伯の名前は”オルヴィンシュ”」
ファンボール伯爵は軍人でもなければ、公職にも就いていないため、キースが名前を確認する機会がなかったので、この時初めて知り、机の引き出しからノートを取り出し、食べかけの料理が並ぶ机に軽く叩きつけ、万年筆を差し出す。
レイモンドはワインを片手に、ファンボール伯爵の本名を綴る――
「名前の綴りも発音も、一度で覚えられる気がしない。変わった名前を付けるのは構わんが、短くできなかったのか」
見慣れない文字に並びに、ヴァン・イェルム大佐の綴りを思い出し、苦笑いを浮かべる。
「短い名前では、オリジナリティを出せなかったのでしょう」
「要らんオリジナリティだな」
総司令官にして軍務大臣になったキースは、貴族からの書類を受けることが多くなり「どうやって発音すんだよ、これ。この綴りで正しいのか? 貴族名鑑を開いて綴りを調べなけりゃならんのが、面倒だ」と内心で呟くサインを見る回数が少しだけ増えた。
「わたしは、カルシーヴァスと名付けられていました」
「……お前、本名はカルシーヴァスなのか?」
ヒースコートの突然の名乗りに、酒を口へと運んでいたキースは動きを止めた――ヒースコートが提出する書類は、全てRaymondとサインされており、やはり聞いただけでは綴りが分からない「カルシーヴァス」などとは書かれていなかった。
驚いているキースの前で、ヒースコートはカルシーヴァスと読めなくもない、不思議な名前を綴った。その文字の運びは、書き慣れているのが見てとれた。
「いまは本名ではありません。ルースの士官学校に入学した頃は、カルシーヴァスでしたが、リリエンタール閣下に改名していただきましたので」
公文書のサインは、正式な名前で行わなくてはならない――この正式な名というのは、教会に届け出て「神に」承認された名前のことで、霊名とも呼ばれる。
公文書のサインは、神に誓った名で行うことが憲法で定められている。その為、ヴァン・イェルムはどれほど嫌でも、自分の正式な名前でサインしなくてはならないのだ。
「改名には教会に桁外れの献金が必要なはずだ。お前の実家でも支払いきれないのでは?」
それほど嫌ならば改名をすれば……とは誰も思わない。
神に届け出ていない名前ならば、好きに変えられるが、神に誓った名前を変えるのは、当然ながら聖職者に手続きを取って貰う必要があるのだが――洗礼や霊名などは、街の神父でも可能で、料金も庶民でも支払えるよう設定されている。
だが霊名の改名となると、大司教以上の聖職者に依頼しなくてはならない。その他、様々な手続きなどが必要で、それらには莫大な手数料がかかる。
ヴァン・イェルムが改名しないのはそういう理由であり、改名できない理由はキースも聞かずとも分かった――この世界の、常識だった。
「リリエンタール閣下の作戦を遂行し、完遂した報酬として改名していただきました。小官は優秀な軍人ですので、改名に必要な料金以上の働きをしましたから」
「それに関しては、誰もが認めるだろうよ」
ヒースコートの自信に満ちあふれた笑顔に、キースも同意する。
「それで、ヴォルフガングの話に戻りますが、息子が完全にその系統の名前でしてね」
ホランティ少佐は婚家の力なども使い、出世しようと有爵貴族の娘と結婚したのだが――借金まみれどころか、ほどほどに裕福な貴族の娘が、士官ではあるが貴族ではない男にヴァンの称号をわざわざ与えて嫁がせたのは、妻の実家が「朝日を受けた百合の朝露」を未だに信じていることが原因だった。
「ホランティ夫人はまだソレを信じていると?」
ホランティ少佐の本名ヴォルフガングは珍しい名前ではないので、当然妻側がそうなのだろうと。
キースは残っていたチョコレートをつまむと、器用に親指で弾き、ヒースコートは事も無げにキャッチし、口へと運ぶ。
「そうです。ヴォルフガングは結婚するまで知らなかったようで」
ホランティ少佐も、このカルト集団も変わった名付けも、最近では嫌われていることを知っていたのだが、そこを見逃してしまった。
「この変わった名前は、男だけだったな」
気付かなかった理由は、特殊な名前が付かないのが一つ挙げられる。
この見慣れない名前は、男にしか授けられないので、結婚証明のサインをしても気付けないのだ。
働いていない女性が公的な書類にサインをするのは、結婚証明が最初で最後という時代背景もあり、ホランティ少佐はサインしても気付けなかった。
妻の男性親族はというと、ヴァン・イェルム大佐と同じく、普段は別の名前で通しているので、そこでも気付けなかった。
この変わった名前は、その集団の高位の占い師から貰うもので、当然ながら寄付をしなくてはならない。寄付額は定められてはいないが、高額寄付のほうがよいのは、そういったことと無関係で生きてきたキースでも、手に取るように分かる。
「ええ。あれにはまっていた、エフェルク家の系譜を見れば、それは一目瞭然かと」
そしてこれがロスカネフ王国内で広まった理由の大元が、王家のエフェルク家――ノルトークスやガイドリクスという他では見ない名前の王と、アレクサンドラという珍しくない名前の王女が混在している理由だった。