【020】閣下、初デートを終える
[もう薬を口移しで飲ませることも出来ぬしな]
生命力溢れるクローヴィスは、軍医の見立てよりもかなり早くに顔の腫れが引いた。それにより「お手数をおかけいたしました!」と ―― エメラルド色で透き通った瞳は、リリエンタールの内心渦巻く不可解な感情など知らず、更に本心から感謝を込めて礼を言われ「そうか、それは良かった」リリエンタールはそう返すことしかできなかった。
[そうですね。あなたがあんなにも姑息だとは思いませんでしたが]
[わたしも驚いている]
[とても驚いているようには見えませんが]
リリエンタールと執事がそんな話をしていると、フリオから「ドレスが完成しました」との報告があったので、二人は工房として連結されている車両へと足を運んだ。
身分に合った格好が求められるリリエンタールは、もちろん大量に服を積み込んで移動しているが、時と場合によって新たな装いが求められることがあるので、仕立工房にした車両も用意されている。
急ぎを前提としているので仕立てができる男性が、フリオを含めて五名ほど待機している。
五名は多い。二人もいれば充分だが ―― サーシャがスパイ活動をするための服を作ることもあるので、それらを考えて五名ほどが控えている。
【なにを使ってもいいと言われましたので、祭服用の生地を使わせていただきました】
リリエンタールは基本、燕尾服かフロックコート、たまにタキシードなので、華やかな布地と無縁なのだが、聖職者でもあり、たまに祭服を仕立てることもあるので、手元に最高級の華やかな生地が常備されている。
【聖誕祭当日のミサで枢機卿が使用する淡い水色の生地を使用しました】
フリオが使用したのは生地のなかで、もっとも高級なリリエンタール用に織られたダマスク織。
男の服しか作らない空間だが、幸いにもクローヴィスはリリエンタールとさほど身長が変わらないので、リリエンタール用のトルソーを使い作業をすることができた。
シンデレラのガラスの靴のように分厚いクッションに乗せられている、ドレスと同じ布を貼られた靴。
額の傷を隠せるよう作らせたヘッドドレス。
そして七分袖のドレスと、最後の仕上げをしている純白の手袋。最高の技能を持った仕立て屋が、最高の素材で作り上げたそれ ――
【デザインはよいが……地味ではないか?】
リリエンタールはドレスを嫌というほど見て来ているので、どうにも地味なドレスにしか見えなかった。
作らせたのは昼の正装なので、宝石での装飾をしないのは構わないが、
【そりゃ仕方ないでしょ。だってこの列車には、レースもフリルも積んでませんから】
レースやフリルを昼のドレスに使うのはドレスコードに則しているので、彼が見る昼の正装は、大体レース、フリルで飾られている。
だがリリエンタールの正装をメインに作る車両工房にそれらの在庫はない。なにせリリエンタールの服はレースは使わず、枢機卿の祭服用生地はフリルには全く向かない。
【……】
【理由をつけて王女の荷物でも押収します?】
幸い ―― と言うべきかどうか? 今回は帰国するマリーチェが大量の荷物を積み込み乗り込んでいるので、その中の幾つかを取り上げれば、手に入ると執事が提案する。
【……わたしが女性ファッションについて語るのもおかしいが……マリーチェの好むレースはあの娘には似合わない気がする。更に言えば、このドレスにも】
だがリリエンタールは難しい顔をして拒否した。
【あなたにもそういうセンスあったんですね。フリオ、到着したら急いでアンティークレース買いつけに行きなさい】
執事という役職柄を演じるために覚えた女性の被服の常識や、磨いたセンスを持つシャルルが「合格です」と ――
【はい】
【申し訳ございません】
このやり取りを側で聞いていたサーシャが控え目に割り込む ―― 皇族と王族と王の庶子の会話に割り込むようなことなどしたくはないサーシャだが、ここは意見を伝えたほうが、後々のことを考えていいだろうと ――
【クローヴィス少尉は可愛いもの、フリルやレースを好みますが、身につけて人前に出るのを嫌がります。本人はあの美しさですが、男性に間違われる顔だちを気にして、外では男性と勘違いされる格好をしたがる傾向です。いきなりリリエンタール閣下に呼び出されフリルとレースでふんだんに飾られたドレスを渡され、それを着て出かけるぞと命じ……言われますと、リリエンタール閣下に対して距離を置きたがってしまうかと】
クローヴィスがリリエンタールから逃れることはできない ―― これは事情を知っている人間たちにとっては事実。
クローヴィスがリリエンタールを好むかどうか、現時点では分からないが、できれば友好な関係を築けるよう、手を尽くすのは家臣の役目。
サーシャの言葉を聞いたリリエンタールは少し沈黙し、
【フリオ。レースやフリルをつけず、そのままでも問題ないか?】
【それは大丈夫です】
【そうか。ではその方向で】
【サーシャ。少しくらいはレースを使っても? この状態のヘッドドレスだけでは額を隠せないので、レースをぐるりと回すつもりなのだが、それは?】
【着用してもらう際に、額の傷を隠すためと言えば。ただあまり可愛らしいものは……本人はかなり好きなようですが、過去に何度も嗤われたことがあったようで】
クローヴィスを嗤った者たちは、心から似合わないと思っていたのではなく ―― あまりにも似合っていて美しくて照れて恥ずかしかったのを隠したかったから……という身勝手な理由で罵った。
【そいつらのせいで、わたしはあの娘にレースとフリルがついた服を贈れぬのか?】
工房の空気が五度くらい下がり、重力が五割増したかのような圧力が全員にかかる。どちらももちろん気のせいだが ――
【わたしが言えることは、そいつらをフランシスに調べさせ殺したところで、レースやフリルを着てくれるようになるわけではないってことだけです】
**********
列車は無事にアディフィン王国の首都に到着し、マリーチェを国王夫妻に引き渡し ―― 頬杖をつき、目を閉じて眉間に縦皺をよせて国王が述べる感謝を完全に無視して、クローヴィスとランチを共にする際、どのような会話をすべきか? をリリエンタールは考えていた。
この時もリリエンタールは、過去寵妃が最終的に何を欲しがり、王が何を与えたのかを例とし、
”どの国の寵妃も最終的には政治に参加したがる。話題は政治にして……”
口に出したら執事やヒースコートに「やめなさい・お止めになったほうが」と言われる内容をランチの話題に選んだ。
リヒャルト・フォン・リリエンタール、彼は類い稀な頭脳を持っており、強靱な精神力をも持ち合わせている、孤高の支配者だったため ―― 人に相談するという考えが希薄だった。
なにより、
”レイモンドは手慣れた女との恋愛を好むし、シャルルは……わたしと似たり寄ったりだろう”
ヒースコートはともかく、執事はリリエンタールと同じく「年齢=恋愛経験無し歴」 ―― 婚約者だけはいたことがあるのだが、それは政略上なので論外。それ以外の女に好意を持ったことも、好きで囲った経験も二人にはないので、意見を求めるだけ無駄だろうと判断した。
リリエンタールと執事、どちらも生まれながらの王族だが「人間っぽさ」という点では、執事のほうが遙かに上。その人間っぽさは庶民にも少しは通じるので ――
『リリエンタール閣下はどちらへ向かわれるのですか?』
リリエンタールがどの国へ向かってもいいように、一時ブリタニアス君主国へ帰国して領地を見て回ってから、出立に遅れて置いていかれたら困ると急ぎアディフィン王国へとやってきたハクスリー公爵ヒューバートだったが、
<ロスカネフに引き返すようですよ>
『へ?』
執事からそう聞かされ ―― 更に事情を聞かされ、クローヴィスの姿を覗き見て、
『たしかに凄く美しいですけれど…………庶民なんですよね』
身分はどうするのですか? と、シャルルに尋ねた。
リリエンタールは一国の君主の娘以外とは結婚できない。そしてそれほどの君主ともなれば、愛妾も相応の身分が必要になる。
アブスブルゴル帝国現皇帝の兄は、男爵令嬢と恋仲になったものの、貴賤結婚禁止の国の皇太子の愛人が男爵令嬢など許されることではなく ―― 二人は結ばれぬことを悲しみ、無理心中をはかったとされているが……という出来事があった。
リリエンタールはこの出来事に登場する皇太子よりも身分が高く、クローヴィスはこの出来事に登場する男爵令嬢より身分が低い。
<あの人なら力業でなんとかするでしょう>
そして運命の日 ―― かなり一方的な初デートの日が訪れた。
サーシャに上手く言いくるめられドレスに着替え、ヒースコートに「似合ってるぞ」と背を押され無蓋馬車で市内観光を。
<ちょっと待って、どういうこと? なにあの賢すぎて嫌になる男、裁判所とか市庁舎とか案内して、なにするつもりなの?>
正式な紳士の格好をしオペラグラス片手に、二人の跡をつけていた執事が「どんなデートコースだよ」と、半ば怒りを込めて悲鳴に似た疑問を虚空にぶつける。
『えっと……』
執事が乗っている馬車の手綱を握っているハクスリー公爵も「これ、デートコースなの?」とは思ったが、言葉を濁した。
執事がひたすら「アホなの? バカなの? 天才のくせして、バカってどういうことなの?!」と呟く馬車は、ランチを取るためにシャルルが予約したレストランに入るまで続き ――
<お前、バカだろ!>
帰宅後、レストランでどんな会話をしたのか尋ねたところ、
<長き歴史を紐解けば、寵妃の最終目的は政治だ。だから政治に興味があるか? また政治を執れるだけの知識はあるかを確認……>
個室にて美味しいノーセロート料理を前に、民主主義政治について話をしたと聞かされて、
<ばーかー!>
執事は頭を抱えた。
<あの娘の知識は見事なものだった。とても専制君主国家の軍人とは思えぬ。あの知識、どこで学んだのか>
そんな執事を全く気にせず、リリエンタールは会話によりクローヴィスの謎の部分に僅かに触れられたことに喜びを感じていた。
そう、現時点でロスカネフ王国は専制君主国家。
少尉という地位のある軍人なので異国の書物に触れ、民主主義国家や選挙などについて知っていてもおかしくはないが、クローヴィスの知識は一般人のそれを凌駕していた。
その知識は前世のもの ―― 学校で学んだ教養レベルの知識であろうとも、テレビのクイズ番組で得たマメ知識でも、この世界の庶民のものとしては破格。
専制君主制から立憲民主制へと国体を変えるための根回しができるリリエンタールには遠く及ばないが、
<賢くて良かったですね>
<ああ>
<……ばか、嫌味だよ……>
リリエンタールの心を掴み喜びをもたらしたのは事実だった。
ここまでは良かったのだが ―― サーシャにデートをどのように感じていたかを調べてくるよう命じ、成された報告は、
【デートコースは概ね楽しかったようですが……ランチはややご不満だったようです】
【口に合わなかったのか?】
【いいえ。とても美味しかったそうですが”アディフィン特有の高級料理が食べたかったな”……そう仰っていました】
上流階級のもてなし料理といえば美食大国ノーセロートのフルコースが一般的。
クローヴィスもそれはそれで、とても美味しかった ―― 緊張してやや味が分からない部分もあったが、とりあえず美味しかった。
だが出来るなら、アディフィンでしか味わえないアディフィン料理を味わってみたかった ――
【そうか……せっかくのメインが楽しめなかったとは】
無難な最高級料理を望んでいなかったことを知り、リリエンタールは己の不甲斐なさに眉間を指でつまみ ――
【美味しかったと仰っていました】
【だが希望を叶えられなかった……あの娘の思考をもう少し読んでいれば……】
二人の会話を聞いていた執事が指摘する。
<あんた、気づかなかったの? あの娘さん、あんたの目の前に座って食べてたのに、気づけなかったの? あんたが? 読心術を使いこなせるとまで言われ、畏れられているあんたが?>
<……>
フルコースランチをとっている時間があれば、気づけた ―― 普段のリリエンタールであれば。
<ふふ……失敗したものは仕方ないですよね。これからは、あの娘さんの希望にそえるよう、外国に連れていった際は、郷土料理を楽しんでもらいましょうね>
<そうだな……郷土料理か……食べたことはないな>
<あんた、興味ないからね。そういうの>
あの娘ことクローヴィスを連れてどこへ行こう ―― いままで行きたい場所がなかったリリエンタールだったが、何処へでも行ってみたいと。
余談になるが、
「相変わらずこの国の食事は分からん」
「本当に。なんでこんなに洗練されないの?」
結婚後、ブリタニアス君主国へと行ったとき、謎の郷土料理トーストサンドイッチを出されたのは、この出来事が理由だった。リリエンタールも執事も、ソイツを美味しいとは思っていなかったが、クローヴィスの為にと ―― 良かれと思ってのことだった。