【018】至尊の座を狙ったものたち・02
次の神聖帝国皇帝フォルクヴァルツ選帝侯は、外務省でハンググライダーの図面を前に、様々な計算をしていた。
優秀でやり手、仕事をしていないようでしている ―― ロスカネフ王国の諜報部門トップのアルドバルド子爵と似ているし、影の責務も同じ ―― 唯一違うのはアルドバルド子爵は完璧に優秀さを隠していることくらい。
アルドバルド子爵に言わせると、フォルクヴァルツ選帝侯は彼よりも数段優秀で、その才能はリヒャルトに近い ――
フォルクヴァルツ選帝侯に言わせると、アルドバルド子爵は諜報に必要な全てを持ち、それ以外のものは所持していないが、自分は諜報に必要なものは八割程度で、それ以外のものを多く持ち合わせているので総合的には優秀だが「諜報・防諜」だけで競えば負ける。
この二人はリリエンタールをして「世界の諜報の双璧」と言われる――
【閣下!】
豪奢な扉を乱暴に開けた部下が、息を切らして飛び込んできたが、フォルクヴァルツ選帝侯は設計図から視線を上げることはなかった。
彼が掴んでいる情報の中に、近況で世界を揺るがすような出来事はなかったので、部下が焦っているだけだろうと。
【アイヒベルク伯爵閣下が正統宗主軍を伴って、我が国の国境を越えました!】
部下の報告を聞いたフォルクヴァルツ選帝侯は図面から視線を上げ、
【……はぁ? もう一回言え】
聞き間違いか? と、もう一度報告するように命じた。
【はっ! アイヒベルク伯爵閣下が正統宗主軍を伴って、我が国の国境を越えました!】
部下は先ほどと全く同じ報告をし ―― フォルクヴァルツ選帝侯はこの時点でも、まだ誤報ではないかと疑っていた。
ケッセルリング公爵がリリエンタールを殺害しようとしているのは知っている。
先日もリリエンタールを殺害するために、下らないことをしているのは掴んでいたが、いつも通り無視していた。
リリエンタールはケッセルリング公爵のことをとことん無視しているので ―― もう少し構ってやれば、ケッセルリング公爵も大人しくなるだろうとは思っているが、騒いでいたところでリリエンタールの相手にもならないので、放置していた。
【アイヒベルクはまっすぐ首都を目指しているのか?】
【いいえ。マンハイム地方に入り、ラヒェンド邸を襲撃し、王都方面へと向かう路線を押さえて出ていったと、マンハイムの行政長官より連絡がありました】
マンハイム地方にはケッセルリング公爵の邸・ラヒェンドがある。現在ケッセルリング公爵はそこにいないが、公爵の手足となって働いている……公爵の意を受けて動く際に、威光を笠に着て暴虐を働く人物が滞在していた。
ヨリックにリリエンタール暗殺を持ちかけた人物でもある。
【シャルルが負傷したとも聞いてねえしなあ……】
リリエンタールの行動は「先の襲撃に対する報復」と判断するのがもっとも適切なのだが、リリエンタールが報復をするような人間ではないことをフォルクヴァルツ選帝侯は知っている。
ただ数名だが、怪我を負わされた場合、その相手に「懲罰」を加えることもある。
その筆頭がシャルル ―― パレ王家の末裔。リリエンタールと付き合いの長いフォルクヴァルツ選帝侯としても、挙げられるのは彼くらいのもの。
もちろんその場にいない人間も含めていいのならば、ブリタニアス女王や、教皇なども含めることができるが、この二人がリリエンタールと行動を共にしているとは聞いていないし、この二人は隠れて国から出られるような身分ではない。
【報告はありませぬが】
【そうだな。理由は分からんが、それが事実なら、神聖帝国は遂に終焉を迎えたのかもしれないな】
【閣下!】
滅多なことを言わないで下さいと、部下が忠言する。
【リーンハルトが軍を率いて国境を越えマンハイムに入ったという報告がこの王都に届いた時点で、終わってるってことだからな……アントンの奇襲は終わった時にやっと気付ける……よく知っていたつもりだったが、実際自分が食らうと、意味が分からんな】
後々これが「イヴの顔を傷つけた首謀者だから、ぶん殴ろうと思った。あと額にも傷を付ける予定」という理由だと知り”分かるわけねぇなあ”と、フォルクヴァルツ選帝侯は呟くことになる。
【閣下……】
【リーンハルトは奇襲の名人だからな。手遅れ感しかないが、とりあえず、仕事をするか】
フォルクヴァルツ選帝侯はハンググライダーの図面を片付け、情報収集を命じ、同じく選帝侯であり神聖帝国皇帝の弟ノークス大司教に連絡を入れ、神聖帝国皇帝コンスタンティン二世と面談した。
【あのバカが】
フォルクヴァルツ選帝侯から進軍の報を聞いたコンスタンティン二世は、その理由と思われるケッセルリング公爵を詰る。
【兄上。あれのバカは今に始まったことではありません】
大司教が同調し、宥めたが、
【お二人がさっさと切り捨てることを決断なされば良いだけのことですが】
その二人に「損切りは早めにしないとなあ」と ―― ケッセルリング公爵はゲオルグ大公と前妻の間に生まれた最後の子。要するに皇帝と大司教の実の弟であり、リリエンタールの異母兄。
【……】
【……】
【宗主家の分家の分家の傍流であるクレヴィルツ家が飛ばされたところで、同じく分家の分家の傍流であるカッヘルベルク家当主としては、どうでもいいのですが。さて神聖帝国の諜報部の主として、残念なお知らせをしなければなりません。リーンハルトにルッツが同行しております】
ルッツの名を聞き、皇帝と大司教は目を見開き顔を見合わせ、両手で顔を覆いうめき声を上げた。
”二人とも、全く同じ動きだなあ……それにしても、ルッツまで動かすとは、本気で神聖帝国を侵略……ってもなあ、ここは教皇庁が認めた古帝国の西系譜末裔国家。教皇庁に認められた正統な東側の継承者アントンが「朕が統一皇帝になる」と言えば、武力なんざ必要ない……やっぱり懲罰だよなあ。だが今更グレゴールにここまでの懲罰を与えるか? ふむ……これは楽しい気配!”
”弟の処遇をどうするか、考えてくださいね”と告げ、フォルクヴァルツ選帝侯は貴族としてではなく、政治家として閣僚たちと会合を持ち、事態を伝えた。
全閣僚が皇帝と大司教と同じ状態になったのは、想定内だった。
閣僚は全員フォルクヴァルツ選帝侯より年上 ―― リリエンタールの戦争の巧さをこれ以上ないほど知っているので、敵に回ったらどうすることもできないことを骨の髄までたたき込まれている。
唯一、抵抗できるとしたら、フォルクヴァルツ選帝侯を指揮官に……だが、フォルクヴァルツ選帝侯を前戦指揮官にしてしまうと、政府としての交渉できる人間がいなくなってしまう。
【首相。ここは全てわたしに委ねてください。王都がジュキノリにならないくらいには、交渉してみせます】
共産連邦の複合軍事施設ジュキノリが、リリエンタールの策により地上から完全に消えたのは、年配の上層部の者たちにとっては常識。それを引き合いに出されると ―― 表情も引きつる。
【外務大臣……本当に分からなかったのか?】
首相は外務大臣の情報収集能力を高く評価していると共に、いざとなったらリリエンタールに肩入れすると ―― だが首相の評価は間違っている。フォルクヴァルツ選帝侯はリリエンタールに肩入れはしない。もちろん敵対もしない。ただ楽しむだけである。
【分かりませんでしたね。もともとアントンの周囲に注意は払っておりませんでしたので】
【……】
【アントンの周囲に人を放つなんて無駄ですよ。たかが諜報員ごときが、アントンを出し抜き、故国に情報をもたらすなんてできません。それが出来るヤツがいたら、そいつは人間じゃない】
【そうだな……ところでグレゴール閣下はどちらに?】
【アントン襲撃失敗の報を受けて、新大陸に逃げました。いつものことですね!】
【はぁ…………】
閣僚たちも知っていることだが、それでも大きな溜息を吐き出さずにはいられなかった。