【016】閣下、動き出す
寝室の扉が開くと、先ほど鳥肌が立った血と消毒液の匂いが、再びリリエンタールの鼻腔をくすぐり ―― 同じように肌が粟立った。
寝室は厚いカーテンが降ろされ暗く、怪我人に刺激を与えないように、ルームランプの明かりも最小限。
仄暗い明かりの中、サーシャは傷がない側を下にしてうつぶせで眠っているクローヴィスの手を優しく握り、首筋の汗を拭いていた。
「容態は」
「先ほどと特に変わりません」
「そうか」
「閣下は」
「……肋骨を少し」
「ご無事でなによりです」
二人は声を潜めて会話し ―― サーシャに下がるよう指示し、リリエンタールはできる限り気配を消して傷の痛みから寝苦しそうにしているクローヴィスを見つめる。
視線を感じたらしいクローヴィスがさらに不快そうにしたので、リリエンタールは視線を落とし椅子に腰を降ろす。
クローヴィスは熱があるものの、呼吸は落ち着いている。
自分の感情を理解しろと言われたリリエンタールは、今日の出来事と自分の行動を思い返そうとするが、クローヴィスの規則正しい寝息が気になり考えが纏まらない ―― クローヴィスを見ていないのだが、意識は完全にクローヴィスの方を向いている。
思考が纏まらないこと、他に意識が向くこと、クローヴィスの静かな寝息が心地良いこと。
「…………んー……」
「ああ、済まぬな」
人の視線に敏感なのか、リリエンタールの視線が不躾なのか? おそらく後者なのだろうと、リリエンタールは急いで視線を外す ―― 見ないようにしていたのに、いつの間にか視線は眠っているクローヴィスに向いていた。
怪我人には睡眠が必要なことは良く知っているし、
”わたしがここにいる必要はない”
快復のことを考えるならば、リリエンタールは室内にいないほうがいい。なにより寝室にいる必要はない ―― 分かるのだが、離れがたいという気持ちのほうが強く、その場から動けない。
クローヴィスの包帯を巻いた額に腫れた顔、熱が上がって喉が渇いているのか、微かに喉をならす。
仕草に媚びの一つもないが可愛らしく、仄暗く消毒液と血の匂いがする室内なのに、留まりたい ――
「可愛い、心地良い……こういうことか」
言葉とその意味を知っていたが、理解していなかったリリエンタールは、痛みを堪えて眠っているクローヴィスにたしかにそれらを感じていた。
”これが愛なのかどうなのか……”
見ていて飽きず、どんな姿でも不快ではない ―― それを愛というのかどうか? 感情がない、心がないと言われ続けてきたリリエンタールには分からない。
だから、
”歴史上の王の真似事をしてみるか”
気に入り迎えた寵妃に対して王が取った行動を追跡してみることにした。
「んん~…………」
「気づけばそちらを見てしまうな」
リリエンタールは一度部屋を出て、眼窩にはめるタイプの片眼鏡を装着し、重要なことはなにひとつ書かれていない廃棄する紙の束を持ち、寝室へと戻った。
リリエンタールがいない間にクローヴィスは背を向けてしまい ―― 汗ばみ短い金髪が張り付いた白い項に悩まされながら、書類に目を通す姿勢で紙の束に視線を落として考える。
王が寵妃に真っ先に与えるものと言えば爵位と城。
”ロスカネフ爵位は持っていないが、買おうと思えば買える。何処の国の爵位でも、侯爵以上は与えられる。城は……グリュンヴァルター公国の白鳥城は、あの娘に合いそうだな”
自分が持っている城のなかで、もっとも美しいとされている城を思い浮かべる。
”この娘の背丈に合わせるとしたら、城の内装は一新せねばならぬな。家具職人を呼び……壁紙も変えるか。デザイナーにモノグラムを発注し、絵画は美術館から取り寄せ……シャルルに任せるか? いや……”
「褒美を与えよ」と命じたことは多々あるが、褒美の内容などリリエンタールは考えたことはない。それらは執事を務めているシャルルやアイヒベルクが適宜に整えて、与えた後に報告を受けるのみ。
与える品など考えようとも思ったこともなかったが ―― クローヴィスに何を与えようかと考えると、言いしれぬ高揚感を覚えることに気づいた。
”趣味は分からぬが……そういえば、乗馬が得意だったな。馬ならば喜ぶかもしれぬ。そうだ、黄金の馬ならば気に入るかも。いや、馬術用のハノーヴァー種のほうがいいか。アンダルシア種も……”
好みに合った品を贈る ―― もちろんそんなことはしたことがない。
リリエンタールともなれば、相手の趣味に合わせる必要はなく、相手がリリエンタールの趣味に合わせるのが当然のこと。
だが ――
「趣味に合ったものを贈ったら、喜んでもらえるだろうか」
リリエンタールの呟きと同時にクローヴィスが体を伸ばしはじめ ―― 目を開いた。仄暗い室内にあっても、その緑色の瞳の美しさははっきりと分かる。
「クローヴィス少尉、目が覚めたか」
「閣下」
声を掛けられたクローヴィスは答えるも、怪訝そうに辺りを見回すのに忙しい ―― 起き上がったクローヴィスの顔を正面から見ると、負傷した顔の右側は痛ましいほど腫れているが、左側はもとの秀麗さのままで、落差の凄まじさといったらない。
リリエンタールは水差しからコップに水を注ぎ、ベッドの上でやや呆けているクローヴィスの元へと近づく ―― 蹴られるのを覚悟の上で近づいたが、
「ありがとうございます」
はっきりと目覚めたクローヴィスがそんなことをするはずもなく、両手でコップを受け取り一気に飲み干した ―― 右側の唇付近も腫れているせいでやや自由がきかないため、水が顎を伝いシーツに滴ったが、喉が渇いているクローヴィスは気づかないようだった。
「ここは?」
「到着した蒸気機関車に移動した。あと一時間もすれば、発車する」
エメラルドに喩えるしかできないが、喩えよりもずっと美しい緑色の瞳は「誰がここまで運んでくれたんだろう?」と不思議がっていた。
「そうですか。では小官は部屋へ戻ります」
そして出てきた台詞も、クローヴィスらしいものだった。
「待て」
「なんでしょう、閣下」
「クローヴィス少尉はアディフィンまで、わたしと同室になる」
何もしないと告げるより先に、
「…………」
クローヴィスの瞳は「え? 夜伽? 嫌です! 他に相手いるでしょー」と、あまりにも正直に物語っていた。
あまりにもあっさりと伽を拒否されたのだが、リリエンタールに不快感はなかった。
その後、同室になることを言い含め ―― 納得していないが「偉い人の命令に従いますよ、伽以外は」という態度でベッドで休むことも同意した。
着替えるのだといきなり脱ぎだした時は焦ったものの、荷物が入っている鞄を渡し、着替えの間部屋を出た。
外には執事がいて、
「お食事はいかがいたしますか?」
「本人に聞いてみる」
「あなたのお食事ですよ、閣下」
「……」
「……」
「……」
「少尉殿のお食事は、サーシャがロスカネフ味付けのボリッジと、少尉殿が好きなフレーバーウォーターを作ってくれるから心配しなくていいですよ」
「そうか……わたしの食事は要らん」
「分かりました」
やり取りが終わってからリリエンタールは声をかけ ―― 着替えが終わったとの返事があったので寝室へと戻ったところ、裾に僅かにフリルが縫い付けられているだけのシンプルなアイボリー色のドロワーズと、前身のレースアップで調整するビスチェ姿のクローヴィスがベッドの上にいた。
”誘われている……とはこういうことか? だが娘からは全くそのような気配は感じられない。これはこの娘の普通か”
ドロワーズは腿の半分ほどととても短く ―― そこからすらりと伸びている脚の長いことと言ったら、四十年近く生き、各大陸を渡り歩いたリリエンタールでも見たことはない。そしてビスチェの丈もドロワーズと同じように短く、腹筋が露わになっていた。
くびれを追求し、内臓や骨が変形するほどコルセットで締め付ける ―― リリエンタールの周囲にいる女性はそうだが、クローヴィスは全く違い、彫刻の腹筋もかくや……というほどに、美しく均等に割れている腹筋に、はっきりとした腹斜筋。不健康な細さとは無縁な逞しさだが、バランス良くついた筋肉が魅せる腰を作り上げていた。
「パジャマは?」
ビスチェとドロワーズの隙間から覗く筋肉美を前に、平常心を保てる自信のないリリエンタールは「上に着てくれ」と頼むも、
「出張任務は荷物を最小限にしますので、そういったものは持ってきておりません」
マリーチェの荷物の千分の一以下のクローヴィスの手荷物には、羽織るものは一つもなかった。
「下着で寝るのか」
「はい」
堂々と返されたリリエンタールは、再び寝室を出て、
「パジャマ用意しましたけれど、別にあなたがそこにいる必要ないよね。好きな格好で好きに寝かせてあげたら? と、言いたいところですけれど……今のあなたに言っても無駄でしょうね。パジャマ、新しく作らせます?」
執事からの問いかけに――
「フリオにドレスを作らせろ」
「期日は? アフタヌーン? それともイブニング」
「あの娘の帰国前日に着せる。アフタヌーンドレスで」
「分かりました。デザインはフリオにお任せで?」
「そこは任せる」
「予算は上限なしで?」
「もちろんだ」
「分かりました。ところで、あなたはどうするつもり? あの若い娘を連れて行くの? それともあの若い娘と一緒にロスカネフに戻るの?」
リリエンタールはロスカネフを去る ―― 筈だった。
「あの娘は帰りたがっている。あの娘の幸せはあの国にある。ならばわたしもロスカネフに行くしかあるまい」
「やれやれ……せっかく荷物をまとめて輸送用の船の手配も終わってるっていうのに……楽しそうですね」
誰かにとって不幸であり、誰かにとって幸福であり、誰かにとって愉悦であり、誰かにとっての絶望であり ―― リリエンタールにとっての最初で最後が始まった。