【015】イヴ・クローヴィス・04
シャルルから受け取ったジュエリーケースを開け、エメラルドのネックレスを手に取ったリリエンタールは、ランプの明かりにかざして首を捻ると、床に投げ捨てた。
「違う」
「何がですか?」
エメラルドのネックレスを持ってきたシャルルが尋ねても、リリエンタールは難しい顔をしたまま。
「他のエメラルドが希望なのか?」
「……いいや」
<なんなんだよ、もう……>
思わずノーセロート語で呟いてしまったシャルル。
床に投げ捨てられたネックレスはそのまま ―― 高価で売れば一生遊んで暮らせるほどの宝飾品だが、この場にいる者は誰も見向きもしない。
「お気に召したのでしたら、侍らせてはいかがですか? もちろん今は手負いですので、肌を重ねるのは避けたほうがよろしいでしょう」
一人だけ事情が分かっているヒースコートが、後続でやってきたシャルルとアイヒベルクには見えないことを語り出す。
もっともシャルルもアイヒベルクも察しの悪い男ではないので、ヒースコートの言葉から「エーデルワイスを気に入ったので側に置きたい」ことはすぐに分かった。
だが「誰が」という部分が理解できなかった。
ヒースコートとシャルル、アイヒベルクの他に室内にいるのはリリエンタールのみ。よって「誰が=リリエンタール」しかない。
そうリリエンタールしかいないのは、火を見るより明らかなのだが、どうしても二人の頭に入ってこない。
肋骨を蹴られるような真似をしたのも、気に入っているのが理由であれば分かる ―― それがリリエンタールでなければ。
シャルルはあり得ないことだが、アイヒベルクに視線を向け、無言で「お前か?」と尋ねるも ―― アイヒベルクは首を振って「自分ではない」と否定する。
その答えが返ってくることはシャルルも分かっていたが、それでも尚「お前が気に入って侍らせたいという答えの方が納得できた」と ―― アイヒベルクも全く同じことを思っているのだが。
茶番を終えたシャルルは咳払いをしてから、
<ヒースコート。もしかしてその人、あの若くて美しい娘を気に入ったのか?>
神を殺す算段でも立てているのかという表情のリリエンタールを指さし、シャルルはヒースコートに尋ねた。
<わたしはあの娘を気に入っているのか?>
その問いにヒースコートが答えるよりも先に、リリエンタールが声を上げた。
<……あんた、なに言って……>
<はははは! やはり分かっていらっしゃらなかった!>
シャルルの動揺にヒースコートの笑いが重なる。
<…………>
これで照れるなどの感情の動きが表情に現れたならシャルルも、理解できないが「そうなのだ」と己の思考を一時麻痺させ、強制的に納得させることはできたのだが、リリエンタールといえば先ほどと変わらず ―― 恋に落ちた男の表情には全く見えなかった。
<あれ、恋する男の表情に見えるか?>
リリエンタールを知らない人間ならば「残酷に敵を滅ぼすときの表情」と言うかもしれないが、彼らは長いことリリエンタールと共にいるので知っている。
リリエンタールは酸鼻を極めるような現場でも眉一つ動かさないし、何百万人を殺すことを命じる時も表情などない。
「表情がある」それは希有なのだが、その表情が問題過ぎた。表情と感情が乖離している程度では、言い表せないそれ ―― それが余程楽しいのか、ヒースコートは腹を抱えて笑っている。
<さあ……高貴なお方はこのような形なのではありませんか? 殿下>
シャルルに話題をふられたアイヒベルクは、自分とは住む世界が違うお方なので、そちらで語ってくださいと逃げた。実際、リリエンタールの思考や常識、情緒などは庶民や貴族とは全く違う。
かといって、リリエンタールと血縁である列強王の思考や情緒が同じかと問われたら、列強の王たちは「違う」と答えるであろうが。
<おい、アントワーヌ。その表情、どうにかしろ。その表情で愛を囁くなんてことをしてはいけない>
<そんなに酷いのか? シャルル>
ヒースコートは声を上げてはいないが、肩で笑い続けているのが分かる。
<酷い。それで愛を囁かれたら、普通の人間は殺されるのだなと思う。いや、王族でもそう思う。軍人だって間違いなくそう取るしかない顔だ>
<……>
アイヒベルクはリリエンタールが放り投げたネックレスを拾い上げ、ジュエリーケースに戻し、それを両手で持ち直立不動の体勢を取る。
色事が好きで華やかだった両親の血を引いているとは思えぬほどに、アイヒベルクは武骨で色事に無頓着で朴念仁 ―― 自分をよく理解しているので、リリエンタールが気に入った娘に関する話題に口を挟むべきではないと判断して、自らの立ち位置を決めた。
<お前がエーデルワイスを気に入ったのは分かった。わたしは協力できることは協力したいと常々思っていた。もっとも全てにおいて劣っているわたしでは、協力できることはないとも諦めていたが……今できた。お前、わたしが許可出すまで、エーデルワイスに愛を囁くな。その顔でそんなことしたら、嫌われるだけだ>
<……嫌われ……>
<嫌われたら困るだろ?>
<…………どのように困るのか分からないが……困る、のだろうな>
<はあ?>
二人のやり取りに笑いを収めたヒースコートが割り込む。
<殿下。リリエンタール閣下は人に好かれようと思ったこともなければ、嫌われるのを苦にしたこともないので、理解できないのだと思われます>
<……ああ、お前そういうヤツだった。オーギュストやギヨームと同じで、嫌われることに無頓着だった>
<お前も同じであろう、シャルル>
<わたしはいいの、わたしは! いまはお前の話をしているんだよ、アントワーヌ>
好かれる努力などせずとも、王侯という血筋だけで嫌いな相手にまで好かれてしまう彼らは、総じて好かれる努力をしないどころか、嫌われるようにしていることのほうが多い。
<厳密に言いますとリリエンタール閣下の嫌われても平気はリトミシュル辺境伯閣下と同じタイプで、フォルクヴァルツ選帝侯閣下の嫌われても平気とはまた違うかと>
ヒースコートの分析を聞いたリリエンタールは、少しばかり表情を緩め ―― 感情が抜けきった熱のないいつもの表情に近くなり、
<なんとなく分かった。それで……あの娘のところに行く>
痛む肋骨近辺に軽く手を添えながら立ち上がる。
<いいか。無体なことはしない。必要以上に近づくな。気安く触れるな。お前は威圧感しかない。相手は怪我人だ、労れ>
シャルルはそう言いながら、診察後、雑に着直していたリリエンタールの服の乱れを直す。
<難しいが……>
「わたしからのアドバイスですが、まずはリリエンタール閣下がご自身のお気持ちをよく見極めてから行動に移してください。あなたほどの人物が、自らの気持ちを理解せぬまま動くのは危険です。ごく普通の人間でしたら、熱に浮かされてそのまま動くのも恋愛の醍醐味ではありますが。更に言えば、次は反対側の肋骨が全損して臓器に刺さる大惨事になるやもしれませんからねえ」
腕を組んだヒースコートも、まだ触れるなと念を押す。
「肋骨がそれほど臓器に刺さったら死ぬな」
「あなたが死んだら、あの若く美しい娘は他の男の物になりますね。それでもよろしいのでしたら」
男の目から見ても魅力的な、獲物を狩るような野性的な笑みのヒースコートが、煽るように ―― ヒースコートの言葉に背を向けて、寝室へと続く扉へと向かい、扉前で振り返らずに、
「エメラルドはな、娘の瞳に似ているような気がしたのだ。あの娘はまだ目を閉じているから、目覚めるまでの代替品として希望したのだが、あの娘の瞳には遠く及ばなかった。あの娘の瞳は美しいな」
シャルルやヒースコートに言われ考えて、何故エメラルドを求めたのかをリリエンタールは無理矢理言葉にした。
「瞳そのものが美しいのは言うに及ばずですが、宝石にはない美しさは尊厳と知性、そして強い意志からなるものでしょう。尊厳が守られている女性の瞳には生気があり、知性を得られた女性の瞳には確かな光が宿ります。そして善悪はともかく強い意志というものは人を惹きつけて止みませぬ。リリエンタール閣下、あなたが魅入られてもおかしくはない」
駆け寄ったアイヒベルクが扉を開け、リリエンタールはヒースコートの意見に対しなにも述べずに気配を消して寝室へ。
部屋に取り残された形になった三人は ――
「ところでヒースコート。エーデルワイスは、エメラルド色の瞳なのか?」
「たしかに緑色で、なにが一番近いかと聞かれたら、エメラルドと答えますが、あの娘の瞳のほうが美しいですね」
「そうか……。わたしも早く、見てみたいな」
エーデルワイスことイヴ・クローヴィス。
彼女が庶民でリリエンタールの愛妾になることすら難しい生まれであることを、シャルルは知っているが、
「あの人が本気を出したら、どうとでもなるでしょう」
リリエンタールの実力は良く知っているので心配はしていなかった。
「是非ともそれを見てみたい」
「……なにあの二人みたいなことを言っているんですか」
シャルルがいう「あの二人」とはリトミシュル辺境伯ヴィルヘルムとフォルクヴァルツ選帝侯。この二人はリリエンタールの実力を見たいと、暇があれば行動を共にし ―― 断頭台が決まったシャルル救出から始まる大規模内乱に従ったこともある。
「誰だって、見てみたいはずですよ。そういう殿下だって」
二人はそれでも満足はしておらず ―― だがリリエンタールの本気を引き出すような事柄はそうそう起きることもなく。
「執事だ、ヒースコート」
「失礼いたしました、殿下」
表層でしかないのがはっきりと分かる謝罪に笑ってから、各自の仕事へと戻った。