【012】イヴ・クローヴィス・01
リリエンタールは足を組み頬杖をつき、車窓から景色を眺めていた。
離婚した姪マリーチェを姉夫妻に送り届けたあと、何処へ行こうか ―― 身軽とは程遠い身分だが、リリエンタールが何処へ行こうと止める者はおらず、止められる者もいない。
尤も行きたい国はなく、訪れたい場所もない。
砂漠の地平線に沈む夕日も、大地を裂くような瀑布を見ても感動したことのない男は、一等車両からの眺めにも全くなにも感じることはなかった。
”クローヴィスですが、リリエンタール閣下の部屋前の警備に配置しました”
流れゆく褪せた色の景色を眺めているとき、ふとヒースコートの言葉を思い出し、視線を車窓から出入り口の扉側へと移したが、担当時間ではなかったので小窓の向こう側に立っているのは黒髪と思しき兵士だった。
扉を眺めていると、リリエンタールが予想していた通りのタイミングで、車両の進みが遅くなりだした。
黒魔術的に、そして占星術的にリリエンタールを葬るに相応しい場所で襲撃するためには、蒸気機関車を何もないところで停車させる必要がある。
そのためには操縦士を抱き込むか、手下を操縦士として送り込まねばならず、それがもっとも重要ゆえ、簡単に対処できてしまう ―― ヒースコートが軍人ならば襲撃ポイントに選ばない、というのはこの為だった。
真っ当な軍人ならばどう考えても襲撃には不適なポイントで仕掛けてくる ―― リリエンタールの予想通りの場所で車両は停車した。
「これは……」
「動くな」
室内にいるなにも知らない非戦闘員たちに待機を命じ、リリエンタールは杖を持ち室外へ。入り口に控えていた兵士はすでに通路に対し銃口を向け臨戦体勢を取っていた。
その兵士が引き金を引くことは一度もなく ――
「お迎えにあがりました、リリエンタール閣下」
扉に銃口を向けていた兵士が、ちらりとリリエンタールのほうを見る。
「銃口は下げて構わぬ。鍵を開けてやれ」
兵士は指示通りに動き ―― ドアが開くとヒースコートが敬礼し、
「終わりました」
「そうか」
リリエンタールがヒースコートと共に通路へと出ると、死体が三つ転がっていた。どの死体もいつ、どうやって自分が殺されたのか分からないといった表情を浮かべたまま ―― 死因はどれも首を一突きで、三体とも同じところに致命傷を負っていた。
「手練れだな」
「クローヴィス少尉です」
「ほぉ」
「部下の一人が危うく殺されかけましたが、クローヴィス少尉は余裕があったようで、命を落とさずに済みました」
そのような会話を交わしながら、リリエンタールとヒースコートは死体を踏みつけ外へと出た。
襲撃犯は十三名で、うち八名は死体となっている。火室で蒸気機関車を操っていた操縦士は含まれてはいない。
「レイモンド」
当初より襲撃犯の人数をまず報告せよと伝えていたリリエンタールは、その情報に、
「はい」
「敵がまだ一人、どこかに潜んでいる。ケッセルリングが信じている黒魔術に基づけば、襲撃に携わるのは十五名が最良。お前もおかしいと思ったであろう?」
”まだいるぞ”と ――
今回の襲撃の首謀者はグレゴール・フォン・ケッセルリング。
彼は大金持ちと評するに相応しい資産を所有している。
ケッセルリングにとって、縁もゆかりもないフォルズベーグ王国での作戦であろうとも、もっと大勢の兵士を用意することができる身の上だった。
少数精鋭という表現もあり、場所柄として大量の兵を潜ませるには不適な場所でもあるが ――
「中隊くらい簡単に用意できる財力をお持ちでありながらしない……というのは、そういうことですか」
ケッセルリングよりも資産も兵士も所有しているリリエンタールを亡き者にするのには、あまりにも少なかった。
その理由は単純明快「占いでこの数がいい」と言われたから。
ケッセルリングお抱えの魔術師たちが、ただ口から出任せを言ってるだけならば、リリエンタールにここまで読まれないのだが、古典の魔術に通じている、紛れもない黒魔術師を雇っているせいで、それらの文献に精通しているリリエンタールに自らの手の内を明かしている状態。
「そうだ」
ヒースコートが”それでは、周辺を” ―― 口を開こうとしたとき、
「閣下!」
普通にしているだけで彫刻と見紛うクローヴィスが、大声で叫び駆け寄ってきた。クローヴィスは最小限の腕の動きで、リリエンタールを弾き飛ばす。
リリエンタールは、後日、側で見ていたヒースコートをして「見事」としか表現しようのない殴打をくらい、車輪に叩きつけられる。
―― 賊か
背中を殴打した痛みはあるが、痛みそのものにもすっかりと鈍くなってしまったリリエンタールは、それで動きが鈍るようなこともなく、何が起こったのか瞬時に理解し、体勢を立て直しこの場を離れようとしたのだが、
煌めく血の飛沫 ―― 掠った弾丸で眩いばかりの金髪が切れて舞い、白皙の額から血が噴き出した。
掠ったとはいえ撃たれたことに変わりはないクローヴィスだが、その美しさに恐怖すら感じさせるエメラルド色の瞳を閉じることもなく、痛みを表情に出すことを一切せずに、リリエンタールの盾になる。
「閣下は小官の後ろに」
本来であれば車輪の影に隠れるなどして、狙撃から身を隠さなくてはならないのだが ―― 鮮やかな血からリリエンタールは目が離せないどころか、その時リリエンタールの世界に色がついた。
逃げることも、息をすることも、考えることも忘れ、血が飛び散った自分の軍服を握りしめ、血が僅かについた黒い手袋をはめた指を、無意識のまま自らの唇へと運ぶ ―― 額の裂傷から吹き出した血はクローヴィスの美しい顔を赤く染め、リリエンタールはその斜め後ろから横顔を見ることしかできなかった。
クローヴィスの頬が、顎が、首が、襟が血で染まれば染まるほど、世界が色づき ―― そしてクローヴィスの小銃から一発の銃声が放たれ、渓谷に響き渡る。
その銃声とともに、リリエンタールの耳に早鐘のように打つ、自らの鼓動が届く。
「少尉。大丈夫か?」
クローヴィスにかけた自分の声が、まるで他人の声のように聞こえて驚いた。
「閣下、早く車両へ!」
リリエンタールとの付き合いのないクローヴィスは、その異変に気づかぬままリリエンタールの腕を引き立ち上がらせる。
立ったリリエンタールは、額からまだ血を流すクローヴィスを眺めていたが ―― クローヴィスにより車両に押し込まれた。
”まだ見ていたい”、”もっと側で見ていたい”
リリエンタールのそんな気持ちに気づくことなく、クローヴィスは周囲に注意を払い、リリエンタールに全く視線を向けてくれない。
声を掛けようとしたのだが、なんと声を掛けていいのか分からず。
クローヴィスはそのまま周囲の警戒に ―― 敵はもういないとすらリリエンタールは言えなかった。
不本意ながら車両内へと戻ったリリエンタールは、
「不愉快だ」
苛つきを露わにしながら襟元を緩める。
「血が飛んでおりますので、お着替えを」
周囲の人間に話し掛けられることも鬱陶しく、羽虫を追い払うかのように手を払う仕草をし ―― 兵士たちは離れた。
目を閉じてまだ収まらない脈を刻む心臓の上に手を乗せる。
リリエンタールが生まれた時から、高貴とされる青い血を緩慢と送り出していた心臓が脈打つたびに、クローヴィスの右半分を彩った赤い血が目蓋に鮮やかに蘇る。
その赤が濃くなるほどに、リリエンタールは苦しく叫び出したかったが、大きく口を開けても掠れた声すら出てこない。
リリエンタールは自分の身に何が起こっているのか、全く分からなかった。
クローヴィスのことを考えると、ただ苦しい。普段のリリエンタールであれば、即座に原因を排除するために考えることをすぐに止める ―― 考えて苦しいと思ったことは一度もないので、適切な表現ではないのだが、そんなリリエンタールが理由を分かっているのにもかかわらずクローヴィスから思考が離れず、どうすることも出来ない苦しさ。
その苦しさは死ぬのではないかと思う程 ――
「……」
死が脳裏を過ぎったとき、リリエンタールは目を開けた。
―― この気持ちを伝えないで死ぬのは……この気持ち?
「クローヴィス少尉の様子を見に行く」
伝えたい気持ちというものは分からないリリエンタールだが、きっとクローヴィスの姿を見れば分かるはずだと。