【111】子爵、救助に向かう
長年、ブリタニアス君主国に狙いを定め、ブリタニアス語の勉強をしてきたエーベルゴード大尉が嫉妬するほどのブリタニアス語の上達の早さ――それはクローヴィスの前世の記憶の賜物。
入試では英語が大事! と、言われて育ち、真面目に勉強してきた結果――次の世でほぼ英語と同じブリタニアス語を使うことになり、役立っていた。
もちろんそれを知るものは、この世界には誰もいない……のだが、
『ゆあ・まじぇすてぃ』
――不思議だ……
『いいぞ、大尉。今日はここまでだ』
『ありがとうございます!』
『ロスカネフ語の使用を許可する』
「やった! いや、ありがとうございます」
「いやいや、気にすることはない。夕食は七時でいいか?」
「はい」
「ではそれまでは、自由に過ごせ」
クローヴィスにブリタニアス語を教えているサーシャは、少しばかり気になることがあった。
”失礼します”と、自分の部屋へと戻ったクローヴィスを見送ったサーシャは、首を傾げる。
――不思議だ。どうして遠い東の国のイントネーションなんだ?
クローヴィスのブリタニアス語は前世の英語をベースにしているため、母国語のイントネーションが隠しきれない――クローヴィス自身、隠すつもりもなければ、気付かれているという自覚もないし、指摘されたとしても、前世から引き継いだものなので、直すのは難しい。
間諜を見破るのに、イントネーションの違いなどは重要なので、彼らはイントネーションや単語の選び方などで、どこ出身なのかを当てる技術を持っている。
もちろん間諜は知っているので、気付かれないように言葉から特徴を排除する――かといって、排除しすぎるのも不自然なので、偽りの出身地、経歴をつくり、それと合う言葉使いをしなくてはならない……そうはいっても、そこまで出来る人間はほとんど居ない。
絶対にバレず、絶対に見逃さないのは、テサジーク侯爵しかいない。
サーシャは顔だちからルース人の血を引いているのは、分かる人には一目で分かるが、言葉からルースを完全に消せるので、会話をすると「ルース人の親がブリタニアスに来て産んだ子」という感覚を懐かせる。
――周囲に母国語が東国の人はいなかったはず
さらにサーシャの使うブリタニアス語は、リリエンタールと執事が教えたものなので、サーシャのブリタニアス語は、上流階級のお手本のような発音。
この発音と上流の言葉使いから、貴族を名乗っても怪しまれない――なので、クローヴィスにブリタニアス語を教えることになった。
――ルース語に、東国のイントネーションはないんだよなあ
思いの外覚えは良かったので、ルース語の勉強も始めたのだが、そちらはサーシャが喋ったとおりの発音で、ブリタニアス語の日常会話に居座る、謎の東国イントネーションはなりを潜めている。
――不思議な人だよな……
前世で近い言語を受験のために頑張ったんです――真実を聞かされたらサーシャも困るだろうが。
――アディフィン語にも、いきなり東国イントネーションとか混ざったりするんだろうか……テーグリヒスベック女子爵に事前に教えておく……いや、要らないか……
クローヴィスが希望したので、ブリタニアス君主国でテーグリヒスベック女子爵がアディフィン語を教えることになっていた。
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クローヴィスと共にブリタニアス君主国へと向かうことになっている、テーグリヒスベック女子爵ブリュンヒルト。
貴族令嬢として容姿に恵まれなかったので、行き遅れ……と言われることもあるが、
【そもそも、貴族ではないのよね】
両親は祖父ゲオルグ大公の怒りを買っていたこともあるが、ゲオルグ大公と愛人との間に出来た娘を母に、平民の父との間に生まれたので、テーグリヒスベック女子爵自身として、自分は庶民だと思っていた。
いろいろあって、バイエラント大公国を預かり、小さいながらも国家運営の舵取りを任せられた。上にリリエンタールがいるとはいえ、テーグリヒスベック女子爵はなかなかの手腕で国を治めている。
リリエンタールも「ロスカネフ王国規模ならば、充分治められるであろう」と評価している。
【貴族ではないところを、全面的に押し出して……】
いきなりやってきたアイヒベルク伯爵から「リリエンタールが庶民と結婚する」と聞かされ――生真面目で冗談など言わない、決してリリエンタールについて嘘を言わないと評判のアイヒベルク伯爵からの言葉なので、テーグリヒスベック女子爵は信じたが、これが例の閣下たちならば、決して信じなかった。
そのくらい、あり得ないこと――そういった常識を全部排除し、
――来年の三月頃までは、婚約を知られないようにする。でも妃殿下として遇し、わたしは臣として仕える……できるかしら?
テーグリヒスベック女子爵は机に向かって、ブリタニアス君主国にていかにクローヴィスに快適に過ごしてもらうか? 等について思案していた。
――諜報部のトップが二番手を、そして政府が軍人数名を送るって言ってるけど……断ったほうがいいような。でも女王陛下への直接パイプはいたほうが…………きっと枢機卿からも送られてくるわよね
アイヒベルク伯爵から「例の三人は知っているが、妃殿下に会わせてもらっていない。もちろん偉大なる女王にも」と聞かされ、
――あのお三方はわたしじゃ無理でしょ! 女王陛下は断りようはないけれど……
頭を抱え唸り――なにも思い浮かばないので、気分転換にと椅子に座ったまま、体を捻ってストレッチをしながら、マントルピースの彫刻が美しい置き時計に目をやると、そろそろ出発の時間だった。
【妃殿下をお迎え……ロスカネフ一行から、大公陛下からの書状を受け取らなくては!】
椅子から立ち上がり、テーグリヒスベック女子爵はクローヴィスを出迎えるべく、到着駅へと向かった。
蒸気機関車が停車する二時間前には駅に到着し、貴賓室を勧められたが断り、駅舎に不備はないか? 軌条に異常はないか? などを自らの目で確認する。
【どうなさいました? 子爵閣下】
駅舎に設置されている唯一の時計を見た、テーグリヒスベック女子爵の表情が険しくなり――同行していた部下の一人が尋ねる。
【懐中時計を持っている?】
【はい】
【あの時計は、合っている?】
尋ねた部下が自らの懐中時計を取りだし――
【合っておりますが】
【貨物列車の、通過予定時刻を十分過ぎているわ】
【十分程度でしたら、よくあることですが】
時刻表通りに列車が走る時代ではないので――事故も起こりやすい。
テーグリヒスベック女子爵も知っているが、なにかあってからでは遅いので、すぐに動き、無線で前の駅に連絡を入れ、いつ頃通過したのかなどを尋ねるなどし、
【…………おかしい】
どれほど多く見積もっても、遅れは四十分以内――テーグリヒスベック女子爵は、この試算に自信があった。
【事故があったと判断する】
クローヴィスたちが乗った蒸気機関車の前を走る貨物は、必ずこの駅を通過する――馬とは違い、蒸気機関車はルートを外れるということはない。
テーグリヒスベック女子爵は、路線図と地図を睨み――かつて祖父から教えてもらった、設計図を思いだしながら、あるポイントを中心に円を描く。
それを見た部下は、彼女の実力は知っているので、違うとは思わないが、
【グリズリーがいると言われているあたりですが】
今回ばかりは外れて欲しいと願ったが――彼女の読みは当たっていた。
【急いで向かう。大公陛下がブリタニアスの女王陛下へ宛てた、大事なものだ。なんとしても保護しなくてはならない】




