【104】太子、乾杯する
「娘との一時が終わってしまった」
ドレスに着替えたクローヴィスの美しさ、一緒にとった食事の美味しさ、そして想像もしていなかった、クローヴィスからの誘い。
どれもこれも、リリエンタールにとっては初めてのことで、時間は瞬くまに過ぎ――
「明日、どきどきしますが、閣下にお会いできるかと思うと、嬉しさのほうが勝ちます」
リリエンタールの思考を停止させるのに充分な別れの言葉を告げ、クローヴィスは去っていった。
クローヴィスが去ったあとのリリエンタールは、使われたことがない謁見の間の御座に腰を降ろし、頬杖をついて足を組み、青い絨毯を見下ろしていた。
嬉しい時間が終わった反動が激しく、リリエンタールには以前よりも世界が色褪せてみえた。
なにもかもが風化し、いまにも朽ちてしまいそうな――
「ぼーっとしている場合じゃありませんよ! 明日は妃殿下のご両親とお会いする日なんですよ! 間抜けな顔をさらして、ぼーっとした声で話かけたら、ご両親の許可が下りない可能性だってあるんですよ!」
幸せの反動で以前よりも、声を掛けづらい状態になっているリリエンタールの元へ、執事が籠を片腕にぶら下げてやってきた。
籠の中には、ワックスペーパーで包まれたサンドイッチと、ミネラルウォーターの瓶。
執事はワックスペーパーを開き、突き出す。リリエンタールはそれを受け取り、執事は籠を足下に置いて、瓶を取り出して栓を抜く。
「…………そうだな。許可か……」
サンドイッチを持ったままのリリエンタールの声は、やはりいつも通りだが――彼には似つかわしくない揺らぎが含まれているように、執事には聞こえた。
「どうしたの?」
リリエンタールの言動は、常に自信に満ちあふれている――とは、少し違うが、揺らぎや不安というものは、見られたことはない。
もともと感情が希薄だったこともあるが、何ごとも苦労なく出来るリリエンタールにはなかった。
「人から許可をもらったことがないので、いまいち勝手が分からぬのだ」
玉座や跡取りなどを押しつけられ――それらを拒否できる権力を得るために戦い、勝ち続け、いつの間にか、誰の許可を得る必要もなくなった。
その男が、明日、思いが通じ合った恋人の両親に、結婚を申し込む。
「…………そういえば、あんた、そういう存在だったな。えっと……昔々、許可をもらったこととか、一度くらいはあるのでは?」
リリエンタールは生まれたときは、当然ながら権力などはなかったので、執事が出会う前ならば、他人の許可を取ったことがあるのでは? と尋ねると、
「ないな」
生まれながらの支配者らしい一言が返ってきた。
「初許可が、妃殿下のご両親からの結婚許可か……まあ、あんたが許可をもらう相手なんていないもんね」
ルッツが椅子を運び込み、リリエンタールの御座の隣に設置し、部屋を出る。執事はリリエンタールのほうを向いて椅子に腰を降ろし、栓を開けたミネラルウォーターの瓶にそのまま口をつけた。
「許可など取らず生きてきた」
「そういうところは、アウグストやヴィルヘルムやイヴァーノと同じだよね」
執事にその三人と同じと言われたリリエンタールは、眉間に皺を寄せ、サンドイッチの端を噛む。
「…………」
この世界でもっとも不味いものを食べていると、誰もが分かるかのような表情だが、その表情は口へと運んだサンドイッチの味ではなく、
「その顔!」
執事が挙げた三人の名前が原因。
そんな顔しなくてもいいだろう? 事実なんだから……と執事が少し拗ねた表情を浮かべる。
「いや、あれたちは、一応わたしの許可を取ったり、教皇のお許しを得たりしている。許可を取ったことがないのは、わたしだけだ」
”一緒にしてやるな”という表情だった。
「さすが皇帝! 最後の絶対君主の呼び名は、伊達じゃない!」
リリエンタールは口をつけたサンドイッチを食べながら、明日に向けての話を執事にするのだが――執事はリリエンタール同様、親ではなく、国家と宗教が政治と経済と軍事を絡めて婚姻を決める家柄の生まれなので、恋人の親に「結婚させてください」と頼むというのが、どのようなものなのか? 全く分からなかった。
残念なことに、リリエンタールの邸にいる男性使用人は全員独身――住み込みの使用人は、独身であることが好まれており、リリエンタールの邸も例外ではなかった。
ちなみに上流使用人は全員伯爵家以上の出。
跡継ぎでもなく、スペアでもない、三男以下の者たちで、嫡出子であることが必須。
庶子を受け入れない理由だが「自分で賄えないのであれば、愛人を持つな」という、王侯貴族としては、当たり前の思考。
正妻との子は、跡取りが急死したらどうしよう……という恐れから、五人、六人といても仕方がないので、高貴なるものの責務として、採用していた。
爵位など授かれない彼らにとって、役立つことが証明できれば、他では望めない爵位を授かることもできる。
辞める人間が少ないこともあり、競争倍率は激しく、また定期的に募集があるわけでもないので、狭き門でもある。
リリエンタールは味がしないサンドイッチを食べ終え――
「娘の両親に、受け入れてもらえるだろうか」
「無理でしょ」
「…………」
「いや、だって、あんた、ルース皇帝の孫じゃないですか、顔だってそっくりだし。少なく見積もってもロスカネフ国民の八割は、ルース皇帝嫌いでしょ?」
「否定はせぬ」
「ルース男に娘はやらん! とか言われるかも」
「…………」
「仕方ないじゃない。でも唯一の救いは、あんたの祖父に当たるルース皇帝、戦争下手だったことかなあ。わたしでも”その作戦はやめろ”って思うくらい、酷いもんね」
リリエンタールの外祖父皇帝は、戦争好きだったが戦争下手で、最終的にはブランシュヴァキをロスカネフ王国に奪い取られた――ロスカネフ国民からすると「奪い返した」だが。
「どうせなら、もっと負けて領地をくれてやっていれば、少しはロスカネフ国民の溜飲も、下がっただろうに」
「あのあたり、もらってもなあ。それで、あんたとしては、どうアピールするの?」
執事に聞かれたリリエンタールは、伝える内容を語った。
「悪くはないんじゃないかな。でも、もう少し、王家に対して強く出るところを、アピールしたほうが、いいんじゃないかな。もちろんわたしは、あんたが語らなくても、強くでることは分かっているけれど、妃殿下のご両親は知らないから」
執事は大まかには良いが、面倒な親族について、もう少しはっきりと言わなければ、心配するだろうと
「娘の両親が気にするポイントなのか?」
「気にするでしょう。妃殿下に何ごとがあろうとも、ご両親は助けようがない。唯一の頼みはあんただけ。わたしたちは、あんたの変貌とか容赦のなさとか、最早排除は始まっているとか知ってるけれど、妃殿下のご両親は知りませんし……。言葉をまろやかにしつつ、でもはっきりと伝えるべきだと思いますよ。あ、でも戦争するから大丈夫とか言うなよ」
「戦争に関しては言わぬが、もう少し強めにか……両親と娘は似ているであろうから、攻撃ではなく防御、すなわち”娘の安全”を、攻撃性のない言葉で表現すればよいのだな?」
「そうですね。城壁に全員吊すとか、生き餌にしてやるとか、そういうのは無しで」
支配者であり、指揮官であるリリエンタールは、基本、はっきりと強めの表現をする。そうでなければ、部下や臣民の不安を取り除くことができないため。
王は強ければ強いほど、人々は安心できる。
だがクローヴィスの両親は、彼の部下でも臣民でもない。
「なるほどな。分かった」
「まあ、妃殿下のご両親が考えるよりも遙かに酷いのが、我々の親族ですけどね」
眉間に皺をよせ、肩をすくめ”思い出すのも嫌”と、全身で表す。
「違いない。殺しておいたほうが、良かったかもな」
「今から殺す?」
「今日中に族滅させたとしても、明日までに連絡が届かなければ無意味だから、殺しはしない」
――即日族滅できないと言わないあたりが、この人だよねえ……そして「出来るわけないだろう」って気持ちにならないのが
「……ちょっと寿命伸びた、って言うのかな?」
「言うかも知れぬな。もっとも、あれたちの息の根を止めるのは、わたしではない。異教徒共だ。聖教の守護者一族として、せいぜい勇敢に戦うが良い」
「惨めに負けるのが確定しているのに」
「さあ。カールやシュテファンは、意外と名将かもしれぬぞ?」
「あははははー。あの二人は、長兄のヨーゼフを含めて、全員わたしと同じです。名将特有の気配もなければ、勇将特有の空気も持ってません。さらに言えば参謀感もゼロ。指揮をすればするほど、泥沼に嵌まって”起死回生の奇策!”とかほざいて、参謀が止めるのも聞かずに、間抜けな策を実行にうつして部隊を全滅させ、近衛と共に逃げ帰る途中で落馬して転がって川に落ちて、派手な恰好とかアホみたいに分厚いマントが水を吸って、溺死するタイプ。要するに、戦場に出しちゃだめなのです……被害を大きくするには、これ以上ない人材でしょうけれど」
あまりにも具体的なたとえ――過去、血族がしでかしたことや、間抜けな死因を一纏めにして執事がバカにする。
頑張って戦った者や、力及ばなかった将軍などに対しては優しいが、執事は血族には厳しい。
「お前は自分を理解し、作戦を立てぬから、あれたちより遙かにましだ」
リリエンタールも誰がどの失態なのか分かるので、口の端を引きつらせる――もちろん彼は笑っている。
「褒められている感がないけれど、あんたのことだから、褒めてるんだよね」
「もちろんだ。大体お前は、指揮官としては優秀だ」
「連戦連勝の代名詞指揮官に、優秀な指揮官って言われると、こんなにもアレな気持ちになるもんなんだ。あまり言うなよ。どう聞いてもバカにしているようにしか聞こえない」
「大丈夫だ、お前以外には言わぬよ」
「妃殿下にもだよ」
「…………」
「妃殿下は本物の軍人なんだから、あんたとの実力の差を、ただしく認識できるだろうから。もちろん素晴らしい動きをした時は、褒めていいけど」
「娘が狙撃を成功させたときなどは、褒めていいのだな」
「それは褒めていいけれど、なんで妃殿下が狙撃するの? なんで妃殿下に狙撃させるの? 護衛はどうした?」
執事にそう言われたリリエンタールは、先日のクーデター未遂事件における、クローヴィスの活躍と解決方法を反芻し、
「レイモンドでもない限り、振り切られるであろう。あと”わたしが撃ったほうが、早いので”と言いそうなのが」
そう言って笑う――もちろん笑えてはいないが、笑っていることは、執事にはわかった。
「妃殿下の周囲に危険が及ばないよう、頑張れよ! あんたの知略の見せ所だろう」
「あの娘には、わたしの知略などきかぬような気がする」
「惚れた弱みってやつ?」
「いや、事実だ……と。惚れた弱みと言うのかも知れないな」
それを聞いた執事は、飲みかけの瓶を床に置いて、籠から新たにミネラルウォーターの瓶を取り出して栓を抜き、リリエンタールに差し出す。
「あんたに勝てる、妃殿下に乾杯」
リリエンタールが受け取った瓶に、自分が飲んでいた瓶を軽くぶつけ――リリエンタールも軽く打ち返した。




