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Eはここにある  作者: 剣崎月
第一章
101/208

【100】兄弟、父について薄ぼんやりと語る

 退屈ではないかと聞かれたクローヴィスは、


「退屈……あの、日に一時間程度でいいので、あまり豪勢ではない部屋で、トレーニングをしたいな……と」


 リリエンタールの問いに素直に答えた。


「トレーニング?」


 その答えはリリエンタールの想定外――大体の人間の答えは分かるリリエンタールだが、好いた相手が欲するものは、想像もできなかった。


「はい。懸垂とかしたいんですけれど、壁紙が高そうなので。石造りで剥き出しの壁なら、気にせず掴んで懸垂できるのですが」


 クローヴィスそう言い、隣室に繋がるドアを開け、その上部を掴み、軽く懸垂をする。二回ほどで止め、


「壁紙を剥がしてしまいそうなので」


 軽やかに、大理石の床に降りた。


「壁紙など、気にせずとも良いのだが。大尉のような一流の軍人に滞在してもらう部屋としては、不適切だったな」


 両腕が寸分の違いもなく、同じに動く。

 普通は利き腕がそうではない腕をカバーするのだが、クローヴィスは均等に力を入れることができる――訓練の賜だった。

 リリエンタールは自分の不甲斐なさに憤りながら、フリオが用意したコーヒーを飲みながら、会話を楽しんだ。

 ただ楽しいのだが、クローヴィスを見つめていると、不意になにかがリリエンタールに襲いかかってきて、表現しがたいもやもやとした気持ちになり――軽くクローヴィスの頬に触れると、少しは収まるのだが、同時に全身の血が沸き立つような感覚に襲われる……を繰り返すハメになった。


「ずっと話をしていたいのだが、あまり長時間話をしていると、もともと女と全く話さず生きてきたので、怪しまれるのでな」


 少し頬を朱に染めたクローヴィスが、美しい緑色の瞳でリリエンタールを見つめる――


「キースに注意されなければ、押し倒してしまっていたかもしれない」


 クローヴィスの部屋を出たリリエンタールは、そう呟いた。


「閣下。ご自身の肋骨のことを、お考えください」


 執事が側にいたら”それ以外に、考えることがあるだろう!”と叫びたくなることを、アイヒベルク伯爵が真面目な顔で告げる。


「咄嗟に蹴られる可能性もある……な」

「はい。妃殿下はお優しい御方ですので、閣下の肋骨を折るようなことがあれば、お美しい笑顔が曇られるかと」

「そうだな。いかんな。ところでリーンハルト。練兵場から懸垂用のバーを娘の部屋へ運べ」

「妃殿下のお部屋にですか?」

「娘の部屋の隣にだ。そこを娘用の練兵場にする」

「畏まりました。他にも幾つか器具を用意しておきましょうか?」

「任せた。安全には配慮せよ」

「はい……どうなさいました、閣下?」


 歩きながら話をしていたのだが、リリエンタールが足をとめ、


「一応、シャルルに聞いてからにしよう」


 ”妃殿下に贈り物をする時は、わたしに聞きなさい!”といつも言っている執事のことを思い出した。



”娘が懸垂をしたいと希望したので、リーンハルトに娘専用の練兵場を作らせることにしたのだが、問題はないか?”



 手紙を受け取った執事は、


「懸垂……懸垂か」


 懸垂をしたいと言う女性の知り合いはいなかったので、驚いたものの、それは大丈夫だろうと許可を出した。


 後日、リリエンタールと顔を合わせた際に、


「歴代正妃や寵姫、恋愛小説の主人公にも、懸垂バーやバーベルを欲するものはいなかったので、全く気付かなかった」


 真面目な顔で言われた。

 小説を一冊読むのに、二分もかからないリリエンタールとは違い、執事の読書スピードは普通で、フォルズベーグ語ははっきりと分からないので、現在城にある全ての恋愛小説に目を通しているわけではないが、士官学校出で将来女王の護衛になることが決まっていた、優秀な軍人がヒロインの小説など、この時代に存在するはずもないことくらいは理解できた。


「いないでしょうね。ダイエット器具なら欲しがる女性はいるでしょうけれど、一流の職業軍人の本気のトレーニングなんて、作者も想定していないでしょうし、そういった寵姫や正妃はいませんものね」


 名誉連隊長に就任した皇女や、軍事行動という名のお遊びを経験した王妃などはいるが、敵国のスパイ相手に、単独でカーチェイス、そこから腕力で制圧するような本物の軍人女性など、上流社会にいるはずもなかった。


「そうだな。それで、娘はとても喜んでくれたのだ」


 ありがとうございます! と言いながら、懸垂をする姿の美しいことと言ったら……と言われた執事だが、美しい懸垂姿というのを見たことがないこともあり、どうにも分からなかったが、クローヴィスの美しさを知るのは、リリエンタールだけで良いので、それに関しては特に触れなかった。


「それは良かったですね。やっぱり、あなたが贈りたいものではなくて、妃殿下が欲しいものを贈るべきなんですよ」

「馬場はどうであろう? 娘がブリタニアスから帰ってきたとき、馬場があれば喜んでもらえると思うのだが」

「もう、作るつもりだろ」

「ああ。馬の手配も終わっている。あとはキースに書類を提出するだけだ」

「キース?」

「検疫があるからな。検疫所は軍の管理下だ」

「ああ、検疫ね」


 そんな会話をした数日後に、娘ことクローヴィスが鉄道事故に巻き込まれたという連絡が届き、リリエンタールと執事は急いでアディフィン王国へと向かうことになる――


 話を戻し――クローヴィス専用の練兵場(トレーニングルーム)を作る準備をしておくよう、アイヒベルク伯爵に指示を出したリリエンタールは、その足でベルバリアス宮殿内の練兵場へと赴き、ぶら下がっているサンドバッグを殴りつける。


「娘との会話は楽しいが、娘が楽しんでくれているかどうか……悩ましいことだ。どうでも良い相手ならば、すぐに分かるのだが」


 リリエンタールは会話を楽しいと思ったことがなかったが、クローヴィスと会話するようになり、会話の楽しさを感じるようになったが、クローヴィスが楽しんでいるかどうかが、はっきりと分からなかった。


「楽しまれているかどうかは存じませぬが、妃殿下がご希望を口にしてくださったのですから、会話は上手く成立しているものと」

「そうだと思いたいところだな。ところでリーンハルト。お前はゲオルグについて、何か知っているか?」

「大公陛下には、お会いしたこともございませんので。知っていることと言えば、母から聞いた幾つかの出来事くらいですが」


 リリエンタールは片手で足りる程度だが、ゲオルグ大公と会ったことはあるものの、アイヒベルク伯爵は父親に会う機会はなく――リリエンタールは会おうと思えば会えたのだが、必要性を全く感じなかったため、会いに行かなかった。

 死の床についたゲオルグ大公の元に、リリエンタールが足を運んだ時以外は、全てゲオルグ大公が会いに来た――そのくらい息子であるリリエンタールは、父親に興味がなかった。


「あの娘が父親のことを話題にした時、わたしも何か返せたほうがいいだろうかと思ったのだが……無理をしない方がいいようだな」


 父親に本当に興味がないので――血統にフルネーム、生没年月日、死ぬ前に交わした密約程度は覚えているが、三十年も前に死亡した、政府庁舎の下級役人たちよりも顔を見たことのない父親とのエピソードなど、あるはずもなかった。


「閣下とゲオルグ大公が没交渉だったのは、いずれ妃殿下のお耳に入るでしょうから……先に閣下自らお伝えなさったほうが宜しいのではないでしょうか? それと、母親から聞いた、ゲオルグ大公のエピソードでもよろしければ」


 言いながらアイヒベルク伯爵も「そんなに聞いた覚えないな」と――アイヒベルク伯爵の母親は野心のあるバレリーナで、成功するために、強力なパトロンを欲し、ゲオルグ大公にいきついた。


「野心家……たしかに、ハインリヒの母親も野心家だったな」


 当時()ゲオルグ大公の元には数名の愛人がいたが、アイヒベルク伯爵の母親と同等か、それ以上の野心家は、シュレーディンガーの母親だけだった。

 シュレーディンガーの母親は物理学者で、大学で研究をしていたのだが、ライバルにより研究費用を横取りされ、研究が続けられなくなり――ゲオルグ大公のことを知り、スポンサーになってもらうべく出向き、愛人契約と共に多額の研究資金を手に入れ、自分を陥れたライバルを蹴散らし、その名を物理学史に残す。


「…………妃殿下には、ゲオルグ大公の話題はあまりよろしくないかと」

「そうだな。ただ後援していれば良いものを」


 ゲオルグ大公は女性の学者や経営者、画家などの芸術家の後援者になってくれた、当時にしては珍しい男ではあったが、その契約方法は、じつに原始的なもの(肉体関係)だった。


「この世のありとあらゆる女性を手にしたい、と言っていたそうですので」

「まあな。そもそも神聖皇帝に即位しなかった理由も、戦場で女を侍らすことはできないから……だったらしいからな」


 ゲオルグ大公という男は頭が良かったので、戦地で自分だけが女を侍らせている姿を、部下や兵士たちに見せると士気が下がり敗戦に繋がることは分かっていた……が、男だけの軍隊など女好きだったゲオルグ大公には耐えられない。

 なので彼は大勢の女と皇帝位を天秤にかけ――天秤は前者に傾き、息子が皇位を継ぐことになった。


「…………娘に、父親に似て女好きだと思われたら困るな」

「閣下にそのような噂が立つとは思いませぬが」

「娘以外の女を遠ざけろ。わたしには、娘以外、いかなる女も要らぬ」

「御意」


 そう言ったリリエンタールだが、自身が二十歳前後から始まった「子どもができました」の虚偽申告が鬱陶しく、周囲から女性を排除していたので――特に今までと変わらなかった。



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