【010】代理、第三の門を抜ける
オースルンドはガイドリクスよりも十歳ほど年下 ―― 王族の影武者となるべく生を受けた。
オースルンドは伯爵令嬢の息子だ。
ただ父親は伯爵令嬢が嫁いだ相手ではない。
オースルンドの父親は、庶民で容貌はそれなりに良かったオペラ歌手。伯爵令嬢はそのオペラ歌手のパトロン。
一般的にいえば、オースルンドは不義の子だが、伯爵令嬢の嫁ぎ先は「当代の王族に似た子」が欲しかったので、それらを黙認どころか裏から手を回していた。
生母である伯爵令嬢は王弟ガイドリクスの生母の一族。
父親のオペラ歌手はカラスの濡れ羽色をした美しい黒髪の持ち主。両者はまあまあ華やかな容姿で、オースルンドはそれを受け継いだ ―― 生粋の王族であるガイドリクスには及ばないが、オースルンドは彼の影武者を務められるくらいには、雰囲気や背格好、そして髪色などが似ていた。
年が十歳ほど離れているのは、ガイドリクスがどのような顔だちなのか? しっかりと見極めてから作るのが王家の影のやり方。
王族男子の影武者は、王家の影ことテサジーク侯爵家の当主が育てる。
オースルンドもテサジーク侯爵クリストフによって養育された。
影武者としての技術もそうだが、王侯としての風格を備えるためにと王侯にちかい生活をし、対象とほぼ同じ能力を持つことを求められ、厳しい教育が施される。
王家の影のなかで、オースルンドは「馬」と呼ばれる階級に属する ―― 当主とその次代が完全な管理のもと作り上げたもの、それは馬の交配によく似ているためだ。
王家の影「馬」の他は「犬」がいる。
「犬」は「馬」とはまた違う血筋の良さを持っている諜報員で、この二つに属するものたちは「血統書付き」と呼ばれる。
そして王家の影もう一つの階級があった ―― 「溝鼠」と呼ばれる、貧民街で拾われてきた者たち。
王家の影は血統書付きと貧民で構成されていたが、十年ほど前に方針を切り替え、新たな階級を取り入れ、王家の影という名称を捨て、隠れることをやめ「情報局」と名乗るようになった。
反対意見はあったが、時代の流れに対応するためには、このような措置をとるべきだと、オースルンドを育てたテサジーク侯爵が受け入れたのだ。
この切り替えの時期に、テサジーク侯爵はほぼ実権を失った。切り替えを進めた息子アルドバルド子爵の手にほとんどが渡った。
それに関してテサジーク侯爵は納得していた。「わたしでは、この時代は乗り切れない。フランシスがこの時代にいてよかった」と ――
アルドバルド子爵フランシス。中肉中背で総白髪 ―― もともとは色素の薄い金髪だった。灰色ががかった青い瞳の持ち主で顔だちは可もなく不可もなし。
おおよそ特徴というものがなく、性格は至って無害で、どちらかと言えばお人好しだが運には恵まれ貧乏とは縁遠く。家柄と爵位だけで准将の地位についている ―― 貴族としての彼の評価はそうだった。
その評価を聞く度に、オースルンドは口の端をつり上げて冷笑を浮かべたくなる自分を律してやり過ごす。
あの男のどこが無害な性格で、お人好しなのかと
「…………」
リリエンタールの城の塀を見上げ、オースルンドは一度だけ深呼吸をし、衛兵がつき使用人が行き来する裏門ではなく、正客しか通ることが許されない正門でもない秘密の入り口 ―― 一部分を押すと開く仕組みになっている塀の隙間を、周囲に人がいないかどうかを確認してから身を滑らせる。
塀の隙間から敷地内に入ると、足下の仕掛けで塀が元に戻る。
「さて……」
オースルンドは四方を金網に囲まれた中にいる。中は狭く腕は上がらないので、危害を加えることは不可能。
金網の囲いの一面が出入り口になっているが鍵はかかってはいない。
金網の周囲には大きな犬舎で、そこには繋がれていない大型の猟犬 ―― ローデシアン・リッジバック、カンガール・ドッグ、ロットワイラー、ウルフハウンドが総勢三十匹ほどいるのだが、一匹たりとも吠えてはいない。
「覚えていてくれよ」
ここにいるのは見張りをし異変を伝える番犬ではなく、侵入者を容赦なくかみ殺すよう躾けられた犬。
この猟犬に顔を覚えられていなければ ―― オースルンドは瞬く間にかみ殺される。
金網を体で押し開き、一歩足を踏み出す。犬たちに見つめられながらオースルンドはゆっくりと歩き、第三の門を守る番犬たちの区画を抜け、
「はあ……毎回のことだが……死にそうだ」
ドアから庭へと出たところで深く息を吐き出す。
オースルンドはこのルートを使ってリリエンタールの元を訪れるのは嫌なので、あまり通りたくはないのだが、定期的に足を運ばなければ忘れられてしまう恐れがある ―― 犬は賢いので忘れないとはいうが、猟犬たちの入れ替わりがある。
それらは通達されないので、折をみて調教師のもとへと足を運び、教え込んでもらわなければ ―― オースルンドを知らない一匹がいたらかみ殺されてしまう。
「生きたまま食われることはないからいいんだが」
ここにいる猟犬は優秀なので食い殺すということはない。一撃で首元に噛みつき息の根を止める。
同じ死ぬにしても、食い殺されるよりよほどマシだと、いつも思い ――
「ここを通るのも、今回で終わりか」
ロスカネフ王国からいなくなるリリエンタール ―― オースルンドはいつも通り、鍵のかかっていない所定の窓から侵入し、異端審問官のみが立ち入れる地下礼拝堂を目指す。
人目を避けて地下礼拝堂へと続く石畳の階段の前にたどり着くと、そこにある蝋燭に火を付けて燭台を持ち階段を下りる。
蝋燭の炎に照らし出される壁は、豪奢な城とは正反対で殺風景な石造り ―― この地下は上物より古く、かつての要塞の名残だった。
緩やかな弧を描く階段を下りた先にある、古めかしい鉄の扉を押し開けると、そこには数名の信徒がいた。
祈りを捧げているものもいれば、聖典を読んでいるものもいる。
顔見知りの一人がオースルンドに向かって頷き、再び階段を昇り、リリエンタールの元へと案内してくれた。
「おや、王弟さん。こんな夜更けに用事ですかな」
リリエンタールの部屋には先客、ヒースコートがいた。
ヒースコートは立ったままウィスキーを自らコップに注ぎ、芳醇な味わいを楽しんでいた。
「お話中のところ、お邪魔してすみません」
ロスカネフ王国の貴族でありながら、リリエンタールに心酔し、共に国を出てゆくことを明言している有爵貴族にして将校。
あまり人間に対して「苦手」と言わないアルドバルドが「苦手」という数少ない存在。
「何用だ」
氷とウィスキーの入ったグラスを手にし、ナイトガウン姿だというのに、寛いでいる雰囲気がまるでないリリエンタールに、オースルンドは頭を下げてアディフィン王国に立ち寄る際、クローヴィスを伴って欲しいと頼んだ。
「一応理由を聞いておこうか」
”建前上の理由を言え”と促されたオースルンドは、ガイドリクスとともに決めた表向きの理由を告げた。
聞き終えたリリエンタールは、頷くことすらしなかった。
「溝鼠が喚き散らしかねんな」
グラス片手に側で聞いていたヒースコートが、精悍な顔だちに心底楽しげな笑みを貼り付けて揶揄する。
「お恥ずかしい限りです、ヒースコート閣下」
王家の影の溝鼠は現在、そこかしこで持て余されている。
貴族の血を引く血統書付きと、貧民街出身の溝鼠は伝統的に相性が悪かった。
どれほど優秀であろうが溝鼠は溝鼠で、組織の中で上の地位につくことはできない。特定の技能しか知らない溝鼠が組織を動かすのは不可能。
不満を覚えるものもいたが、それらは王政下の身分制度で黙らせてきた。
そんな組織に十年前から新たな階級が入り込んでいた ―― 王家の影の新体制、情報局の支配者は士官学校を卒業した士官という正統派。
軍事関連の局ゆえ、士官が配属されるのは当然のこと。
配属された士官はまっとうな価値観を持ち、ほどよい家柄で、国家に忠誠を誓うことができる優秀な存在。
ほとんどが貴族とは無縁の中産階級から選ばれ配属された。
いままでの諜報部とは違う形を目指し、必要ゆえに主要人員の階級を替えたのだが、この庶民出の士官の下につくのを溝鼠たちは嫌がった。
”貴族はいい。だがぬくぬくと育った同階級の人間の下につくなど御免だ”
溝鼠たちは貧民街で拾われ、王家の影において他の貧民たちとの間で競い合い生き延びたプライドがあった。
だが溝鼠は公には学歴はないので士官の部下どまり。
彼ら溝鼠はそれを受け入れることができなかった。相手が貴族ならば、身分で劣っていても我慢できるが、自分たちと同じ階級で、たまたま生まれた家が良かっただけの存在に、自分たちは負けていないという思い。
だが悲しいかな、士官学校や大学を出ている士官たちは、容赦なく溝鼠を圧倒し彼らの居場所を奪っていった。
彼ら士官に悪意がないのが、よりいっそう溝鼠たちを追い詰めた。
オースルンドたち血統書付きも、自分たち以外を受け入れない溝鼠よりも、任務というものを理解している士官のほうが仕事がやりやすく、なにより意思の疎通が図りやすかった。
新体制として忠誠の対象を個人ではなく、明確に国家に変更したのだが溝鼠たちは旧来の「拾ってくれた個人」を忠誠の対象とし ―― クリスティーヌ・ヴァン・リスティラ伯爵夫人を至上とし他の命令をきかない。
もともとそのようなきらいはあったが、新体制にかわり現在実権を掌握しているアルドバルド子爵が八年ほど前から新しい溝鼠を作ることを禁じたこともあり、かつてないほどリスティラ伯爵夫人の周囲に集まり、個に忠誠を向け ―― 国家の間諜として最早使えないところにまで至っていた。
「中産階級出の士官を王妃に望んでいると知ったら、溝鼠たちは発狂して殺害しかねぬな……クローヴィス少尉を害する目的はないのだな?」
「はい」
「血統書付きと士官は仲は良いですからな」
空になったグラスをマントルピースに置き、ヒースコートがそう言う。
彼の言う通り新体制はいつのまにか血統書と士官 対 溝鼠という形になってしまい ―― 溝鼠たちは中産階級出の士官を酷く恨んでいた。
「ホーコン、なにをしたいのかは聞かぬが、ガイドリクスの妃という話題は出さぬ方がよかろう。いまそこに触れると、お前ごと消されるぞ」
「……」
「フランシスはそろそろ溝鼠を始末するつもりだ。女王の影武者も無用になるからな」
女王ヴィクトリアの影武者は溝鼠 ―― 十年ほど前まで王女に王位継承権のなかった国故、王女に関する守りはおざなりで、影武者も生まれから用意することはなかった。
「……」
女王の退位と前後して、リスティラ伯爵夫人から離れられない溝鼠たちは一斉に処分される。
そのタイミングを狂わせるような真似をしたら、オースルンドは速やかにアルドバルドにより殺害される。
「まあクローヴィス少尉の同行は許そう。レイモンド、任せた」
「分かりました。とりあえず帰りの馬車の中で話そうか、王弟さん」
自分がアルドバルド子爵にいつのまにか殺されている姿を幻視し、
「よろしくお願いいたします」
オースルンドは深々と頭を下げ、ヒースコートとともにリリエンタールの城をあとにした。