半吸血鬼ヴァーミラ・カミラの物語
半人、半吸血鬼であるカミラ・ヴァーミラの人生は過酷なものだった。
人と混ざったからか、珍しいピンクの髪に珍しいピンク色の瞳持つ異質の吸血鬼。成長が不十分な小柄な体躯に貧相な胸元。醸し出す雰囲気は力強く、小柄に見合わない威圧力がある。
その容姿はあまり重要なものではなかった。成長が止まる吸血鬼は数多くいる。問題なのは、その混ざり合ってしまった血であり、その特徴を、出自を、嫌悪するものがいるということだ。
どちらにも属せない者というのは、基本的にけむたがられたり、嫌われたりしてしまうのは世の常だろう。
人だろうが、吸血鬼だろうが、そういうものだ。肌の色が違うだけで殺戮を許容する。思想が違うから聖戦をしかける。片腕を持たない障害者を見たら避けてしまう。
カミラが属したのは吸血鬼社会。そこでは吸血鬼としての血の濃さ問われ、人間は唾棄すべき存在とされていた。
カミラは始まりのヴァンパイア――始祖と、人間の子であり、立場は複雑なものだった。高貴であるが劣等種である。能力は始祖の血を受け継いでいるだけあって高い。しかし、人間ごときが我らの社会にいることは我慢できない。
カミラは殺されそうになることこそ少なかったものの、疎まれ、避けられる、蔑視された。
ヴァンパイアの社会には溶け込めなかったから外に出た。
誰もカミラを引き留めはしなかった。彼女に味方はいなかった。
蝙蝠の眷属だけが彼女の友人だった。それが彼女の人生だった。
外の世界をさすらう彼女に、仲間ができることはなかった。
それでも彼女に声をかける者はいた。それは獣人の村の外れで、ひっそりとカミラが潜んでいた時だった。
――じゃあ、刃向かえばいいのに。
世の中に不満があるならば反抗してみろと、いう獣人の少女がいた。獣人の少女は人間が嫌いだった。たぶん、最初はカミラのことだって好きではなかった。
――アンタは意外と強いじゃんか。なら、戦えばいいのに。
半人野郎が来たから、とりあえず戦ってみようと獣人の少女はカミラに接触してきた。出会いは戦いから始まった。そこから始まる、友情とも師弟とも言えない関係は長く続いた。獣人の少女の心はいつだって真っすぐで、カミラにとって居心地がよかったのだ。
「妾は生まれてきてもよかったんじゃろうか?」
「誰も受け入れてくれなかった」
「妾は人間にも吸血鬼にも属せない。いつも、つまはじきものじゃ」
カミラが話す内容は悲壮的ではあったが、そこに感情は籠っていない。彼女の経験はもはや当然のことで、今更自分に対して不幸だとか、悲しいだとか、そんな感情はなくなっていた。
二百年も生きたのだ。もうそんなことを考えるのは飽きた。どのヴァンパイアにも言えるように、長年生きた者は徐々に感情が摩耗していく。
人間の血が混ざっている分、カミラはましではあったが、行きつく結末は確定している。
そんな自分が嫌だった。もっと感情を得たい。楽しみたい。好きなものが欲しい。
悲しみしか経験していない。これでは生まれて来た意味がない。
でもどうせ、この状況が改善しないなら、ゆっくりと感情なんて削れてしまえと、そう思った。
ある日のこと、獣人の少女はカミラに対して提案してきた。
「じゃあ復讐すればいいんじゃんかよ」
「……復讐?」
「自分を生んだやつ、蔑んだやつ、そういうやつらを見返してやるんだ! 怒るのだってひとつの感情だし、やってみてくれよ」
それは獣人の少女が人間が嫌いだったから、復讐心があったから、カミラにもそうあってほしかったのかもしれない。
カミラは人間のことはどうでもよかったが、少なくとも吸血鬼のことは嫌いだった。彼女は吸血鬼の元で生まれ、避けられていたから。
人間たちが自分を攻撃するのは仕方のないことだ。だって、自分はあまりに人間と比べて強い。
「親、か」
自分の原点。
なぜ生まれたのか、生まれてきてしまったのか。
なぜ親は自分の元にいてくれないのか。
愛されていなかった、無責任に生み出された。
そう考えると、腹が立つものはある。
始祖の話は他の吸血鬼から聞いたことがある。始祖は自らの願いを叶えるべく、世界を旅している。
所説は多々あって、吸血鬼にとって目障りな神を殺すためだとか、全生物の頂点に立つためだとか、さらなる力を手に入れるためだとか、とにかく自分本位な願いをもって行動している、ということはわかっている。
一度会ってみたい。問いただしてみたい。
そんな感情をもって、カミラは決意する。
「親を探す」
「……いっちゃう、のか」
「うむ。自分のルーツが、生まれて来た意味が知りたい」
例え意味なんてなくて、戯れで生を与えられたのだとしても。
「……また、会えるよな?」
「もちろん! 妾は長生きするし強いからな! また会えることを願おう」
さよならは言わなかった。
そのままカミラは一人、さすらいの旅へ。
獣人の少女の関係はどういったものだったのか、いまだにカミラはわからない。
けれど、これほど居心地のいい関係はなかった。これほど長く話したことのある生き物はいなかった。
相手がどう思っているのかはわからない、けれど。
――友達、だったのだと思う。
始祖は強く、冷酷である。
完璧主義者で最効率を選ぶ。手段など選ばない。
愛されていないなら、殺される可能性は高い。
人間に限らず、数多くの種族の都市を滅ぼしている、始祖という存在は。
カミラを殺すことは容易い。始祖の目の前に立つことがカミラの目的であり、そこまでいけば逃走すらできる可能性は低いだろう。
どうせ愛されていないから、そうなるに決まっていると、カミラは思っていた。
◇
カミラはゆっくり目を開く。
あれから、半年が経っていた。
眷属である蝙蝠との交信から、始祖の情報を得ることができた。意外と簡単にことが運んだな、とカミラは思う。
なぜだか、なんとなく始祖がいる方角がわかったのだ。だからこうも早く始祖を見つけ出すことができた。
これは自らの始祖の血が影響しているのだろうか?
吸血鬼の繁殖方法は二つあり、それは吸血鬼同士で性交渉することと、人間に血を分けることである。
後者の方が手っ取り早いが、能力は何段階も落ち、低位の吸血鬼に血を分け与えられた人間はゾンビに近い、理性なき獣となり下がる。
一方、吸血鬼同士の子は、能力の高い方の吸血鬼を基準とした子が生まれる。しかし、それは数が増えにくいと言われるエルフよりもはましだが、人間の繁殖力には程遠い。
吸血鬼社会では、血を分けて吸血鬼を増やすことを基本的に禁じている。それが許されるのは、人間でいう貴族、『高貴な闇』と呼ばれる、上層階流の一部のみであり、吸血鬼種族全体としての能力が堕ちないように調整しているのだ。
だが高貴な闇の大抵は長く生きており、感情はすり減っている。感情的な人間たちを侮蔑し、戦争行為を起こしてきた愚かな劣等種を唾棄してきた。
吸血鬼はその能力と、吸血行為とう特性上、他の種族からは憎まれやすく、数を減らしやすい。ヴァンパイアハンターというものが存在するぐらいには危険視されており、狩られることもあるので数を減らすばかりだ。
高貴な闇は年間何人かの吸血鬼を輩出することによって、種族の人口を維持しようとしているが、このままだと吸血鬼は絶滅するだろう。
最近は魔法技術も進み、いくら地力が強い吸血鬼たちでも、人間に押されることが多くなってきた。今や吸血鬼達の主な住処は人間が住みにくいところばかりで、そこだっていつか侵略される未来が確定しているようなもの。
時代はドラゴンでもなく、吸血鬼でもなく、人間の時代へ。
他の種族は緩やかに衰退していくだろう。何年も何年もたてば、異種族は淘汰され、人間だけが文明を謳歌することになるだろう。
「ここか」
カミラは始祖が潜伏していると思われる遺跡に来ていた。
古代遺跡。既存では再現できない技術が眠っている宝の山。
それがいまだに対して荒らされていないのは――。
遺跡の入り口に、いくつもの影がひしめいていた。
獣の姿、人型、剣などもある。
それらはカミラの姿を認識すると同時に、勢いよく展開。彼女を囲み、なぶり殺しにしようとする。
カミラは動じることもなく、血に眠る魔力を高めた。
長年の放浪は無駄なものではない。少なくとも、魔法技術においてカミラは高貴な闇すら凌駕する。それはすなわち、世界でも有数の魔術師と同じぐらいの能力は持つということ。
「ブレイズノヴァ」
地を踏み鳴らし、血を滾らせ、炎の魔力を放出する。
カミラの周囲に爆炎が巻き起こる。
影たちは塵と化し、はらりはらりと地に落ちた。
しかし、
「……不死性? 魔術的召喚? いくら倒してもキリがなさそうだ」
影の塵は、磁石が引き合うかのようにくっつき始め、元の形に戻ろうとする。
無機物、人型、獣型、この影の番人たちこそが、今まで人間から遺跡を守り続けてきた門兵だ。無限の再生能力を有する以上、戦うのではなく避けるべき。
遺跡への潜入は少数精鋭が定石となる。
基本的に軍による遺跡への侵入は、罠などで総崩れになることが多く、あまりに採算が合わないために実現することほぼない。
こういう仕事は、遺跡を攻略する専門家、冒険者たちのものだ。
カミラは影たちを無視して突入することを決意する。
行く手を遮る影達に魔法を放ち、時に殴りつけ、塵と化した影達を踏みにじって彼女は進む。
遺跡内へ侵入。そこは暗く、人間の目ではとても前に進める状況ではない。
しかし、カミラには吸血鬼としての目がある。暗闇は味方であり、むしろ身になじむぐらいだ。
カミラはかけながらあたりを見渡す。
広い通路に散らかる、古びた置物。柱が欠けて、岩と石が落ちている。無謀にもここに足を運んだ冒険者もいたようで、槍や剣、衣服などが転がっている。
しかし、死体はない。骨すら残っていないのは、どういうことだ?
一つ目の扉を開き、辺りを見渡す。
入ってきたものを含め、扉は四つ。しらみつぶしに進むしかない。
遺跡に出現するであろう番兵の気配はなかった。罠はいくつもあったが、服だけが残った冒険者達のおかげである程度の予想が経った。
まあ、この短い距離だがすでに足の裏を巨大な針で刺されたり、壁の横から迫りくる刃で腕を切り落とされたりしているが、再生能力を有するカミラにとって、それらを回復するのは造作もないことだ。
そうしてカミラは扉を開いて開き、広大な遺跡を回り続けた。
時には壁を破壊し、罠を踏み壊し、番兵どもを薙ぎ払い、なりふり構わず進んだ。奥に行けば行くほど、衣服のみ残された冒険者たちの死骸は減っていく。
そして三十日間、カミラは遺跡内を歩き回る。
魔力が付きかけたこともあったが、休憩所と言わんばかりの棺が何個かあり、そこで英気を養った。
明らかな始祖の痕跡だ。目的地に近づいている。順調、順調だ。
そして異質の番兵にであったのは、カミラが遺跡に潜って三十一日目だった。
そいつは体が扉、手足が不器用に引っ付けられているかのようで、頭は騎士、移動はいかにも不便そうに見える。
あの扉のような体に敵を押し込めて殺すのだろうか? 鉄の処女のような拷問器具を、カミラは想像した。
見つからないように、その背後をそろりそろりと移動する。
吸血鬼の隠密性は高く、これまでの番兵と同じで通用するものだと思っていた。
しかし、異質の番兵はくるりとカミラを察知し、騎士の頭から緑の眼光が零れ落ちる。
「……え」
それに睨まれた瞬間、動けなくなった。
魔眼だ。それは一部の特殊な魔術師の出、高貴な闇たちが持つもの。カミラは魔眼を受け継げなかった。彼女は半分は人間。始祖より数段劣るも高貴な闇より強く、半分人間であるがゆえに聖魔法への耐性がある。代わりに魔眼と、吸血による快楽を彼女は得ることはできなかった。
――ギィイイィィィ。
彼女の目の前で、ゆっくりとその扉が開く。
見えるは虚空。宇宙のような無限を思わせる闇。
そこに星は瞬かない。あるのは虚無で、飲み込まれればきっと――。
「いやだ」
まだなにも成していない。
楽しいことができていない。感情を振るうことができていない。
「いや、だ」
生きたいという欲望などなかった。
でも無意味に死ぬのは絶対に嫌だった。
生まれて来たのだから、意味を持ちたかった。
誰かを愛し、誰かに愛されたかった。
いつもいつも、遠巻きから、いろんな種族がお互いに喋りあっているのを見ていた。
楽しそうだった。自分も混ざりたいと思った。羨ましかった。
「私は――」
カミラは虚空の扉へと吸い込まれる。
◇
目が覚めてみれば、ここはあまりにも涼しい気がした。
「ん、あ、あれっ」
目を開いてみれば、どこまでも白い空間が広がっていた。
そして――。
「ちょっ、服、服、ないのじゃあ……」
生まれて来たそのままでカミラはいた。
二百年生きた吸血鬼にだって羞恥心はある。
必死で辺りを見渡し、なにかないかと目を凝らす。
ここは不思議な空間で、物質がぷかぷかとそこら中に浮いていた。
藻屑、ルビー、秘蹟、遺跡に転がっていた数々の物質――。
その中に、カミラはボロと化した茶色のマントを見つけた。
しかし、それはほぼ木っ端みじんというにふさわしく、細切れになった布がいくつも辺りに浮いている。
応急処置として、カミラは胸と下半身を隠した。
「ううっ、殺す……絶対殺す……」
なるほどこれが殺意か、とカミラは思った。
初めての体験だった。しばらくぶりの感情の吐露はありがたいような気もしたが、これはなにか違う。
怒りを携えた涙目になりながら、彼女は前へと進んだ。
もっとうまく体を隠すものはないかと頑張ったが、あいにくそんなものはなかった。
「……誰もいない、といいのう」
始祖には会わないといけないのだけども。
彼女はひたすら前に進む。
白い空間がいつまでも彼女の前に広がっていた。
そしていつしか、不安を覚えるようになる。
本当に前に進めているのだろうか? 後ろに戻るべきだったのでは?
自分はここを永遠に彷徨うことになるのだろうか?
恐れながらも、カミラは進んでいく。
だがどうしようもない寂寥感も、辛いという感情も、彼女にとっては慣れたことだった。
どうせ進むしかない。だからやる。
感情は余分だ。切り捨てて無心に生きることは得意だ。
そしてカミラは歩き続ける。
歩いて歩いて歩いて――。
無重力空間のような白い世界を、けれど地に足を付けて進んでいく。
なにかが起きればいいのにと思った。けどなにも起こらなかった。
番兵が現れてくれた方がましだった。戦いへの没頭は、ほんの少し我を忘れさせてくれる……。
「……あれは」
進み続けた先に、カミラは異変を感じ取った。
どこまでも白い世界。しかし、前方にはそれに反するようなどこまでも黒い世界が広がっている。
カミラは走り、その境界線上に辿り着いた。
そして境界線になにかがないか探す。
「……人?」
カミラの視界にはローブをすっぷりと被った何者かが映っていた。
その人物は木の椅子に座っており、木の机には一冊の本が置かれている。
「少しいいかのう?」と呼びかけてみるも反応がない。
仕方ないので、カミラはその何者かに近づいた。
それでも何も反応がないので、そのローブをゆっくりと持ち上げる。
――絶句した。
自分と目鼻、顔立ちが似ていた。
肌は萎れ、栄養が吸い取られてしまったかのようだ。
そしてこの『男』は吸血鬼である。同族としてそのことぐらいはわかった。
もう材料はそろっている。これが何者なのか、カミラにはわかっている。
「のう。――父上?」
返事はない。
「妾は、何で生まれて来たんじゃじゃろうか」
返事はない。
「妾は、愛されていたのかの? それとも――」
もう、語りかける意味もなかった。
死体は喋らない。当然の理は覆すことができない。
この感情はなんだろうか。
悔しさか、怒りか、それとも寂しさなのか。
初めて『親』を見たカミラの心中は複雑だった。
どうしていいのかわからなかった。
今まで必死で進んできたのに、それらすべてに意味がなかったのだと言われた気がした。
同時に、自分の生すらも否定されたような気がした。
「バカらしい、の。なんでこんなにも」
世の中はいつだって理不尽で、願いが叶わないのは当然で。
カミラは木の机におかれた一冊の本に目を向ける。
願いの書、とそれには書かれていた。
本を開いてみるも白紙。いったいなにが隠されているのか。
始祖の元に残された本に、なにか意味があると信じたかった。
けれどなにもないのだと、カミラはなかば確信していた。
それは今までの人生経験なのか、なんなのか。
もう無理だと思った。嘆く気力すらもなかった。
「父上、妾はここで眠ってもいいかの」
辿り着いた先にはなにもなかった。
でもここが自分にとっての終点だ。それでいい、と思った。
「妾は、妾は――」
悔しさが溢れる。
何の意味もなかった。
楽しいこともできなかった。
どうせどうせと嘆いてた。
もうなにもかも、終わってしまえばいい。
本気でそう信じた。
◆
一つ、二つ、三つと願いを望んでみれば。
高望みは破滅の元。
願えるのは一つのみ。
目的がないなら意思を上げましょう。
定まらないなら選択をあげましよう。
世界を救った偉大なる英雄。
世界を滅ぼした悪の魔王。
ちっぽけな願い一つにも、そこに心は宿ります。
貴賤はなく、すべては平等と信じたものを信じましょう。
◆
願ってしまっても、祈ってしまってもよいのだろうか?
天から注ぐ神の如き声を聞いて、カミラは涙を流す。
生に何の意味もなかった。愛されず、愛することもなかった。
誰かと一緒に楽しみたかった。ずっとひとりぼっちだった。孤独に耐えきれなくて、叫びたくなる時もあった。
報われないことを常とし、期待する心を押し込めた。傷つくぐらいなら心なんていらないとそう思った。
でももしそれが間違っているのなら――。
救われるのなら救われたい。もしも自分が幸せになる権利を持っているのなら受け取りたい。
その安らぎが刹那のものだとしても、自分は幸せな夢を見たい。嘘でもいい、紛い物でもいい。
生に意味はあったんだと、そう思いたい。
だから――。
◆
吸血鬼は絶滅の危機にあることを、始祖は知っていた。
滅びの運命は避けがたく、通常の力では飲まれるのは必然。
奇跡を起こすしかなかった。
確実に願いを叶える方法があることを知っていた。
そこに辿り着くまでは簡単だった。しかし、その後がまずかった。
願いの書、は手に入ればその瞬間にすべての願いを叶えてくれるわけではない。
それは切符。異界への扉を開き、ある戦いにいざなうための餌だ。
といっても、それがすべて嘘というわけではない。その戦いの勝者は、正真正銘の願望を叶えることができる。
だが始祖は知らなかった。願いの書は所詮切符。異界の門を開くのは書ではない。
代償がいる。大いなる血肉を持った魔力の塊が捧げられて、初めて扉は開かれる。
願いの書に触れた瞬間、始祖は己の失敗を悟った。
らしくない失敗だった。触れた瞬間、書が生贄を定めるなど思ってもいないことだった。
ああ――。
始祖はたったひとり愛した人間のことを思い出す。
自分は旅立ったように笑って帰り、彼女の元に戻れるのだと思っていた。
彼女は病で倒れた。一人娘を残して。
自分には義務があった。吸血鬼を救わなくてはならない。娘を置いてでも、自分がやらなければならない。
彼女の娘で、きっと器量はよく、うまく生きるに違いない。
根拠もなく、そう信じた。
始祖は人間を愛した。だから吸血鬼がいかに人間を嫌っているか気づけなかった。
自分が人間を愛したことを咎められなかったのは、始祖が強すぎたからだ。逆らうものはいなかった。
種族の王が人間ごときを愛するなど、許せない吸血鬼は多かった。
始祖が愛した人間は毒を盛られた。ゆっくりと衰弱して、死んでいった。
吸血鬼の王は無知だった。
だから娘も不幸になる。
そんなことも知らずに、始祖吸血鬼は願いの書の糧となって死んだ。
◇
「あ、店員さん。ポテト欲しいのじゃ」
「カミラちゃんまたきたの? いいわよー、サービスしちゃうわね」
「チェーン店の店員がそういうことをしてもいいのかのう……」
カミラはマクドナルドという店で一人、だべっていた。
自分が別世界に送られた、というのは自覚していた。さらに驚くべきことに、この世界に関する知識が自分には存在していたのだ。
なぜかお金を持ち、戸籍がある。
親は存在することになっているが、確認してみたところ架空の人物のようだ。
舞台は日本の島根。自分は留学生として日本に留学してきた学生であり、アメリカ人。ちんまい体にセーラーを服を着こなす女子高生? 女子中学生? だ。
……アメリカ人にピンクの髪と目を持つものがいるかは疑問だが。
ひとまず、彼女は留学生という肩書を持ちながら学校には通わず、こうしてマックやらスタバやらでだべっている。ゲームセンターでものを壊したこともある。弁償代は痛かったが、口座から引き落としたお金はいつのまにか元通りになっているのでそこまで困らなかった。
そしてカミラにはなによりも嬉しい出来事があった。
それは――。
「うーーむ、おいしいのじゃー」
満面の笑みで、カミラはポテトを頬張る。
カミラはあちらの世界から持ってこれたのは、身に着けていた反十字架のみ。
それを握りしめると、人間化できたり、半人半吸血鬼になったりで、切り替わることができた。
その反十字架の裏には二十四、という数字が刻み込まれている。……これはいったい何の意味がある数字なのだろうか。
ともかく、カミラは人間になりきることができ、感情を表すことができる。
『おいしい』は特に彼女が好きな感情で、手軽に起こせる便利な感情だ。
マックの店員がにこにこと追加のポテトをカミラの前に運んでくる。
「はい、サービスで量が二倍よ」
「わーい、なのじゃー」
「うふふ」
カミラはポテトに付属されたソースをたっぷりとつけ、にこにこと頬張る。
「妾はこのトマトソース大好きなのじゃー」
「カミラちゃん、それバーベキューソースよ」
笑顔でポテトを頬張るカミラに、擦り切れた様子はまるでない。
カミラは人間として、この世を満喫している。
けれど、心残りというか、羨ましくなってしまうものはまだまだある。
――たまに、人と人が嬉しそうに会話している時。
制服を着た外見が自分と同じぐらいの十七歳ぐらいの女の子たちが話しているのを見ている時。
その会話に混ざりたい、と思う時がある。
友達が欲しい。一緒に笑って、一緒にゲームセンターにいける友達が欲しい。
けれどカミラにはそれができなかった。
自分から誰かに話しかける、ということをカミラはしたことがなく、獣人の少女だって、あちらから話しかけてくれたから喋れただけだ。
自分から誰かに接しようという勇気が、カミラにはない。
ポテトを頬張りながら、彼女は外の景色を見て、自分と同じぐらいの歳の女の子が話しているのを見て、今日も声をかけようかとカミラは悩む。
だが二百年の歳月を生きてきた彼女にとって、新しい挑戦は難しいことだった。
おまけに、吸血鬼は長く行き過ぎるがゆえに、物事を先送りにしがちな性質がある。
いつも外の景色を羨ましげに見て、彼女は少しだけ憂鬱になる。
話しかけたい、一緒に喜びたい。『おいしい』を共有したい。
でも――。
――また、今度でいいや。
カミラは知らない。
願いには代償が必要で、戦いでそれを勝ち取らなければならない。
今の機能は一過性のもので、自分は吸血鬼となるか人間になるか、選ばなければならない時がくる。
幸せになることを夢見てた。
カミラは今、夢の中にいた。
足を一歩踏み出せば、さらなる幸福に手が届く。
「おばちゃーん、ポテトをもう一個追加で欲しいのじゃ」
「太るわよ」
「妾は太らない体質なのじゃー」
今ある日常は夢の光景。
夢を勝ち取るか、敗れるかは、今後の彼女次第。