プロローグ1
新暦四百十一年 三月二十日
――今でも、あの日の光景を覚えている。
珍しく、王都でも雪が降ったあの日。スクトは群衆がひしめく広場にいた。
どんよりとした灰色の空。地面を覆う純白の新雪。その上で湯気を上げる鮮血。十字架に張り付けられた、首のない死体。その足元に転がる男の頭。スクトの手を握る、母の手の冷たさ。母の絶叫。それらの情報で、スクトの頭はいっぱいいっぱいだった。
そして、血で濡れた剣を掲げた騎士が高らかに宣言する。
『この男、ジュード・ストレインは騎士団長でありながら、陛下を殺害しようとした。だが安心しろ!この時、この場で、ジュード・ストレインは処刑された。喜べ皆のもの。帝国を脅かす逆賊は、葬り去られたのだ!』
民集の歓声が雪降る広場を包み、母の悲鳴をかき消す。そして、スクトのそれまでの時間は、その日の雪で凍りついた。
これがスクトの最初の記憶だ。十年前の、ちょうど今日の思い出。
――あの日も、こんな雪だっただろうか。
スクトは、空から落ち、目の前のレンガ塀に積もる雪を眺めながら考えていた。だが雪が同じだとしても、スクトを包む環境は決定的に違う。
アクィラス帝国領最北端、カプリム。この土地は一年中寒く、春まで雪空はなくならない。いい加減、雪にも飽きてきたところだ。だからスクトは視線を遠くにやり、仕事を再開する。
雪の上に横たわる巨大な影。そこから放出される黒い瘴気。何も変わらない風景だ。それもスクトの生まれる遥か昔、およそ四百年前から。
四百年前、この地を支配していたのは一頭の黒竜だった。
山をも越える体躯。天すら覆いつくす漆黒の両翼。誰もがその竜を恐れ、忌み嫌った。竜が通れば街は死に、国は亡びる。人類にとって竜は天敵ではなく、天災だった。抗うことも出来ず、逃げることも能わず、ただ天の気まぐれに身を任せるだけ。皆そう思っていた。
だが災厄が突然発生するように、英雄もまた忽然と現れる。一人の男が竜を討つと宣言し、災いに立ち向かったのだ。単身で竜と戦う男に皆、無茶だと言った。狂人と罵る者すらもいた。
だが男は勝った。三日三晩の死闘の末、生き残ったのは黒竜ではなく、ちっぽけな人間だった。その瞬間から、男は英雄と呼ばれるようになる。
男の名はドラヴ・アクィラス。アクィラス帝国の初代皇帝だ。
そして竜は四百年もの間、この最北の地に眠っている。しかし大人しく眠っているというわけではない。生前から嫌われ者だった竜は死して尚、忌み嫌われている。それが嫌われ者としての意地なのかはスクトには分からない。
竜の死骸は黒い瘴気を放っていた。動物であろうが、植物であろうが関係なく、近付いた生命を摘み取る死の瘴気だ。故に、それを監視する者が必要とされたのだ。
変わらない光景を祈りながら、竜の死骸を見守り続ける墓守もどき。それが、この町の住人の役割だ。
そして嫌われ者の近くにいる者は、必然として嫌われるものだ。だからこの町は社会的に孤立している。しかし、だからこそカプリムに移り住んでくる者も少なくはない。実際、スクトもそうなのだから。
背後の鐘から、十二時を示す音が聞こえてくる。今日の当番は終了だ。つまり昼食の時間だ。
スクトは薄暗い階段に入る。さっきまでいた場所は『見張りの塔』と呼ばれていて、この町で一番高い場所だ。そして長い螺旋階段を下ると街の集会所がある。松明が揺れ、スクトの影が不気味に揺れる。明かりは松明だけなので足元が暗い。だからスクトは慎重に降りていった。
集会所には、常に六割ほどの住民が集まっている。そのせいか、ここは集会所というよりは、飲み屋か食堂といった役割の方が主だ。スクトは昼食にありつく前に、パチパチと音を立てる暖炉に向かった。
寒空によって凍らされた身体が暖炉の火を受け、ゆっくりと解れていく。服に積もった雪の結晶が液体に戻っていく様を観察しながら、スクトは悦に浸っていた。何と気持ちいのだろう。これだけで、何時間も雪を浴びたかいがあった様な気がしてくる。
「おお、スクトや。黒龍に変わりはなかったかい?」
暖炉に手をかざすスクトの横に、一人の老人が座り込んだ。老人の名はバドル。この町の町長であり、スクトがここに来た時から世話になっている恩人だ。
「ああ飽きるくらい何もなし。そもそも、何かあったらこんな所で暖を取ってられないよ」
町長は安堵の息をつき、スクトを労ってから去っていく。もう少し温まっていこう。そう思った矢先、背後から聞きなれた足音が聞こえてきた。どうやら休息を邪魔する者が現れたらしい。
「おっ帰り~スクトお兄ちゃん。寒くなかった?風邪ひかなかった?おなか空いてない?」
真後ろからタックルを食らい、危うく暖炉に突っ込みそうになる。矢継ぎ早に質問を浴びせてくる者の名はシュカ。三歳年下の少女で、町長の孫娘だ。小さい頃から一緒にいた影響か、やたらと懐いてくる。
「おーいー危ないだろシュカ。火傷するところだったぞ」
仕返しとばかりに、彼女の頬を引っ張って遊んでいると、シュカは両手を振り回して抵抗する。だが彼女の腕の長さではスクトの体には届かない。そうこうしていると、すぐ近くでギュルルという、獣の唸り声のような音が聞こえた。間違いない、腹の音だ。
目の前の少女は右上に視線をやり、口笛を吹いている。
「……さて、そろそろ昼飯食うか」
「そう言えば今日のお昼、チキンシチューだって。スクトお兄ちゃん好きだったでしょ」
少女は一瞬で立ち直り、スクトの後ろをついてくる。確かに、牛乳を煮込んだいい匂いがし
てくる。スクトは二人分の皿を受け取り、椅子に座った。
「んでね、サーヤが酷いんだよ。私の服こっそり着ちゃってさ、あれお気に入りだったのに。スクトお兄ちゃんも酷いと思うでしょ?」
シチューを口に運びながら、シュカは愚痴をこぼす。これがスクトの日常だ。妹のような少女がいて、温かい食事が食べられる。ささやかだが充分な幸せだ。
だがこの日、スクトの日常は大きく変わることになる。
最初はただの突風かと思った。丸太を組み合わせて作られた壁が、大きく揺れたのだ。しかし、それだけではなかった。木々が揺れ、鳥たちが飛び立ち、固まって逃げていく。住処が揺らされたからではなく、何か強大なものが来たから逃げるのだ。そう言いたげな様子だった。
「……まさか」
スクトの頭に、最悪な予想が浮かぶ。
「シュカ。ちょっとそこで待ってろ!いいか絶対に来るなよ。絶対だぞ」
気のせいだ、何も起きていない。さっき確認したばかりではないか。そう自分に言い聞かせながら、スクトは見張り台への階段を駆け上がる。
屋上の木戸を押し開けると、そこには何の変化もない光景が広がっていた。竜の死骸は横たわったままだし、死の瘴気も立ち込め続けている。よかった、ただの勘違いだ。スクトは肺につまっていた空気を一気に吐き出した。
規則正しく出てくる息が即座に白く染まる。帰ろう。帰って、食べかけのシチューを食べよう。そう思い、竜に背を向けると、丁度シュカが上ってきたところだった。彼女は木戸に手をかけ、片手で胸を掻きむしるように押さえ、息を整えている。おかしい。ただ走ってきたにしては、呼吸が乱れすぎている。消えたばかりの不安がスクトに語りかけてきた。
安心するのはまだ早い、と。