87 あなざーさいど14-1
アンリの初恋。
私の初恋は、恋とは知らない内に始まって、恋と知った時に終ったんだ。
その人の名前は、グレイス・ジェイネル。
私の初恋の女性。
まだ幼かった私には年上の彼女が眩しかった。
お爺様の遠い親戚の家に生まれた彼女とは、小さい時から、お爺様の家で会うことが多かった。
常に静かで、優しくて。
家の女性とは大違いだと、思ったものだ。
何かを話すわけでもなく、目が合えば微笑み合った。
幼い私と、一緒に本を見ながら感想を言ったりもした。
彼女は私の話を、楽しげに聞いてくれるんだ。
「アンリ、素敵ね?」
そう、春の風のような優しい声で。
だけど、彼女は、とても芯が強くて、幼かった私が家族以外て甘えることが出来た唯一の人だ。
「それは駄目よ、アンリ?」
「え~?どうしてさ?」
「困る人がいるから。さ、元に戻して?」
「うん…」
怒られても、怒られている気がしない。
「じゃさ、戻すから、グレイスさん、まだここにいてくれる?」
「ええ、いいわ。アンリと一緒にいるから」
「わかった」
2人なら、静かに時を過ごせた。
その時間が好きだった。
姉や妹達が騒いでいても、にこやかにその場所にいる彼女を、好きだと気づいたのは魔法学院を卒業する頃だった。
新年の集まりでのこと。
いつもならば、親族が集まるこの場所に彼女は静かにいるのに…。
「あれ?」
「どうしたの、アンリ?」
「母上、今日、グレイスさんは来ないのですか?」
「あら、そうね」
母はすぐに理由を探って来てくれた。
「アンリ、グレイスさんね、今度、結婚なさるんですって」
「結婚ですか?それは…」
良かったですね、と言おうとしたのだが、言葉が出なかった。
胸がチクンとしたのだ。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
私は彼女が好きだったんだ。
その日から彼女のことを想う日々が始まった。
なんで、もっと早くに気づかなかったんだろうか?
そうしたら、絶対に告白していたのに。
私は鈍感だったのだ。
妹達の相手探しなんかしてるから、自分のことがわからなくなってしまったんだ。
なんて不甲斐ない。
絶対に知られたくなった。
特に家族には。
私は、少し捻くれてるのだ。
だから、彼女を諦めるための努力を始めた。
女性は大勢いるのだ。
そうだ、彼女以外の女性は大勢いるんだ。
大学に入ってからは、かなりの女性達と浮名を流した。
けれども、私は真剣だったんだよ。
どの女性に対しても、真剣に向き合った。
だって、グレイスじゃなきゃならない訳じゃない。
そうさグレイスは結婚するんだから、私なんか、目にも入ってないんだ。
ならば、私の周りにいる女性で、生涯を共にしてくれる人を見つければいいだけだ。
その筈なんだ。
なのに、誰とも続かなかった。
私は常にグレイスの影を彼女達に重ねていたんだ。
大変に失礼な男だよ。
けど、さ、素敵ね、と言ってくれる女性を探したかったんだ。
せめて、そのくらい、叶えたかったんだ。
来年、大学を卒業する。
私はスタッカードを継ぐことになる。
フィーが陛下の元に行ったのはそんな頃だ。
その後、マリーの結婚も決まった。
ある日のこと、父上と一緒にお爺様の屋敷に出掛けた。
そこの居間に、グレイスがいたんだ。
何年か振りに、グレイスの声を聞いたんだ。
「あら、アンリ。久し振りね」
変わらない声だった。
胸がときめいた。
ああ、私は忘れることなど出来ていなかったんだ。
「グレイスじゃないか?大丈夫か?」
父が彼女を気遣った。
「ダニエル小父様、ご心配を掛けました。色々ありましたけど、公爵様のお陰で穏便に」
「そうか…。あんな男のことなど、早く忘れることだ」
「はい…」
「足の具合は?」
「なんとか、歩けるようには、なりました」
「良かったな」
その会話の意味を知りたかった。
とても、激しく、知りたかった。
「では、これで」
「ああ、気をつけてお帰り」
「ありがとうございます」
グレイスは私にも微笑みを残して、不自由な足を庇うように、杖を突いて去っていった。
お爺様には来客があったようで、私達は居間で待っていた。
「父上、彼女に何があったのですか?」
思わず聞いてしまっていた。
「グレイスか?」
「はい、足が悪いみたいでしたが、何故でしょう?」
「婚約者だった伯爵の家に、暴力を奮われてな…」
「え?家に?」
「たいした家柄でもないのにな。まだ、結婚もしていないグレイスを軟禁して、メイドのようにこき使っていたのさ」
「なんですって!」
大声が出てしまった。
「あ、アンリ?どうした?」
「いえ、それで?」
「グレイスの家のものが訪ねても、会わせてもらえなくてな。それで心配になって、公爵に助けを求めたんだ」
「そ、そんな…」
「しかし、それが、かえって良くなったようで、イビリが激しくなってしまったようだ。仕舞いには階段から突き飛ばされてしまったらしい。その時に足を怪我してしまったんだが、碌な治療もしてもらえずに。可愛そうに、足を引き摺って歩くようになってしまったんだよ」
「なんてことだ…、」
「それを聞いた公爵が怒ってな。相手の家に乗り込むって騒動がつい先日のことだった」
「乗り込んだんですか?」
「いや、逆恨みが怖いから、やめてくれと、グレイスの父が止めた」
「そんな家など、どこが怖いのですか!」
「アンリ?」
「たかが伯爵ではないですか?」
「いや、グレイスの家は准男爵だ。逆恨みは充分に考えられる」
無性に腹が立った。
彼女にはなんの落ち度もないではないか!
「それだけの仕打ちをして置きながら、ダンスも踊れない娘は嫁に相応しくないと、追い出したそうだ。まともな家ではない」
そうですか。
と返事をしたつもりだったが、私の頭は、どうやってその家に報復するかしか考えていなかった。
「アンリ?どうしたのだ?顔が青いぞ?」
「あ、いえ、なんでもありません」
「おまえ、そんなにグレイスと仲が良かったのか?」
「いや、別に…」
父上はそれっきり、黙ってしまわれた。
あ、じゃ、グレイスは独りなんだ…。




