海を見下ろす丘で
私はアルブレヒト・ホフマン中佐に嫌われているようだが、『幸運亭』の守護天使、三本脚の勇敢な元・軍用犬であるリンツにも嫌われているらしい。
私は散髪をテレーゼにお願いすることになり、彼女は中庭に古ぼけた椅子やシーツなどを、上機嫌で鼻歌などを歌いながら用意していたのだが、いつの間にかリンツが現れて、椅子に座るわたしの正面に陣取ったのだった。
一本だけ残った前足に顎を載せ、上目づかいに私を見ていて、その様子はまるで私の監視だった。
私が身動きすると、低い声で唸り、犬が苦手な私は少し怖い気がしたものだ。
「リンツ? どうしたの?」
シャキシャキとハサミの小気味良い音を立てながら、伸びっぱなしの私の蓬髪を切る彼女が言うと、ちょっと尻尾を振るのだが、私を睨みつけるのはやめない。
首にシーツを巻いて、手も足も出ない無防備な私の恰好が気になる。
ためしに、リンツに向かってほほ笑んだりしてみたが、返ってきたのは地獄の底から響くような唸り声だけだった。
ばさばさと、私の赤茶けた髪がシーツを伝って地面に落ちて行く。鏡がないので、現時点で私の髪がどうなっているのかわからないが、短くなっているのは確かだ。それだけで、十分ではある。
私のいつもの癖なのだが、散髪されていると眠くなる。
テレーゼに髪を梳かれ、霧吹きで湿らされ、ハサミで整えられ、耳元でシャキシャキなるハサミの音や彼女のハミングを聴きながら、私はトロトロと眠ってしまっていた。
建物で、風から守られた中庭は、弱い冬の日差しでも暖かく、テレーゼの石鹸の香りと、港からの潮の香り、リンツのお日様の香り、遠くから聞こえるカモメの声、それらが混然となって眠りと覚醒のはざまを漂う私に押し寄せ、私のどこか深い所でシンと冷えて固まっている何かを溶かしてくれているようだった。
気が付くと、一粒、二粒と涙が流れ、シーツにポトリと落ちた。
テレーザが私の背後から、正面に回ってくる。
涙を見られる。それが恥ずかしくて、私は顔をそむけた。
不意に私の横顔に、テレーザが額を押し付けてきた。
「大丈夫。きっと大丈夫よ」
子供をあやすように、彼女が囁いた。
その後は、何事もなかったかのように、彼女は散髪を終え、私の首に巻いたシーツを取り、服に着いた細かい毛をブラシで払ってくれた。
私は、まともに彼女の顔を見る事が出来ず、うつむいたまま、もごもごと礼を言って、中庭を去った。
そのまま、部屋に戻る事が出来ず、港を見下ろす丘に向かった。
眼下に見える海産物加工工場に偽装したP作戦本部のドッグでは、後期型ペンギンが艤装されており、実機を使った訓練が終われば出撃してゆく。
勝機の見えない絶望の海へと。
「わからんよ、私にはわからん」
この戦争に意味があるのかと問いかけてきた、ボーグナイン少尉の言葉を思い出す。
連合軍の宣伝では、独国は絶対悪になっていて、我々は全員世界征服を企む頭のおかしい集団ということになっている。
だが、世界はそんな、絶対正義のヒーローが活躍するジュブナイルのようにシンプルではない。
私はいちいち大げさなちょび髭の伍長殿が大嫌いだが、彼だって最初は欧州全体から殴られ踏みつけられている独国をなんとかしたいと思っていただけのはずだ。
多分、私は、殺したり殺されたりすることに倦んできただけなのかもしれない。だが、嫌になったからといって、もうやめる事は出来ないのだ。
独国も、ちょび髭の伍長殿も、そんな状態なのだろう。




