帰還したペンギン
短期入院となったバウマン大尉を見舞い、ロストック港のP作戦本部にレポートを提出する。
久しぶりの陸上生活だ。風呂に入ってひと眠りしたら、床屋でさっぱりするのもいいだろう。
我々はまるで、露国の懲罰大隊の兵士のように汚れて、髭も髪も伸び放題なのだから。
若い連中(といっても、私とは五歳とはなれていないが)は、身づくろいもそこそこに、町に繰り出している。
飲んで歌い騒いで、心の中に溜まった澱のようなものを洗い流すつもりなのだろう。
私は、騒ぐ気にならず、『幸運亭』の自室にこもって、短いが激しい戦闘を潜り抜けた体験を通じて得た問題点を、技術士官のフェルゲンハウワー中尉に提出するための申告書を仕上げていた。
入院中のバウマン大尉にも目を通してもらい、連名で提出しなければならない。面倒だが、士官の義務だ。仕方がない。
書類仕事に疲れ、無造作に置かれた聖書を見る。
無事に帰ってくるためのまじないだといって、幸運亭に残した私物だ。そのまじないが効いたのかどうか知らないが、私は危ういところを何度も経験しながら、掠り傷ひとつなく帰ってくることが出来た。
これを、渡しに来た幸運亭を運営する家族の長女テレーゼ・バルシュミーデの顔が浮かんだ。
人のよさそうな丸顔に、緑色の瞳。彼女が私を見てひらりと笑って、
「ほら、ね」
と、この聖書を差し出したのだ。
その時、私が何と答えたのか、思い出せない。バウマン大尉なら、気の利いた返しが出来るのだろうが、私には無理だ。どうせ、もごもごとお礼を言ったに違いない。
グラスに一杯だけもらった、ライン・ワインを飲む。銘柄を聞いたが、もう忘れてしまった。私はあまりワインにこだわりがなく、赤いか白いかしかわからない。今、飲んでいるワインは白だ。
書き上げた書類のインクを乾かすために、吸い取り紙を慎重に乗せて押さえる。そして、書類をそのままにして、寝支度を始めた。
鍵かかかるキャビネットに収納するために、ホルスターからワルサーP38を抜く。この無骨な軍用拳銃で撃ったボーグナイン少尉の事を、不意に思い出した。
両足を無くし、死ぬのを待っていた若者。
漂白された紙の様な顔色。
泣きわめきたいのを、必死にこらえていた勇気ある若者でもあった。
本来は高山植物を調べる学者の卵だった。
アルペンローゼの花が好きだと言っていた。
この部屋の調度品に本棚があり、植物図鑑があった。それで、アルペンローゼを調べてみる。アルプスに咲く小さなバラ。白黒の写真だったが、私にはその可憐な赤い花が見えた。
「許してくれ」
アルペンローゼのイラストを指でなぞり、謝罪の言葉を囁く。
彼を勇者のまま死なせてやりたかった。だから、私は引き金を引いた。
拳銃を握る手。
武器を持つ手。
殺したり、殺されたりする者の手。
常に選択はそうした者の目の前に突き付けられ、考える時間もなく選択肢のどれかを選ばなくてはならない。
私は常に良い選択肢を選んでいるのか? なぜ私の選択には死が付きまとうのか?
「この戦争に、意味があるんですよね?」
ボーグナイン少尉の言葉が、いまだに私の胸に刺さっている。
私は、血を吐くような彼の問いに答えてやれなかった。
たとえウソでも「意味はある」と答えてやるべきだったのかもしれない。それが、悔やまれて仕方がない。




