敗残者
起き上がろうとすると、背中に激痛が走った。
痛みは左目の上にもあり、そこは吹き飛んできた海図台が当たった場所らしかった。
爆発の衝撃で、飴細工のようにひん曲がった手すりにつかまって、悲鳴を上げる体の節々をなだめながら、立ち上がると、自分の船の惨状が、目に飛び込んできた。
穴だらけの船体。
吹き飛ばされて原型をとどめていない艦橋。
ポンポン砲の集中射撃を受けて、スクラップと化した、前甲板の機関砲と射撃指揮所。
水船になりかけて、傾いている甲板。
排水ポンプを動かす発電機が破壊されたのか、手動のポンプで排水を行っていて、それでこの船は辛うじて浮かんでいられるのだった。
遠ざかるアネモネ号の姿も見えた。輸送船の追跡を再開しているらしい。
主砲が砲撃を開始している。更に遠くに見える輸送船に着弾の火柱が見えた。
腕時計を見た。我々が決死の覚悟で稼いだ遅延は、わずか五分だったことがわかった。
アネモネ号は老獪で、火力もあった。
我々は、あまりにも貧弱だった。
足の遅い輸送船は、いい的だ。アネモネ号は次々と砲弾を直撃させ、輸送船は一方的に撃たれるばかりだった。
操舵装置が破壊されたのか、砲弾を避けるためのジグザグ航行すら行っていない。
黒煙が吹き上がる。火災が、手を付けられない状態にまで延焼したことを示している。船長は苦渋の決断で退去命令を出しただろう。
小さな爆発が二度、大きな爆発が一度、輸送船で発生し、輸送船は沈没を始めた。アネモネ号は、それを見届けると回頭し、沖の方角に去ってゆく。
我々は、すでに傍観者にすぎなくなっている。航行能力を失った現在、出来る事はもうなかった。
敵の航空機が海域に到着する。望遠鏡で見ると、白い星のマークが見える。英国に駐屯する米国の航空隊のものだった。
狙うべき輸送船は、もうない。海上には、船の残骸と死体。そして、砲撃を生き残ったたった2隻の救難ボートが浮いているだけだ。
米国の航空隊は、名残り惜しそうにしばらくの間、輸送船が沈んだあたりを旋回していたが、やがて、高度を落として救難ボートを執拗に機銃掃射しはじめた。
「何やってんだ、あのちくしょうめら!」
なんとか船を動かそうと、エンジンの修理を行っていた機関士のシュルツが叫ぶ。Sボートの生き残った6人が、舷側に並んでその凄惨な場面を見ていた。
「ああ、クソ!やめろ!やめろ!」
我々は地団太を踏んで悔しがったが、何をすることもできない。備え付けのライフルを持ち出してきた者もいたが、蛮行を繰り返す戦闘機は、射程距離のはるか先である。
米国や豪国の兵士が、独国の同盟国である日国の兵士に対して、これをよくやるという噂を私は聞いたことがあった。
捕虜から情報を得たいのに、捕虜が極端に少なく、困った上層部が懸賞金をつけたら、いきなり捕虜が増えたという笑えない話もある。
救命ボートはズタズタに裂け、辛うじていた生存者はこれで皆無となってしまった。
機銃を撃ち尽くしたか、燃料が少なくなったか、面白半分に海面を掃射していた戦闘機が飛び去る。
破船となってしまった我々は、止めすら刺されずに放置された。手を下さずとも沈没するのは時間の問題だと思われたらしい。
私は決断を下さなければならなかった。船乗りが、もっともしたくない決断の一つを。
「ゴムボートを出せ。退去するぞ」
疲労とショックで表情が抜け落ちた、生き残りの乗組員が私を見る目は、まるで2つの暗い穴の様だった。