ラス岬に向かって走れ
砲弾と燃料の補充が終わり、『乳牛』は素早く撤収作業に入った。数日このフグロイ島の入江の底に留まり、我々の帰りを待つそうだ。
英国本土のラス岬と往復すれば、ペンギンは予備の燃料タンクまで使い切ることになる。再び我々の補給を終えたのち、帰投するということだ。
「何もせず、沈底するのも『乳牛』の役目の一つだよ。まぁ訓練生には、丁度いい耐久訓練になる」
トマス・グスタフ艦長は、そんなことを言って、パイプをふかしていた。
浮上中しかできない貴重な娯楽がパイプやタバコだ。
我々は、工作員を乗せて夜の海に出る。警戒厳重な地域は、夜間でも哨戒艇やフェアリー・ソードフィッシュなどの哨戒機が巡回しているらしいが、ラス岬周辺は大きな都市も重要な軍事拠点もなく、切りたった崖と言う地形もあって大規模な部隊の進攻もあり得ないことから、重要巡回地域から外れているらしい。
ただし、HF/DFといった無人でも運用できる装置は沿岸にそって設置されている可能性があるので、通信封鎖は必須だ。
「登れる場所はあるのですか?」
装填手脇のハッチから顔を出して、物珍しげに夜空を見ているカエルに私は聞いてみた。
「ないよ。そんなところはない。だから、トミー(英国兵の蔑称)どもは、油断してるんだ。そこを衝くため、彼女らは、登攀の訓練を受けているんだよ」
まだ戦争になる前、私は商船の航海士として勤務していたが、ラス岬は見たことがある。ほとんど垂直の崖のが何キロも連なった場所で、風が強くて木も生えない荒涼とした所だったと記憶している。
そんなところを、彼女らはたった二人で登ろうというのだろうか?
「失敗したらどうなるのですか?」
私は、思わずそんな縁起でもない事聞いてしまった。カエルは気分を害した風もなく、
「死ぬ。そしてまた、別のチームを派遣する。成功するまでやるよ」
そんなことを、天気の事でも話すように言ってのけたのだった。
諜報の世界とは、実に恐ろしい世界だ。銃弾が飛び交う戦場とはまた別種の恐怖がある。
海は、珍しく穏やかだった。私は暗視双眼鏡で海面を臆病なネズミの様に、キューポラから頭を出して、四方を観察していた。
フグロイ島に着陣する際に遭遇した巡視船のような、探照灯も見かけない。空からの突然の襲撃もなかった。
ペンギンは極秘に開発され、前線に投入された機体だ。諜報の分野が優秀な英国は、不思議と独国の艦船の位置を把握しているのだが、ペンギンだけは見つけることが出来ないでいるらしい。
まさか、Ⅳ号戦車を無理やり海上を航行できるように改造したとは、想像すらしていないだろうから。
靄が出ていないので、月が明るい。
凪いだ海面に映る月を裂いて、二機のペンギンが走る。
それはまるで、英国のケルト神話に出てくる夜の子供たちの姿のよう。
ヒュルヒュルと鳴る風の音はバンシーの叫び声か。
P-07の乗組員は、誰も何もしゃべらなくなった。英国領海に深く入り込んでいるということが緊張感を生んでいるというというのはある。
しかし、それより、灯火もなく夜の海を全速力で走り続けているという非現実感が、闇を恐れる人間の原初の恐怖を呼び覚ましたのかもしれない。
「見張り、替わりますよ」
機銃手待機席にいたエーミール・バルチュ伍長が、艇長席の私の所に来ていう。気が付けば、ぶっ通しで四時間もここに座っていたことになる。
私の背中の筋はこわばり、足は痺れていた。伸びをすると、背中と肩がポキポキと鳴った。
「では、一時間休ませてもらう。岬が見えたら起こしてくれ」
冷え切った体に外套を巻きつけ、操縦席の脇にある機銃手待機席に座る。
私の横では、同じように外套を巻きつけたカエルが寝息を立てていた。
ラス岬は、もうすぐだ。




