カエル
霧の中からぬっと現れたのは、小型の漁船だった。全長十メートルほど、四トンぐらいの船だろう。船外機が動力ではない漁船では最小の部類に入る船だ。
エンジンを切り、惰性で岩場に近付く様子から、このあたりの海域に慣れているのがわかる。岩場の返し波を利用して、回頭したのも見事な腕前だった。
船尾を晒したので、刻まれていたこの漁船の名前も見えた。『第十一マルメ号』。造船都市マルメから採った名前と番号だけのそっけないネーミングだった。
人影が霧に霞む船上で動き、アンカーが投げ入れられる音がした。そして、小型のファルトボート(組み立てカヌー)が船尾から降ろされる。
その様子から、船には最低二人乗っていることがわかった。
パドルを器用に操って、カヌーが我々の方に近付く。そして転覆することもなくP-08にカヌーが横付けされ、差しだされたP-08の機銃手ギュンター・ブッシュバウム一等兵の手にすがって、男が一人P-08のシュルツェンの上に体を引き上げる。
それは、小柄な男だった。しかも極端な猫背のせいで、更に小さく見えてしまう。凹凸の乏しいのっぺりとした顔をしており、目ばかりがぎょろりと大きいので、まるで……
「カエル」
P-08の艇長、バウマン大尉が小さな声でつぶやく。そう、カエルそっくりなのだ。
「フェロー諸島にようこそ」
これが、英国への自治回復運動を扇動している工作員の顔なのか?
愛嬌のある、無害そうな顔立ちだった。スパイ工作には、逆にこうした警戒されない顔の方が良いのかもしれない。
「弾薬と燃料以外は大抵揃えることが出来ます。海軍局からの情報も伝えることが出来ます。フェロー諸島に駐留しているトミー(英国軍兵士を示す俗語)どもは、揃いも揃って間抜けだから、心配いりませんよ」
言語は明瞭で、快活。加えて愛嬌がある外見。これで、相手はコロッと騙されるのだろう。
「このあたりは、英国からきた漁民は寄り付きません。海流が複雑で、岩礁が多いうえに、冬季は霧が多いですからね。生え抜きの地元漁師じゃないと、なかなか……ね」
工作員は、名前を名乗らなかった。情報の共有はなるべく狭い範囲で行うのが諜報の基本らしい。
「どう呼んだらいいのかね?」
バウマン大尉が、紅茶を勧めながら問う。ペンギン同士の交信に使う無線機で、彼と連絡が取れるらしいのだ。
「そうですね、では『カエル』とでも、お呼び下さい」
大きな目玉をくるりと廻して、工作員が言う。バウマン大尉はバツが悪いような顔をして、肩をすくめた。
彼が、やり込められるのをみるのは実に珍しい。




